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【花も嵐もIII】終楽章

2015年10月 2日 (金曜日)

むかしの話 ─ 花も嵐もⅢ その85

わたしが若いころ、つまり子どもが小さいころから大人になるまでの間、わたしは色々なところに旅(ツーリング)をしてきました。そしてまずまずマメに足跡を日記に残してきました。

その日記や出来事そのものにもウチの子どもはあまり関心を持とうとしない ─ 聞こうとも読もうともしない ─ みたいです。

早い話が、父親の若いころにはどんな遊びをしていたか(またはどんな暮らしをしていたか)などということにはそれほど関心がないのです。

これは、わたしが子どものころに父親に昔の話を聞かせて欲しいとせがんだ様子とは、とても大きな違いだと思います。

こういった現象(傾向)は、昭和末期から平成に掛けての子どもたちには当たり前のようにみられることで、言いようによってはマイペースで個人主義の表れです。あまりにもこのごろになってから顕著になってきているようで、些か驚きます。

その理由を次のようにわたしは考えます。

世の中の成長曲線がなだらかになって、社会の変化率が小さくなってきたことは明らかです。不況ではありますが、安定しているともいえます。そんな日常で、何事に向けても好奇心や関心が薄れているのでしょう。

いつも何らかの形で満たされている状態で、お金があれば何でもできるという冷めた感覚が存在するのかもしれません。

自分なりに誰の影響も受けずに、ある種の平和を確保し、楽しそうなものを楽しもうという考えでしょう。受験もほとんど苦しいイメージを持たずに推薦で合格し節目は楽ちんに通過していく人が多いし、浪人という考え自体がかなり死滅しかかっているわけです。みんなのらりくらりと誰かの指導を受けて作られた道をきちんと歩む。

そうして生きていれば、これから新しい楽しみがやってくるし、それなりに夢が実現できてゆく。そう考えるのが一種の真面目な人の考えだ。そういうところでしょうか。

ですから、父親の生き方やその記録なんてのは、一種の古いスタイルであり、いわば歴史的レトロであるわけです。わたしには関係ないむかしの話だし、これから楽しむとすれば、レトロというジャンルで特別扱いになってしまう。

以前、日記のどこかにも書いたが、子どもというものは親の足跡や日記を読もうとはしないし、あまり熱心に話を聞こうとしないのは別に普通のことです。これは、50年くらい昔の子どもでも同じで、子どもとはそんなものでしょう。

それが大人になって、親を亡くしてしまうころから変化し始める人があります。

わたしに当てはめて言えば、父や祖父が(母や祖母でも)日記を遺していたら間違いなく貪るように読もうとしたわけで、何か記録に残ったものはないかと必死で探したり、老人に話を聞きに行ったりもしたのでした。

だからといって、子どもたちに先取り精神を教えてやろうというのは正しいとも言えないでしょう。若いうちから自分の一世代二世代むかしの人から話を聞きなさいな、というのも出過ぎているかもしれません。

その子がおとなになったときに、何をどう感じるかはまったく想像はつかないけれど、所詮儚いものなんですから、無理に伝える強引さはいけないのかもしれない。

調べたくなったときに発掘する資料を残しておくだけでいいのでしょう。そんな気がします。

2015年9月 5日 (土曜日)

北海道 ─ 花も嵐もⅢ その84

長~いバイク仲間のえみさんが八月の下旬にフェリーで北海道へ行ってしまった。FACEBOOKやInstagramで届いてくる景色や食べ物や野営の様子などを見ていると、バイクを降りてしまっている私であっても、グイグイと心を揺り動かされる。

砂埃を巻き上げながらオートバイで山道を駆け上がってゆく自分の姿が、今さら蘇ることはないのだろうと思うと少し寂しいのだけれど、あの時代の私だって、あの時代なりに一生懸命走り回ったのだから、それはそれでいいと思うことにしている。

懐かしいとか戻りたいとか再び駆けずり回りたいとか、もう一度冒険心を燃やしたいとか、そんなふうに思うことを「寂しい」というのだろう。しかし、「寂しい」のはそれ自体が「悲しい」ことではない。

今のように道具も地図も情報も充実していなかった時代であったからこそ私らしくあれたのだ。

自分の頭のなかに大きな構想として未知の大地を描き上げて、ルートを思案し、作戦を練ってチャレンジできたのだ。

お金がなかったし、十分にモノがあったわけでもない。それでも、快適でないとわかっていながら、必死で自分の夢に向かってぶつかていった。

寝ても覚めても無我夢中の精神があったからやれたのだろう。

便利なモノがあの時代の人々により実現化して、割と不自由なく満たされている今のツーリストたちとは違って、歓びや失望の凸凹レベルの差が烈しかった分おそらく驚喜になれるときの味が濃かったのではないだろうか。

えみさんの北海道は、もはや私の時代のツーリングステージではなく、今の時代のステージの上のものである。そう考えて楽しませていただいている。

だから、自分の昔を懐かしみ昔は良かった…みたいなことは思わない。

むしろ、あまりにも上手に満足のいく楽しい旅をしているので、もう一度生まれ変わって、30歳ほど若返って、チャレンジできるならやってみたいと夢見てしまう。

えみさんは、一生懸命に仕事をこなして、勝ち得た時間をフルに活用して、一分一秒も無駄にせず旅を充実させている。いつの時代だって若者は一直線だ。それが素敵で美しい。

私にはもうそんなふうに夢中に立ち向かってゆくような情熱も行動力もなくなった。

だから、多くのツーリストたちがみんな一生懸命に旅のために普段からがんばっているのを見ていると、ちょっと自分が情けなくなることも、正直いってありますけど…。

次のステージへと自分で決めたのだから、刺激を受けて新しいことを始めねばならないと、自分の心に鞭を打っている。

2015年7月 5日 (日曜日)

写真のない日記 ─ 花も嵐もⅢ その83

あのころのわたしは写真をのせることを嫌いました。どうしても、旅日記を文章で読んでくれる人を惹きつけたかったのです。

絵や写真が作品に入ることを評価しないわけではなかったのです。しかし、読み手の人が本当に没頭して読んでくれるためには目に飛び込むものは活字だけなくてはならない、写真があるとパラパラと写真を眺めて終わってしまい、中身までは読んでもらえないのではないかとと強く感じていたのでした。

それは今でも大きくは間違っていないと思います。ただし、写真のメディアが発達して充実したので、今では新しい芸術作品としての写真を取り入れた日記の形が出来上がっています。

これからはなお一層文字だけの作品は流行らないのだろうと思います。それって、落語を聞く人が減っていったのにも似ているかもしれません。40分も掛けて長い話を聞くよりも、1分で「がはは」と笑って「ハイ!次は?」って進む。

一見して難しそうであっても綺羅びやかで格調・品位が高そうだという理由で歌舞伎に人気が出たりしている一方で、目の前の多くの動画メディアでは、映像を重視する作品としてではなくストーリーに注目する映画が流行って(収益が上がって)いると、レベルの低下を感じざるを得ず少し残念になります。確かに儲からねばいけない訳はわかりますが、残念です。心も貧しく見極める感覚も低下する、そういう時代なんだと思っています。が、むしろ時代に乗り遅れる人はアホなんです。

というわけで、わたしはアホの走りだったのです。

将来を読み将来に生き延びてゆくこうとするならば、多少の考えの違いがあっても新しいものを取り入れてゆくことは欠かせない選択です。あのときのわたしも割り切って、多くの人に情報として旅のあれこれを届けることに一生懸命になってもよかったのだろうと振り返ることがあります。

コツコツと自分で切り拓いてきた旅の楽しみ方や味わい方を、他人がお金をかけて安易に実現していくのを見て真似されたくなかった。一種の横取りされるような気持ち─雑誌などの商業メディアに盗み取られるように感じたのでしょう。そうしていつまでも、自分の旅のスタイルにこだわり続け、譲りたくなかった自分の意地を張りとおした訳です。見方によれば失敗だった。

だから、わたしの旅日記にはそういうわけで写真がほとんどない。けれども、わたしの旅のスタイルはあの時代で完結したと思っています。

カメラは人一倍好きでしたからいつも持ち歩いていました。ちょっとイカす写真を撮りたいといつも思っていました。でも、ツーリングのときに撮った写真は狙い過ぎの傾向が強く記録作品としては結果的に駄作が多い。枚数も少ないのも残念です。宮本常一さんの写真の本を見てもわかるように、記録を撮る姿勢はとても大切です。

デジカメの時代になってからあまりハードな旅をしなくなった。天気予報にしても到達先の現地情報も簡単に手に入ります。そんな情報武装をして旅をすることに反発を持ち続けたのでした。iPhoneを持って日記代わりの写真を撮っているくせに、便利さ・手軽さゆえに味わいを奪い去ってしまったことを残念がって、新しい道具が提供してくれる旅の楽しさ、主張する感動や歓声を拒み続けたのです。

次第に旅が詰まらなくなってきます。完成ながらに未知を目指す旅が消えていくのを感じながら、新しい旅のスタイルってのがあるはずだ、それをを楽しみたいと思う。恩返しもしたいと考えるようになってきました。情報がお金で買えて安易に流通するようになった時にバイクをやめようと思い始めます。

そしてそれから数年で手放してしまいました。39年のバイク生活でした。でも終わったとは思ってません。スタイルたを変えて再開することだってあるでしょう。根っからのバイク好きですから。

2015年5月22日 (金曜日)

赤いバンダナの話 ─ 花も嵐もⅢ その82

1度だけ、赤いバンダナの話を話したことがありました。
鶴さんからもらったバンダナのことです。

とても強く烈しく京都に一緒に行くことをわたしは鶴さんに望みましたが、叶わいませんでした。だから、京都に来て社会人になって働き始めてからも切実に鶴さんのことを思い続けていたのです。

1983年夏、彼女に会うために東北へ旅に出た日記があります。
福島県郡山市大槻町にある鶴さんの実家を訪ねており、お兄さんとお母さんと三人暮らしの鶴さん宅に一泊世話になっています。

次の日は朝から雨で、二人乗りで阿武隈洞を観光し、その夜はワシントンホテルに泊まっていると書いています。ホテルの名前は記録していますが、出来事の詳細は日記では触れていません。

旅の日記はいつも必ずきちんと書くようにしてきましたが、この東北の旅日記には幾つもの欠落があります。旅の途中で郡山市に到着し、それから自宅まで帰り着く間の日記は、ペンを持つ力さえ抜け落ちてしまったのかと思わせるようなものです。

断片的になったり欠落しているのは、意図的であったのか。強烈に記憶として残ったが故に書き残さなかったのか。

わたしにしたら、あの年の東北の旅における郡山市での出来事は、どんな些細なことであっても、疎かにはできなかったはずです。

では、哀しみに打ちのめされて書けなかったのでしょうか。

阿武隈洞に行き、その夜は駅前の街の居酒屋で飲んだはずです。その後、ワシントンホテルの階上で食事をしています。この日の日記の最後に、赤いバンダナを買ってもらったと一行だけ書いている。

どこで買ったのか、何のために買ったのか、不明なままです。

何故、書き残さなかったのか。そのバンダナは、それから何年もの間、バイク旅のお守りとして肌身離さず持ち歩き、首に巻いてトレードマークにしています。

しかし、あるときそれを風に吹かして飛ばしてしまいました。何故飛ばして失うようなことになったのか、それは覚えています。しかし、それ以上に詳しくあのときに彼女と電話で交わした言葉や衝動的な気持ちの一部始終は、わたしはほんとうに覚えていなかったのだろうか。

忘れようとしたわけでもないだろうと思います。とても大きな衝撃であったならば、忘れようとしても、自由自在に忘れられるというわけがない。忘れるということに意志が働かせることはできない。

それだけに、余りにも失意のどん底でありすぎた、とでもいうことでしょうか。

だから、バンダナの話は1度だけで、鶴さんが買ってくれたバンダナを、いつもどんなときも大事にしていたことだけ、家族には話したのでしょう。

ツマはその話をほんの少しだけ聞いて深く頷いてくれたのでした。


鶴さんを読み返してみました。
このシリーズで少し触れています
終章 その4  -ネオン消えバンダナ赤し夏の夜-  [第61話]

2015年4月30日 (木曜日)

GW 花も嵐もⅢ その81

瓶が森林道

1999年のGWは四国を走った。その10年前に初めて行って以来3年に2回以上のペース(10年間で8回)で四国へ行ったのだからとても気に入った場所である。

何故四国に行くのかを問われると困る。ただただ惹きつけるものがあるのだ。心を奮わせてくれるところなのだ。

たぶん他人に薦めても同意を得られるとは限らないだろう。むしろ変に同意されても迷惑だ。意味もわからずにカタログやバイク雑誌に流されてスポット情報を持った連中がウヨウヨと歩きまわってもおもしろくない。

自分の力で四国の良さを発掘して心から陶酔してくれるような人たちがたくさん集まって欲しいなと思う。別に意地悪を言うつもりもないが、食い物でいうならば、味もわからないのに旨いと思えと言われて旨いと答える人たちばっかりだったら味とは一体なんだろうと考えさせられて寂しくなると思う。四国というところを走る人は四国を愛して欲しいし大切にして欲しい。いつまでも守ってほしい。

連休はたいてい1週間以上の連続休みにしてツーリングに出かけた。日常をここで爆発させていたのではということもできようが、この時間がわたしの本当の時間であり、普段の仕事に向き合う時間とは二つの顔だったと今になって思う。別にストレスを発散するわけでもない日常のウラにまた日常があったような感じ。

写真は瓶ヶ森林道である。寒風トンネルが完成してしまってこの辺りも姿を変えつつあるのだろう。10年15年の歳月は鄙びた景色を全く変えてしまうだろうから。

あのツーリングでのことを思い出したいようで思い出したくないような複雑な気持ちだ。今はあの時代ではないし、あれは思い出だ。わたしが死ねば消えてしまうし、誰かに受け継げるものでもない。あの景色や空気はあのときのわたしだけのものだったのだ。

また行きたいねと思う。でも、今度行くときは新しいステージでの旅だ。

ツマも連れて行きたい。やりたいことも見たいものも昔とは変わってきている。わたしも歳を食ったのだから、もしも行くならば新しい旅のスタイルで行こうと思う。

2014年12月24日 (水曜日)

人の輪 花も嵐もⅢ その80

ユースホステル(YH)を利用する旅をしてきた。値段が安かったというのが大きな理由だ。寝泊まりが出来れば相部屋でも構わなかった。

ユースホステルには談話室というところがあって、お互いの情報を共有できたり、ひとりでくつろいだりできるように工夫されている。

初めて利用したのは、井上君と旅をしたときで、信州のまほろばYHと諏訪湖YHだったと思う。二人連れの旅で、他のグループとも共有になるものの、自分たちも同じ部屋に泊まれるので重宝した。

19890

バイク旅のわたしは1人旅だったので、宿に着くと談話室のスペースでゆったりとするのがいつものパターンだった。

談話室にぽつりんといて地図を見たり日記を書いたりしていると、同じような旅のスタイルの人が集まってきてあっという間に人の輪ができた。知らない人が敷居を取り去って自分の旅の今や昔を語り合った。旅の計画やノウハウ、オススメなどの情報交換もできた。

わたしはおしゃべり好きなせいか、いつもたくさんの人が集まってきて、旅の話を楽しめた。友だちもたくさんできた。それからずっと長いお付き合いをしている人もある。

バイクの旅人は、YHで情報を得て次の旅先へと出て行ったものだ。あてのない旅を愉しむひとつの手段だった。

いつまでもあてのない旅を続けることができるわけではない。限られた時間をフル活用して旅をした。戻ってゆかねばならない現実の厳しい世界があっても、その世界があるからこそそのときの空想のような旅があったのだ。

あのころはそんな風には考えたことはなかったが、人生だってそうだ。幸せだけを追い続けて手中にしても、ほんとうの幸せはそこにはなかったことに気づく。幸せとは何だという禅問答のような問いかけのようでもあるが、このごろ少し見えてきたような気がする。

19892

人の輪に守られて、育てられて数々の場所を旅してきた。旅に終わりなどあるわけがないと思ったのもあのころのことである。

でも人はまた次の新しいカタチの旅を求めて、旅立たねばなならない。わたしはそれを次のステージのようなイメージとして持った。自分だけのオリジナルで作り上げるステージにしようとしているが、なかなか叶わない。そんなものだ。でも、旅のスタイルを変えたことに後悔はしていない。

(写真は1989年の北海道の日記から)

2014年9月 7日 (日曜日)

而立まで  花も嵐もⅢ その79

社会人になったのが24歳であった。自分ではもうすっかり大人気取りであったのだろう。しかし、もう一つの視線で自分を振り返ってみるとあのころほど危なっかしい時代はなかった。大人か子どもかを考えれば子どもの分類であった。社会的な責任やそれに応えようとする意欲や自立心の方は大人扱いで間違いはなかったと評価もできるのだが、総括的に冷静判断を下せばまだまだ未完成であり未熟であった。

こういう危ない年代には往々にして危ないことに盛んに挑もうとするのが若者の特徴である。そうでないような若者は人として面白味に欠けるわけで、過大評価かもしれないが、それなりに見込みもあったわけで、一丁前にも、人並みの社会人としての危険な目や大きな事故にも不運にも遭わずに過ごしていけたことは幸運であったと考えねばならない。

仕事においても上出来の出帆であった。自分の実力を遙かに上回った職場につき、能力の限界で仕事に打ち込めた。いや、能力以上の組織の中で無我夢中の日々を送ったのかもしれない。そういう点は人間の潜在的な察知能力のようなものが働き、舵取りをしながら人生を渡ってゆくものなのか、とにもかくにも脱落をすることもなく、勝手気ままな人生を楽しんでいた。

なんといっても一番の無謀は結婚である。社会人になって僅か2年にも満たないうちにその決心をしたのだから、これほどまでに自信に満ちた人生を踏みしめていた人間はそう多くもないのではないか。就職したらすぐに結婚しようと考えていたのだが、ここでも幸運の神様が微笑んだのだ。あのチャンスを逃したら今も結婚できずにいたのではないかと真面目に思うのだから。

1984年の夏には新婚さん気分で北海道へタンデムツーリングに行っている。その2年後にももう一度北海道に行くのだが、その間に九州、信州なども走り回っている。私のバイクは赤色で、ツマは赤色のつなぎであった。つなぎは、もしかしたら未だに我が家の押し入れのどこかに眠っているのではなかろうか。そりゃあ、あのときの思い出が染みこんだ服なのだからおいそれとは棄てていないかもそれない。小さすぎてもう袖も通らないと思うが、ツマはそういうものを棄てない人なのだ。

愛国駅にて

あのころのことをツマに尋ねたら、そりゃあもう必死であった、と言う。

眠かったし姿勢は悪くて辛かったし乗っていても面白くなかったし疲れるばかりで、早く降りて休みたいとばかり考えていた。なのに私は走り続けることに夢中で、お昼ご飯も食べずに、催促もしなければトイレ休憩もなしであった。普通ならとっくの昔に別れているのだろうが、何が好きだったのか一日中抱きついているのだけが嬉しかったし必死であったという。その話を聞くと、なんてひどい奴だと自分を思うし、もっと優しくしてあげなかった自分を叱りたくなる。ちょっと哀しくなるような切ないドラマだったのだ。

私たちは世の中にいるようなすべてがぴったしの相性の恋人ではなく、今でも笑い話にするのだが、趣味を100個あげても90個以上も同じではないような不一致なカップルであったのに結婚をして夫婦になったのである。何故と問われても困るのだが、インスピレーションがあったのだ。京都で住むことになって最初に見つけた下宿で初めて会った女の子であったというだけなのだが、人生というものはおもしろい。この話は機会があったらまた書こう。

そのころちょうど、北の国からというドラマがテレビで始まって人気が出ていたので、舞台となっていた麓郷の森という所を訪ねていった。誰もドラマのロケ地などを旅のルートに入れたりするような時代ではない。このドラマが火付け役だったのかもしれないが、案内看板も標識もない北海道の大地をバイクで走っていく。

裏摩周

写真は家のどこかに積み上げた整理箱のなかに残っているだろう。社会人になって真っ先に買ったオリンパスのOMをいつも持ち歩いていたので、結構きれいな写真を撮っている。だが、数が少ない。今のようにデジカメだったら、二人の時間をつぶさに残せたのだろうと思うと、記憶は頭の中に思い出としてあるだけで、写真はそのほんの1コマだけなのだ。忘れてしまうのが惜しいのだが、その後に築いた数々の記録を大事にしなくてはならないと、老齢化とともに思う。死んだら消失するのだから、それでいいのだ。

新しい時代の人たちには新しい人のドラマがあるのだから、私はここで幕を引けばいいと思う。そう思ういながら二十歳過ぎのころのことを思い出している。

草津白根スカイライン

2014年8月 1日 (金曜日)

二十歳のころの旅   花も嵐もⅢ その78

二十歳前のころからボチボチと旅をするようになっていた。そもそも、見知らぬところへ行ったり1人で乗り物に乗ったりするのは好きだった。それが大学生になって初めての夏休みに本屋で旅行本を見ていて突如思い立ち北海道へ行った。これが最初だろうと思う。

1977年、1年になって半年ほどのころ、急に思い立って北海道への夜行列車に乗っている。本屋で旅本を買って帰った2,3日あとのことである。

大阪駅を夜中の9時ころに出る急行北国という夜行列車が青森まで走っていた。明くる朝に富山付近だったと思う。昼中カタコトと走って夕方に青森に着いた。しっかり明るい時刻に岩木山が見えて、美しい姿に感動している。

日が暮れてから青函連絡船に乗り、函館て再び日付が変わってそこから急行で6時間あまりかけて夜明けの札幌に到着する。通勤の人影は疎らな時刻だった。駅の前で野宿をしているカニ族などの旅人を駅の係員が水をまいて散らしている風景も記憶にある。

旅日記は、ブログのアンソロジーに書いた程度しか記録にない。残念であるが、記録に残っていない旅の記憶というのも染み染みとくるものがある。

2年生のころに信州にバックパッキングを担いで出かけている。これは体育の野外授業で4日間のキャンプ&登山に参加すれば半期分の講座と同様の単位がもらえた。これも人生に大きく影響を与えた旅だった。

テーマは戸隠山登山だった。天候の加減が悪く飯縄山の登山に変更になったが、キャンプの日程だけは4日間しっかりと行われた。

前半が雨降りで、雨が上がったときに戸隠山の岩場の斜面に幾つもの滝が見えたとどこかに記録している。今はそのことだけが記憶としてあるだけで、日記は残っていない。最後の日に飯縄山に登山をして野外講座は完了となった。

信州のどこかに寄り道をしながら1,2泊して帰ってきたような覚えがある。

3年になって、1980年の秋のことと思う。10月31日に東京湾・竹芝桟橋から船に乗り三宅島に出かけた。同級生だった花川(のちに東洋通信機)とリュックを担いで寝袋だけ持って野宿をしながら島を歩き回ろうという旅であった。

花川とは毎日学内で駄弁る仲間で、入学のときの同期だったので気軽に話もできた。ふとしたことから三宅島に行くという話が出て、花川が1人で出かけるところへわたしが付いて行くことになったのか、寝袋の旅をするにからオマエも行くか?と聞かれて、付いて行くとなりどこに行くかを決めたら三宅島になったのか、そのあたりは記憶もないし記録も残っていない。

1980_3

三宅島には2,3泊したと思う。

海岸にある東屋で寝袋にくるまって眠った。屋根があるだけで風は吹きさらしでとても寒くて、次の日には近所の酒屋さんでダンボールをもらって敷いたり被ったりして対策をした。島の中をリュックを担いであてもなく歩きまわった。自分で立てた計画ルートだったか花川と相談したのかそんなことさえも記憶に無い。三宅島はあれから2度ほど噴火をしたので、およそ一周歩いて回った三宅島は、噴火前の島だ。山にも登ったと思うが、頂上に辿り着いた記憶はない。

夜明け前に到着して、大きく広いところで写真を撮ったら飛行場であったりとか、とてつもなく強い風で波の花が砕け散っているのを初めて見て感動したり、探検者のようなサバイバル感のたっぷりな旅だった。

寂れた村の風景、野性的な森、雄大な山岳風景など、記録写真が殆ど残っていないというのが、貧乏な学生のぶらり旅であった証ではないのだろうか。

1981年の秋に井上(のちに富士電機)と信州をドライブした。この旅が学生時代では一番豊かであった。野宿をするわけではなく、YHに泊まりきちんと使うべき宿にお金も使っていくというように計画も目的もあった。

できたての関越自動車道を走って一気に信州まで行き、蓼科の温泉に入りお目当てのYH2箇所にも泊まってきた。まほろばYHは真新しいYHでとてもピチピチした雰囲気を放っているYHだった。諏訪湖YHは昔から人気のある伝統的なYHだった。1977年に北海道を旅したときにもYHを少し利用したが、それ以来だったかもしれない。YHの旅というのはノスタルジックであった。

まほろばユース

温泉に入る歓びを教えてくれたのも井上だった。今思うと、麦草峠も越えたし三国峠も走っている。社会人になってバイクの旅に夢中になっていく過程で必須条件だった温泉、峠、林道、YHをこのときに1度クリアしていたのだ。潜在的に植え付けられていたような気もする。

麦草峠や三国峠をあの時期に走れたことは、何も知らずに走ってきたのが残念だであるものの、とても幸運なことだった。蘊蓄も理屈も何もなく、風が靡くように吹かれるまま好奇心が向かう方へとたびに出てゆくことで、かけがえないものを味わえていたような気がする。とても純粋な旅だったともいえるのではないか。

2014年7月29日 (火曜日)

それぞれの道   花も嵐もⅢ その77

何か言葉で自分を納得させようと考え続けているのがよくわかる。バイクを降りたのは決して諦めたり飽きてしまったからではない。そのことは自らの肌が感じている。だが、スキッとしないのはどうしてだろう。自分で問いかけて、そこに相づちを絶妙に入れてくれるものがあらわれないからか。その言い訳じみた理屈付けを乗り越えるために、「もしも」という仮説が飛び出す。もしも、仕事を辞めていなかったら、もしも、今の仕事に出会わなかったら、などなど。

 

 

(先日の日記で)そんなふうに書きだしたわけであるが、この「花も嵐も」のために考えていたのが大きく脱線してしまった。そこで、方向を切り替えて続きを考えてみる。

 

同じ時期にバイクにまたがり旅を楽しみ、キャンプ場に集い焚き火を囲んで語らった仲間たち。仕事社会から抜け出てきてお互いに元気を取り戻しあい自分の空間へと帰っていった。心も通じている友がいるという歓びを最高に旅の中で味わってきたのだ。

 

それぞれが新しい道を歩んでいる。

 

バイクを降りてしまったわたしがいる。同じように手放して、自転車、マラソン、登山、キャンプ、トライアル、グライダー、スカイダイビング、陶芸、絵画、カメラ、など、いろいろな分野で愉しみを継続して実践している人たちがいる。バイクは手放さずにときどき乗っている人もいる。

 

もちろん、パワーアップしてガンガン乗っている人もいる。これまでと違った旅の楽しみ方で、年齢も出会ったころから二十年以上も過ぎて、赤ん坊だった子どもが結婚するほどに育っている人もいたりする。

 

それぞれの人生模様の中でバイクというものが大きな役割を果たしていたのだと思う。

 

わたしは幸せだった。そういう乗り物を、特別の苦労もなく手に入れて、誰にも束縛されずに、走り回ってきた。実際には、家族の大いなる理解と妥協と諦めと怒りなどがあったのだが、鈍感にもそれを家族の好意として遊び回っていたのだから、わたしの罪は深い。

 

ヨチヨチと歩き始めた娘をおいて、ひとりで北海道に出かけるわたしを見送ったときのツマの気持ちを、最近になってポロリと聞いたが、わたしは感謝するだけだ。あれから二十五年以上も勝手気ままに日々を暮らしてきたのだし。

 

もう少し先で貧乏から解放されることができるなら(長生きができるならば)、ツマと二人でゆっくりと昔に夢見た場所を旅したい。

 

Aikokun

 

 

 

(写真は1984年)

 

2014年7月23日 (水曜日)

旅に終わりがあるか   花も嵐もⅢ その76

愛に終わりがあって心の旅が始まる。そう歌った人がある。

愛に終わりあるって、そんなの稀だと思う。終わりがあることのほうが不思議なくらいだ。

と言いながらも、終わらせなくてはならなかったことだってあったし、しかしながら、終わらせなくてはならない辛さをわたしは知らないだけなのだろう。

終わらない方がいいに決まっていると思う。だが現実に1度くらいは終わりを経験している人が多いだろう。終わらせたくなかった人もあれば、あれでよかったという人もあろう。

人生ってそんなもんだ。

旅に終わりがあるか、と書き出してみたものの、ここでは、旅をすることに終わりがあるか、と書くほうが正しいか。

わたしは生涯旅人と自分で思ってきたから、バイクを降りてしまっても旅は続けるつもりでいる。今、少し苦節の時期に差し掛かっているけれど、新しい旅のスタイルを必ず実現していくことをわたしは夢に見ている。

くまなく日本の峠や歴史街道を走り尽くしたい。こんなところにこんな暮らしがという驚くような村・集落を訪ねて回りたい。それが、全盛期のわたしの目標であり夢であった。そして、行きたくない沖縄を除いてすべての地域を走り、足跡を残し、思い出を築いてきた。

とことん何事も極めるには30歳から40歳を過ぎる頃が絶好の時期であるのか、と思う。金もあるし時間もある。意欲も好奇心も情熱も持っている。行動力も発揮できる。

わたしがそうだった。飽きることなど絶対にないと思っていたし、行動をする勢いに翳りが来るとも考えたことなど全くなかった。

乙見山林道

  • あれだけ走り回ったら飽きたのではないか
  • 同じ所に何度も行っても詰まらんやろ
  • 乗っているだけで何が楽しいのよ
  • 金もかかるし時間も要るやろ
  • ひとりで飛び歩くなんて身勝手や
  • 勝手ができるなど我儘すぎる
  • 家族を放ったらかしはアカンやろ

などと言われて、それらを全部否定して、もうバイクには乗らないことにしたけどまた乗りたくなったら乗る、とだけ言って処分してしまった。

もしも、メグロさんが元気で修理屋さんを続けていて、わたしのKLEの不調箇所を発見してくれていたら、わたしは修理を続けて乗っていたと思う。今度こそは錆びて崩れるまで手元に置いておこうと強く決心していたバイクなのだから。

39年間も付き合ってきたオートバイという乗り物のその向こうにあるものに浮気をしようとしたのかもしれないと自分を疑ったこともある。

言い訳だったかもしれない。でも、わたしは言い訳がどこまでも続く人生を送ってきたのだから、生涯そのペースは避けられないのだろう。

意地を張るのはやめよう。

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