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【イマージュ】千夜一夜

2022年8月 2日 (火曜日)

千夜一夜 最新改訂 (特別号)

恋文 千夜一夜


恋文 その1


珍しく夜更かしをしたあの深夜に、縺れる糸のその先を見つめようとしている自分に気付いたの。好きだとは絶対に言ってはいけないと硬く誓ったのに、ああ僕はなんて馬鹿なんだろうか。だから、この手紙を書き始めながら決めたんだけど、毎夜、200文字で終わらせる手紙にすることにした。さて、君にはもう会えないかも知れないとあきらめていた僕が、飄々と廊下を歩いて居る君を見て涙を滲ませてしまったのは、絶対誰にも内緒だよ





恋文 その2


僕は夢を見たようにまどろんでいる。夢の中で石畳の坂道を歩いてゆくんです。一緒に歩く君のハイヒールの足音がコツコツと響く。見晴らしのいい高台へと細い散歩道は続く。そこにはお気に入りの公園もあって、森陰からはウェディングパレスの教会の尖った屋根が見える。坂道はやがて石段になって、一番上のベンチからは海が見える。空に浮かんだようにタンカーが見えることだってあるんだ。君
は古里の海を思い出すのかもしれない






恋文 その3


いつか、昔、お昼休みに散歩に出かけて、海の見える秘密のその場所の話をしてくれた。そんなときでも君は泣き顔で「そうだ、君の笑顔はどんなときでも泣き顔だったんだ」と僕は気づく。ためらうように柱の影から君を追いかけた。再び君が戻ってきて、ステキな笑顔と出会えたこの一日が終わっていった夜は、ひとりでこっそりと乾杯をしたんだ。誰にも内緒にね。どうか、気障だと言ってくれ、お礼に好きだと言わせておくれ





恋文 その4 海の話


屋上から海が見えます。霞んでいても割と遠くまで見渡せる。湾の出口の島まで見えますね。大きなタンカーも浮かんでいる。そう。今日は海の話をさせてください。君の名前には海という字があって、きっと、海が大好きなんだろうと想像してます。私はバイクに乗るので、海を見に行くことが多いです。いつもひとりですけど、風に吹かれて二人で海を眺めるなんてのは夢です。いつか君の古里の海を案内してもらいたい。話題に窮すかな





恋文 その5 言い出しかねて


昔、あるとき一度だけ、情熱的な恋をしたことがありました。好きになってはいけないという言葉が世の中にあったんです。でも、その人の不思議な魔力に私は惹かれていった。約束をした人の所へやがて行ってしまうのはわかっていても、どうしてもささやかな時間でいいからその人と話していたかった。恋なんだよと友人は教えてくれました。そんな恋はもうしません。だから、君が大好きだと言っては
いけなかったのです。嬉しいだけでよかったの






恋文 その6 Mちゃん


昔、鳥のひろちゃんという物語 を書いたけど、あのときのあの子のなまえは「M」だった。無意識と思うけどそんな音の響きが好きなんだろうと思う。チーズのチのようにイ行のときは笑顔になれる。でも、あるときに気が付いたことがあるだ。Mさんの笑顔には泣き顔が隠れているんだ。それは、自分と闘っているんだろうなって思う。本当は芯が強くて責任感のある、でもホンワカな雰囲気も持ち合わせて明るい子。蓮華の花を髪に飾りたい





恋文 その7 ボブ[1]


僕ほど服装やヘアスタイルに鈍感な奴はいないと思う。御洒落という言葉は僕の辞書にはないのだ。でも、君に出会って、茶色い髪は今風としても、そして、耳まで見えるほどに短く切ってしまった髪も珍しくはないけど。アインシュタインが
難問にぶち当たって苛立ちから頭をクシャクシャにしてしまったかのように、ハネハネにした
(僕は爆発したみたいなと思ったけど)髪型に出会ったとき、この子、素敵な雰囲気だなってピンときた。さらに声が可愛かった





恋文 その8 ボブ[2]


その髪型をボブと呼ぶって後で知ったよ。体中からチカラを吸い取るような不思議な魅力を感じさせたその子の声が透き通るようだったことと、甘えたように話す話方と、どうでもいい僕のちょっとしたデータをきちんと記憶している点などがすっかり気に入ってしまった。誰にでも好かれるステキな子だと分かっているけど、少しでも僕は話をしたいと思ったね。そしたら、この打ち明け話を聞いてくれ
た知人が、それは恋だなと言った






恋文 その9 チュニック


恋じゃないよ。くれぐれも。ショートカットが好きなのはどうやら昔からのようで、跳んでるヘアースタイルってのも好みみたい。この子は、そんなにスタイルがいいわけでもないし、背が高いわけでもない。でも、傍にいるとそこに花が咲いたような明るさと元気が滲み出て来るのです。そういうものってのはその人自身が持ち合わせる天性のようなものなのでしょう。堅苦しい職場なんですが、そんな中
でチョッピリ派手だが淡い色が良く似合う






恋文 その10 淡い色


全体の雰囲気がやわらかい人だと思う。だから、真っ赤とか真っ青というような色の服ではなくピンクとかうすい水色のような服を着ていると小柄な姿によく似合うのだ。そっとそこにいる静けさがいい。でも、心のうちは激しく一本気な面もありそうで、問答をしたわけではないけれど、キッパリとしているかもね。濃い紫っぽい服を着ていたときそれがステキで淡い色が似合いますねと声掛けたら、それって私にはこの色が似合わないってこと?って言われて





恋文 その11 花を生ける


小学生のころ、母はいつも僕に庭の花を切って学校に持たせてくれた。赤いバラの花束を胸に抱きかかえながら、少し恥ずかしくまたちょっと自慢な気持ちで、僕は教室にいる先生に渡したものだ。大きな花瓶に水を張り花を生けるとき、駆け足で来た自分の心臓が静かになっていくのに気づきながら、新しいときめきが身体を痺れさせているの感じた。あの日、花を生け終えたあとそっと手を添えて花を見つめていた君を、じっと柱の陰から僕は見ていた






恋文 その12 見つめる


君の視線を感じる。まさかその視線が僕のところで止まっていることなど絶対にないのだけれど、不思議な力を感じてしまう。まるで魔法の杖で恋の魔術をチチンプイプイとかけてしまうように、僕は君に惹かれていってしまう。そう!今ちょ
うどベートーベンの月光が第三楽章に入ったところさ。胸が高鳴り頭の中は真っ白になってゆく。少しうつむきかげんに何かを思案中だった君の一瞬のできごとで、過ぎゆく視線を僕は掴みたかった







恋文 その13 花屋になりたい


花屋になりたいと思っていたころがあります。若いときでした。全速力で思いきり走りきったら、そこには静けさがあるはずだ。その静寂の中でじっと僕は花を見つめていたいと夢見たのです。24歳で就職して、その職場での挨拶で「いつか、田舎に帰って花屋になりたい」と言ったのですが、仕事を転職して田舎に帰るときに同僚だった憧れのステキな女性が「田舎に行って花屋になるの」とポツンと話かけてくれたのを思い出します。天使だった。花を愛する人は無条件で大好きです





恋文 その14 遠いどこかで


僕の想いが届いている確信が欲しいと思うのだろう。だから、好きだと打明けて嫌いだからと言い返されたとしても、ある意味では満足なんだ。一番悲しく辛いのは、知らん振りなんだよ。でも、僕の心が届いていることさえわかれば、君と、たとえ月まで離れてしまったとしても、僕はめげないし不安にもならない。ほんとうの友だちには手紙なんか出さなくてもずっと友だちでいれるから。僕は君にこう
してここで手紙を書いている幸せを味わうよ。でも本当は返事も欲しいし来なければ切ない






恋文 その15 音楽の話をしようよ


ねえ音楽の話をしよう。ベートーベンのピアノソナタを聴いても交響曲を聴いても、チャイコフスキーでも、コンサートホールへ出かけると演奏中に必ず泣いてしまうんです。泣けてきますよ。年末の第九なんかもうボロボロと泣いてしまうので三階席の一番前でしかダメですね。あそこが僕の定位置です。ひとりで行きたいのですけど、君だったら誘ってみたいと思う。生まれてまだ誰も誘ったことなどがない僕だけど、君と音楽の話をしたいな。駅前のコーヒーショップがいいなあ




恋文 その16 やがて


夜が明けて日が昇ったら僕は君に最後のメールを送るだろう。もう今は、がむしゃらに書く意味も必要もなくなったから。僕の心は必ず届いたと思っていいね。だから、メールはもう、書かない。君がメールで「○○さん」と僕を呼んでくれるそんな些細なことが喜びで、ひとつひとつの仕草がお気に入りです。今はしばらく会えないけれど、しっかりと記憶にとどめたから大丈夫です。僕の家から海までは遠いけれど、君を思い出すことなんて簡単さ、と強がらせておくれ、今日は





恋文 その17 「夢色」へ


恋文篇をいったん「その17」で終わることにします。それはこの恋が終わってしまったということではありません。また次のステップへと僕自身が変身していかねばならないからです。君は壊れてしまったけど必ず元に戻れる。僕も同じように壊れてしまいそうだったけど、新しい僕をめざす。君も新しい君を築き上げるためにリフレッシュして下さい。詰まらないメールはもう書かない。恋文・千夜一夜も名称を「恋文」から「夢色」へ





入り江 (千夜一夜・その18)


入り江という言葉を使ったけれど、実際にあそこは入り江ではなかったかもしれない。ざわめく娑婆の騒々しさから解放されてひとりでいたいと思うとき、人は入り江のような静かに閉ざされた空間に憧れるような気がする。壊れてしまったキミの心を癒し快復させるものが何か、僕にわかるならば僕は最大限にそれをキミに捧げるよ。でも、悲しきかなそれが何なのかわからない。僕は無力だ。僕はキミのところへとは戻ってはいけないのだ。痛いほど失敗を繰り返し、僕は許されていないのだ





縺れる 1 (千夜一夜・その19)


「私、彼氏からのメールでも11通が限度だって気づきました」とメールに書いていた君へ、この僕の縺れた心を一生懸命に解きほぐして送ろうとしても、それは間違いなく罪悪となり、世にいうストーカー行為になってしまうのだ。もがけばもがくほど、足は泥の中に沈んでゆくのだ。わかっているのに自分がコントロールできない。縺れた糸のような自分の心を見つめてみると、いったい、そこには何があるのだろう。いっそう、君のことなど嫌いになって頭の中から抹消すればいい....




縺れる 2 (千夜一夜・その20)


君のイメージを抹消するなんてできるはずもない。嫌いなところが見つかったとしても、それはドミナント・ナインス・コードのように、僕の心にすべてプラスに響いて来るんだ。嫌いなところなんてありもしない。でもね、もうメールはやめるよ。君の悲しくて忌まわしい過去の話のその1%にも満たない一部を聞いてみてわかってきたことがあるんだ。それは、君と同じ視線で同じモノを見つめてみたり感
じてみたりしてみたいと僕は思っていたということ。少し近づけたからそれでいい






お酒 (千夜一夜・その21)


お酒をやめている。といってもまだ1週間も過ぎていない。何日やめようとか、いつまでやめようというような目標はない。この前に君に会って、その日に晩酌をしたかどうか記憶さえ曖昧だが、そのころから飲むのをやめることにした。僕の場合、こうしようと決めてもとても意思が弱く、弁解・言い訳が次々と出てきて、いとも簡単に意思は崩れ去る。僕にとってはそれが当たり前のことなのだが、あることとお酒をやめてみることにチャレンジしよう思い立った。理由は至って不純なんだ





ねこが好きですか?犬ですか? (千夜一夜・その22)


君のことをいち早く知ろうとすれば、例えば誕生日を聞いて星座の話や血液型の話をして、社交的やとか几帳面なタイプなんやぁーなどとワイワイとやるのがフツーなんだろうけど、僕は君にそんなことを聞く切っ掛けもなくて、いまだに年齢も正確に知らないんだ。もちろん君だって僕の事には無関心で何も知らないとは思うけど。そんななかで、一度思い切って尋ねたことがあったんだ。猫が好き?それとも犬が好き?って....。昔は犬かなあー、今はちょっと猫かな、と君は言ったね






風は何処かへ (千夜一夜・その23)


バイクに乗っていると君のことを忘れているよ。風を切って走っていると爽快だから、君を背中に乗せて走れれば最高だろうになあ、なんてことは考えるけどね。海が見えたら君を思い出して、そのときだけは君のこと想って風の中でいっぱいの深呼吸をするのさ。風になりたいなんて気障なことは言わないよ。さざ波の上を自由に吹き渡るのもいいけれど、目を細めて湾の入口の方角を見つめている君の傍をそよそよと吹いていたいな。僕は風だよ、風なんだ。風になって君の髪を揺するんだ





風と何処かへ (千夜一夜・その24)


風が誘ってくれたこの道を僕はひとりで駆けてみる。君が走ったその道をきょうはひとりで駆けてみる。まあ、そんな夢のようなことを考えてみても、僕は風になんかなれないんだよ。風になったら鳥になれたら、その夢が叶うときに僕は限りなく自由で、誰にも束縛されずに空を行き来できるんだろうなあ。でも、大事なことがもうひとつだけあるんだ。それは、僕が行くところに君を一緒に連れ去れるか
どうかということなんだ。大事さ。君にずっと傍にいて欲しい。だから、手をつなごう






火遊び (千夜一夜・その25)


或る女性に「火遊びの恋とまじめな恋の違いは?」って訊ねられたことがあるんだ。僕に火遊びなんていう言葉はないなあ。いつも真剣でまじめな恋です。でも、まじめでであればいいというものではないのよね。してはいけない恋とか絶対に実らない恋もあるのよ。そういう恋を恋と呼ぶのは辛いなあ。人を慕って想い続けてもやがて儚く忘れねばならないこともあるし、人から奪っても奪われても、それはいけないんだ。好きになるということは、そんな危険が潜むのを知らなくては。盲目はダメだ





凪ぎの風景 (千夜一夜・その26)


この小さな旅で僕はひっそりと入り江に佇むことの愉しみを知った。それは感動的なものを何も求めずに特別な期待もなく吸い付けられるように入り江の淵を辿って湾の外れの小さな集落へと向かっただけなのに、そこには胸に手を当てて鼓動の音を聴くように息をこらえてじっと身体で感じ取るような驚きと感動が満ちていた。それをプレゼントしてくれた君に心から感謝したい。居間のテーブルに座ったままでテラスの窓から湾が一望できるなんて、そのときの僕の気持ちは言葉にできない





田舎の子 (千夜一夜・その27)


あれから十日ほどが過ぎただけだ。まだ緑色をしていた麦の穂があっという間に色づき始めている。水田と隣り合わせで麦畑の穂が揺れる姿を見ると真夏の暑さを思い出す。五月も下旬になると、畦道の蛇苺や桑の実を摘んで食べたものだ。黄金色になってきた麦畑の穂をちぎって髪に差していた子もいた。君の生まれた町は山が入り江の間際まで迫り、米を作るような平野はなかった。僕は、君の都会風のお洒落な姿が好きなんだけど、君は自分で、私は田舎の子なのよ、と言う。うつむき加減が可愛い





素敵な町 (千夜一夜・その28)


僕の高校は高台にあって市の外れにある海が見えた。遠くに浮かぶタンカーを三階の教室から眺めるのが好きで、受験が迫ったころには、理由もなく音楽室から海を見たものだ。陽炎に包まれた地上に、大型船が浮いているように見えた。君が生まれたところは港町だから、学校から坂を駆け下りれば港に行ける。田舎かもしれないけど素敵な町だよ。君は海で生まれた子なんだなと、その街を訪ねてみて初めてわかったよ。だから、海のなかにぐいぐいと潜って行くことが平気なんだね。お魚みたいですね





ボーイッシュ (千夜一夜・その29)


また書くよ。ボーイッシュな君のこと。「プチハネのショートなボブのキミ」が好き。これはちょうどひと月ほど前に僕がノートに書いた落書きの十七音です。けっこう、イカシテル茶髪だから、その雰囲気は大好きです。全然お洒落じゃない僕でさえも、そんな跳んでる君を連れてドライブに行きたくなります。ツツジがピンクの花をいっぱい咲かせている高原で乾いた風に吹かれると、きっと君の茶色い髪がサラサラと風にふるえる。ツツジの花びらって美味しい蜜があるの知ってますか?すごく甘いんだ





次に手紙を書くときは (千夜一夜・その30)


「今だけは君に夢中にさせてくれ」別にドラマのセリフじゃないですから。いつもそんな気持ちで僕は手紙を書いている。ずーっと前からメルアドだけでも聞き出したいって思い続けていたときに、他愛ない話のついでにメルアドを知りたいと言ったら即座にオッケーしてくれて、僕のアドレスをボールペンで手の甲にメモしてくれた。ほんとうにメールくれるのかしらって心配だったよ。有頂天の僕は貰ったメールに立て続けに返事を書いてしまってゴメンなさい。メールには禁句があるんだ。告白はお預けさ





(千夜一夜・その31)


夏はそれほど好きな季節じゃないけど、君には夏がよく似合いそうで、夏が来るのが待ち遠しい。オデコに汗を滲ませてアルプスの少女ハイジのように駆け回っている姿を思い浮かべると、小さな身体でありながらスポーツ選手のような機敏に動く姿がカッコいい。そう!ボーイッシュなシルエットに乾いた声が弾けるのが聞こえてくるようだ。きっと僕は君に声などかけられるわけもなく、遠くからじっと見つめているんだろうな。特別に何かを話しかけることもいらない。見てるだけさ。それでいいんだ





満ち潮 (千夜一夜・その32)


ちょうど今、潮が満ちてくる時刻ですね。波打ち際に腰掛けて夕焼けに染まる山並みを背に太平洋へと続く湾を見ていたことがあるんだ。刻々と時間が過ぎるうちに僕は海に浚われてしまうような錯覚に陥る。そのうちこの波が僕たちを包んでしまう。ザザザ、ザザザと繰り返す波音を聴きながら、何も言葉を交わすことなく海を見つめて、空を見上げている。やがて、西の空の夕焼けが東の空へと移ってゆく。燃えるような鮮烈な赤色から紫がかった赤へ。今、君の家の窓からもそんな海と空が見えるのかな





ヒヨドリ(1) (千夜一夜・その33)


僕は「鳥のひろちゃん」という連載を長い間書いて、それが60回を越えたところでパタッと終えてしまったわけですが、半分自伝・半分夢の物語でした。彼女は私の人生を大きく変えてしまった一人であることは間違いなく、彼女の魅力が何処にあったのかは未だ謎のままだ。一人の女を自殺未遂に、そして一人の男を粉々にしてしまった悪魔のような女だった。いいや、君とは全然関係ないことなんだけ
ど、少し誰かに聞いて欲しくなっただけさ。その彼女が鳥のイメージなんです。ヒヨドリを見て思い出した






ヒヨドリ(2) (千夜一夜・その34)


ヒヨドリの写真を見つけたの。身近な鳥だけど意外に近くで見ないよ。梅や桜の蕾を食べていってしまったちょっと小憎たらしい鳥だな...という印象だけど、写真で見るとシャキッとして素敵なヤツだ。僕の友達のひとりに素敵な子がいるんだ。そう!前に書いた「プチハネのベリーショートの茶色いボブ」の彼女さ。彼女は可愛いくせにちょっとボーイッシュで、そのくせ銀のピアスがよく似合う。ヒヨドリみたいなイメージをどこかに持っているかもしれない。僕は鳥のような子が好きなんだよ、きっと





酸っぱうまい (千夜一夜・その35)


桑の実の酸っぱうまいか、片思い。ふとそんな句が僕の頭の中に自然に、しかもリズミカルに浮かんだ。ちょっと覚えておこうっと。酸っぱい顔が君は良く似合うよ。前にも言ったけど、ちょっとベソを掻いたような泣き顔が素敵なんだよ。ふくれっ面じゃないんだ。今、涙が乾いたばっかしっていうそういう感じさ。せっかく綺麗にお化粧もしたのに、髪だって綺麗にしたのに、泣き腫らしてしまった君の顔は子どもみたいになってしまってる。でもね、その顔が、ほんとうは可愛いのさ。酸っぱい顔なんだな





めがね (千夜一夜・その36)


「きょうのあなたは一段と綺麗ですね」と、誰が言ったか。僕も真似をして、しかもそれを君に言いたいね。昨晩、夜更かしをしたのかい、彼と遊び過ぎたのか。頬紅が赤すぎない? 眼が腫れてない? そう尋ねてみたい朝がある。「頬紅のやや濃すぎても嫉妬かな」君はメガネをかけて、それも、昨日と今日は別のメガネで、銀のピアスが冴えている。ふーん、少し自分を粋がって見せて、悪い子ぶっているんかい。メガネが良く似合うの、隠せない。うつむき加減で微笑む顔が、ばら色の天使に見えてくる





ツーショット (千夜一夜・その37)


誰にでも愛想がよくてにこやかで明るいから好かれるのよ。だからストーカーに遭いやすいの。気をつけてね。僕も一時プチ・ストーカーになっちゃいましたが。だから僕はメールに「返事はいらんよ。好きかと聞いたら好きだとだけ言ってくれ」と書いて、今日は「そんな気障なセリフで終わらせてくれ」って締めてるのさ。でも、その後すぐに思いついて娘とのツーショットを送ったけど、君も素敵なツーショットを送り返してくれて、もう、僕はそのあとドキドキでした。傍にいる素敵な人に少し嫉妬よ





誰かが誰かを (千夜一夜・その38)


誰かが誰かを愛してる。その音楽を聴きながら綺麗な花の咲く高原へと君を乗せて車を飛ばして行きたい。愛してるなんて、まだ僕には言えない。朝のうちはどんよりとした雨模様だったのに、お昼を過ぎには雲が切れて陽が射し始めてる。窓から街を見下ろすと、ピンク色のツツジの生垣が鮮やかに目に飛び込んでくる。海もきょうは太平洋のほうまで見渡せて、神島の三角に尖った山ともくっきりとわかる。海を見ると海へ行きたくなる。でも...。海は嫌いだ。ひとりで海に行くなんて嫌だ嫌だ。寂しくなる





猫みたいに (千夜一夜・その39)


僕は手紙に「犬が好きですかネコが好きですかと尋ねたことがあったよね。今日はどういうわけかあなたがネコのように思えてね。憎たらしいけど可愛らしい。嫌いになりたいけど、抱っこしてしまう」と書いたんだ。君は猫のように気まぐれで、ちっとも僕の願いを聞いてくれないし、わがまま勝手でマイペースで嘯いているんだ。だから、恋心なんか寄せないぞ、好きでも嫌いでもないぞ、と考えていたことがそんな言葉になった。書きながら、君が途轍もなく遠い世界の人に思えてきて、寂しかったけど





ズルイ目で (千夜一夜・その40)


そしたら返事に「前に猫みたいって言われたことを思い出しヘコんじゃった。猫みたいに一瞬で懐にもぐりこんできて、かと思えばするっといなくなってしまうって」と書いてあったから、僕はうふふと笑ったよ。可笑しいからじゃない。やっぱし同じように君にジレッタイ気持ちと、おそらく相当の嫉妬心を滾らせた人がいたに違いない。ある日、君に恋した誰かは気がつくんだ。君は猫のように気まぐれで、その可愛らしさゆえに誰にでも好かれて、恋する人はそれが我慢できないけど、猫だと気づくのさ





ニャーと泣いてくれ (千夜一夜・その41)


君が猫だと気がづけば僕の気持ちからヤキモチを妬く心などは吹っ飛んでいく。君はどうぞ気まぐれにお好きなように。君の愛らしい眼差しとふかふかした顎とすらりとセクシーな尻尾を想いながら、呼んでもニャーとも言わないツンとした猫様と寄り添う夢を見続けるだろう。遠い世界の人、別の世界の人なんだと–いや猫なんだと思ってしまえばひとつの恋が終わって、僕はそれを気まぐれな夢だったと思えるさ。でも僕がニタッとした訳がもうひとつある。君が凹んだっていうからさ。じゃあ君は猫が嫌いなの?





1
枚の写真 (千夜一夜・その42)


たった1枚だけ写真が手元にある、といってもメールのホルダーのなかである。それは何かの拍子に送ってくれたもので、お父さんと近所に山菜採りに出掛けたときのツーショットの仲良しな写真だ。JRの線路がありトンネルが背景に写っている。大きなイタドリを手に持っている。実物はとても可愛いのにこの写真のこの子はオバサンに写っている。野球帽みたいなキャップをかぶりお父さんはハンティング帽。この二人が似ているかどうかの判別はつかないが、それは二の次で、貴重な1枚の写真なんです





(千夜一夜・その43)


6
8日は満月だったのだろう。寝床に入って窓をあけると、心地よい風が流れ込むと同時に、まん丸の月が見えた。尾崎放哉が「こんなよい月を一人で見て寝る」と詠んでいるのをおぼろげに思い出し、真冬の月と違って屋根スレスレに昇っている夏の月が何とも控えめに感じられる。放哉は42歳で死んでしまった儚い人だが、彼は一人を如何に感じていたのだろうか。僕も今そこで月を見上げているときは一人だった。種田山頭火は「月が昇って何を待つでもなく」と詠む。彼も一人だったが、恋の歌はない





月・ふたたび (千夜一夜・その44)


君と呼びかけ続けてきたが、これは恋文でも何でもないのでやめることにする。ときには君でありあなたであり、話によってはあの子でありオンナが...と書くこともあるかも知れない。さてふたたび、月が出ている。もしも、二人で海辺に腰掛けて月でも見上げながら佇むことができるならば–凄い妄想であるなと自分でも呆れるが、僕たちには恐らく何も話すことなどないだろうと思う。近ごろ感じるのは不一致なことばっかしで、じゃあ一体この子の何がいいのよと自問する。でも痺れてドキドキするんだ





花を手に (千夜一夜・その45)


近所を散歩していたときに、真っ赤なバラが咲いているのをみつけた。そうだ、子どものころ、初夏になるとうちの庭にも次々とバラが咲いた。毎日、それを切って母は僕に持たせてくれた。教室の花瓶はいつも赤や黄色のバラで飾られ、傍に近寄るとキュンと酸っぱいような切ない匂いがした。あのころは赤いバラを何とも思わなかった。だが、人を好きになるような年ごろになり、花を見て悲しい思い出がひとつ二つと浮かぶようになると、赤い花びらが愛しく思えるようになった。花を愛する女たちに弱い





赤いバラ (千夜一夜・その46)


真っ赤なバラ。あの人はこの花を「慣れない花屋に立ち往生の男性が苦し紛れに選ぶもの」と言う。なるほど、花屋の店先で一番目立っているのも赤いバラかもね。我が家の庭がある日突然とても殺風景に見えたことがあって、僕は直ぐに花屋に行ってバラの苗を買ったのですよ。昔、学生時代に講義の合間に散歩をした大学の裏手の、綺麗な洋館が立ち並んだ蔦の絡まる煉瓦塀と苔の匂いのする石段が続く坂道を下ったその一角に、そう、大通りに出る手前に小さな花屋があったんだ。「その赤い花、ください」





花瓶 (千夜一夜・その47)


部屋に花を生けたくて花瓶を買ったことがあります。今でも我が家のどこかの棚の中で眠っているだろうな。一輪ざしではなく、バラの花なら数本ってところがちょうどいいくらいの、やや背が高くてスリムな真っ白の洋風磁器の花瓶です。背の高い花でもオッケーです。でも、花瓶に生けるってのは難しいなあとつくづく思います。鉢に植わったサクラソウとかスミレならば、それ自体が自分から部屋になじんでくれようとしているみたいな気がするけど。まして真っ白な磁器の花瓶。君のうしろ姿みたい...





花を飾る (千夜一夜・その48)


僕は花を買うことなどなかった。貧しかったのが大きな理由だ。真っ赤な花を持ち帰って、部屋の片隅にちょこんと飾ることができるなら、どれほど幸せだっただろう。しかし、微かな香りを漂わすバラの花など、かび臭い独りの男の部屋には似合わないよ。花を贈りたい女の人だっていなかったし。そんな昔を思い出していると、真赤な花を君に贈れば、きっと君ならば君の素敵な部屋のどこかに僕の花を飾ってくれるだろうね。それは、窓辺の小さな花台だろうか。ダイニングのテーブルの上なのだろうか





ブルー (千夜一夜・その49)



素敵な音楽を聴いて、心はとろけるような恋を夢見ていても、夢から覚めると何故か何処となく淋しい感じが襲ってくる。やっぱし、こんなときにあなたにおやすみのひとことでも言えればいいのにな、なんて思っていたのかもしれない。あじさいの紫はちょっと好きじゃない。今日はいつもよりちょこっとブルーです。そんなメールをあてどなく書いてしまう。きっと受け取ったほうも困ってしまったかもな、とか思いながら夜が更けた。あくる朝、割と早くにメールが届いたのだった。あの日は金曜日やった





青い海 (千夜一夜・その50)


メールには「熊野までドライブ!」としか書いてない。きょうは金曜日ですよ。いったい誰と出かけるというのよ。誰と一緒であろうと僕には関係ないのだから、知りたいくせに尋ねない僕の気持ちを知っていながら、出かけちゃったみたい。意地悪だよな、気まぐれだよな、ってますますそう思うこのごろだけど、そんなあなたに付いていけないくらいがちょうどいいわ。もう、夢中になんかならないからね、と意地を張ってみて「真っ青な海を僕にも分けてくれ」とメールしておいた。どこ走ってるかな





マイペース (千夜一夜・その51)


ひょっこりメールをよこして「バドミントンに行ってきまーす」だって。バレーボールやスキューバダイビングもするし、カイロプラクティックに出かけたりけっこう忙しく駆けずり回っているのだ。ひとことで世代ギャップといえばそれまでだが、なかなか活動的だ。お茶に誘い出す間もないし、誘ったとしてもさらりと軽くかわしてしまうんだろう。それだから余計に猫みたいなマイペースに見えてくる。でも「猫」といわれたときはちょっとご気分を損ねたみたい。ネコ好きがネコみたいな子を好きになり






気まぐれ (千夜一夜・その52)


夜ごはん食べに行ったとか、その後にかき氷を食べておなかを壊したとか、アパートに戻ってきたら風邪気味だとか。そんな些細なメールをくれるようになったので、こっそりと僕は喜んでいる。あまり飛び跳ねて喜んでいけないのだとここで自分に言い聞かす。いつもの僕ならば「ウレシイよ」と書いた後に何か他愛もないことを付け加え直ぐに返信するだろう。でも、そのメールにあの子は間違いなく無反応で僕はショボンとなる。要するにあの子は僕からみれば気まぐれにメールを送ってくるだけなのだ






心配 (千夜一夜・その53)


そんなメールでウキウキの僕を傍で見ている或る人は「オジサンが遊ばれているだけだよ」と進言する。友だちならもっと優しく労わりつつもデリカシーのある言葉で戒めてくれればいいのに。だから、それでもオジサンは嬉しいのだ、と開き直ってみせる。確かに、夜ごはんは誰と一緒に行ったの、なんて尋ねたい気もあるけど、恋人でも女友だちでも、僕はもう気にならないよ。初めはヤキモチを妬いたこともあったけど、もうそんな心配は不要なんだ。好きなように飛び回る君とメールしてるのが愉しい






なじる (千夜一夜・その54)


「詰る」(なじる)という言葉が気の毒に思えてね。だって、詰る人にも言い訳があるのでしょうし、それを聞いてあげたいと思ったんだ。「花冷えを詰ってそっと腕を抱く」4月の花の咲くころに僕は、君のことを思い続けていました。でも、僕の前に君の姿が現れることはなかった。ドラマのセリフのパクリでもある「オマエなんか嫌いだ」はすっかり口癖で、ぶつぶつ言いながら、会えない君を思い出していたのが4月だ。あのころは、それほど必死に会いたいとも思わなかったの。遠い人だったし、夢の中の人だった





花の咲いたころ (千夜一夜・その55)


4
月の中ごろには花が散って、その散り様を見ながら僕はあなたに会えないことを悲しんでいたのかも知れない。花びらが舞い落ちてくる一、二秒の間に「散りゆくものを手のひらにのせてみる」と十七音にのせた言葉で想いを刻み留めて、淋しい雨を自分に受け入れようとしている。哀しみは、ときどき、大きな周期でやってくる。それは、誰にも話せない無力を伴っていて、僕はぶつけようのない不安と淋しさと苛立ちと、あなたへの想いを、悶々と抱き続けている。傘を差して歩き去ってゆくあなたのうしろ姿...






消えてしまった君 (千夜一夜・その56)


3
月の終わりに組織が変わって、それきり僕はその人に会えないままだった。最も近くに居ながら、会いたいなと思っても僕の自由で会えるような人じゃない。メルアドを聞き出したいな、どうしたら教えてもらえるだろうか、と悩んでいる間に年度が変わって姿が消えてしまった。お茶や食事に誘うなんて到底できっこない。せいぜいメールを出すくらいのチャンスが欲しい。そんなことを思うと、いわゆる妄想状態に突入してしまうのだ





素敵 (千夜一夜・その57)
実は、あの人のことなど、何も知らないんだということが、自問自答を繰り返すうちにわかってくる。趣味のこと、嗜好のこと、友だちのこと、休日の過ごし方、などなど。知っていることって何だろうか。名前と出身地と住んでいる街...くらいかも。もっと知りたいと思うと、知らないことも素敵に思えてくる。例えば、もしも僕の全然知らないファッションをまとい、知らない音楽を聴いていたとしても、
みんなそれは素敵に見えてくる






遠くから (千夜一夜・その58)
彼女と同じケータイが欲しいな、ってな調子で、ケータイを持たない僕がそんなオモチャを欲しがるようになった。デスクにいると、グループの島を二つほど跳び越したところにあの人の姿が見える。それを何気に毎日楽しみにしていた。遠くから眺めているなんて怪しいオトコのすることだ。でも、3月までの僕はそれで充分だった。もうすぐ居なくなってしまうと思うと焦ってしまった日々もあった。彼女のメルアドを知りたいと思った。
だっていつものように気まぐれで返ってくるのはいつかしら。「七夕は十五夜お月さんみて眠る」って送って眠ってゆく






粧う (千夜一夜・その68)


ショーウィンドウに冬の粧いが並び始めたのにふときづいたある日、あなたが髪形をかえてきたあの日を思い出しました。あのときの日記には「ねえキミの髪形変えたね、言いたくて」と書いてある。秋はもの哀しく過ぎる一面があるものの、私はあなたのお洒落な粧いがとても楽しみで、髪型がどんなに思い切ったものに変わってしまってもあなたの全てが好きだった。職場には珍しいほど茶色く染めた髪とキラキラ光るピアスのあなたが好きだった






わからない (千夜一夜・その69)


私が信州と奥飛騨の旅を終えて帰ってきたあとに、あなたは信州に旅立って行った。あなたはその旅の二日目で私あてに便りをくれて「信州に来ています、さむい」とだけ書きしたためている。あなたを好きなままでいていいですか、と私が問いかけた言葉は私自身が手紙にせずに握り潰してしまったからあなたには届かない。あなたはいったいどんな人なのだろう。どんな想いで秋の深まる信濃路を旅しているのだろうか。私にはあなたがわからない






さみしい (千夜一夜・その70)


この人の趣味も好みも、他にもありとあらゆるあなたのことを私は知らないから、いったいどんなところを、どんな想いで散策しているのかさえ想像できない。ひとり旅なのか、恋人と一緒なのか。車なのか電車なのか。そうだ、北陸へ旅に出たときには、写真を1枚送ってくれたなあ。何が届いても私は嬉しいのだけど、待てば必ず音沙汰が無い。意識して無口を装うように便りが来ない。それでもいいと私は思っているが、正直寂しい






潔く (千夜一夜・その71)


信濃路をどんな風に旅してきたのかを、結局のところ、何ひとつ聞かせてもらえなかった。尋ねても返事が来るとは思えず諦めている。普通ならそこでストンと恋も終わるのだが、ハナから実るものとは考えてもいない恋だから、終わらせる必要も無い。あの人はちひろ美術館とかわさび園に行ったりするだろうかと想像し、もしも彼女が一部始終を話すような人なら、私はその話を聞き終えたときに、叶わぬ人と潔く諦めてしまうのかも知れない






これきり (千夜一夜・その72)


叶わぬ人なのだと何度も書いた。何度書いてもキライになるとか飽きるとかそんなことは無い。好きなままだ。自分のことを何も話さないから、知りたいと思ったことはあったものの今はもう諦めた。どんなに頑張っても、天地がひっくり返っても、それは叶うことが無いのだから、星座を知っても誕生日を知っても仕方がない。このまま好きで居られるのが一番幸せだ。10月の始めに「これきりと言い出せなくて神無月」と詠んだ。それでいいのだ






笑顔 (千夜一夜・その73)


あの日、あなたは明るい笑顔を少しだけ見せてくれました。元気そうで何よりです。ほんとうに、戻ってくるのかどうかとても心配ですし、あなた自身だってさぞかしプレッシャーになっているでしょう。半年以上お休みしましたからね。でも、これからは近くで会えるので嬉しいです。ただ、みんなのところに来てしまうので、僕の心の中に独り占めできなくなってしまっとてもてが悔しいような気持ちでもあります。喜びながら複雑なんです






久し振り (千夜一夜・その74)


あなたとはちっとも話ができない。そのことを嘆いてばかりいますがお許しを。もう、あなたをキライだと思おうと何度も何度も理屈で考えていますよ。でも、キライになるということは理屈では無理なんだな。あなたの声が何処かから聞こえて、あらあなたが久し振りに姿を見せたんだって気がついたら、もう胸がドキドキして、心臓は止まりそうでした。好きになってもそれ以上どうしようもできない人なので、わかっているけど、堪えられない






キライ (千夜一夜・その75)


あなたがどこか、声のするほうに居るんだと思うと、嬉しさと、どうしようもできない切なさで、何も手につかなくなってしまう。ほんとうならば、「よかったね、早く元に戻ろうね」って言ってあげるのが優しさなんだろうか、などと、いろいろ頭の中で考えてると、泣きそうになってしまうのでした。キライになることなんか絶対にないのに、キライになれたらどんなに楽になれることか。憎たらしいのだけど、憎くない。やっぱし、わからない






ずっと (千夜一夜・その76)


ちっともあなたという人がわからないままなだけに、好きなんだろうなと思う。もしも、もっと身近で、あなたのことを友だちのように知ることができたら、僕はもしかしたらあっさりとあなたを諦めているかも。それとも、飽きるか、キライになるか、なんかそんな形で遠ざかっていってしまったような気がする。ところが、不思議でわからないあなただから、好きなままなんだろうと思う。だから、僕はこ
のままずっと片思いでいたいのかも







肌寒し (千夜一夜・その77)


きょうは、絶対にメールなんか書くものか、と思ったけど書いてしまった。書き留めておくことや伝えたいことなど何もないのに、ただただ「おはよう」とか「おやすみ」とかを書いて置いて来たいだけなんだ、と思う。それが読まれようが読まれまいが構わない。書いて届ければ気が済むんだ。書きながら僕はどんどんセンチになってゆく。「肌寒し、いかがとひとことメールする」きょうは、ありがとう。そんなメールで意味ないのに出してしまう





アホ (千夜一夜・その78)


男の人ってアホですね(^-^) 明日は早起き。 おやすみなさい と、あの人は返事をよこしてくれた。早起きって何よ。どこにお出かけするの?って尋ね
てみたくなるのだけど、初めてメールを書いたときから一度だって僕の質問に答えてくれたことなんかないからね。一見、マイペースなように少しずつ自分を語ることもあるのだけど、僕からすれば知りたいことの
1パーセントにも届かない。それでも構わない。後戻りはしてないから






諦める (千夜一夜・その79)


今は何処かにやってしまったが、二ヶ月余り前、一枚の紙切れに「諦める」と書いてペンを握ったまま私はその先を書けなくなってしまった。男の人ってアホですね、という言葉は僕を擽るように響くものの、よく考えると途轍もなく大人びて感じられた。ああ、あの人は黒い天使なのかも知れない。どれほど愛しくても好きになってはいけない人で、ときに甘い会話を交わしたとしても僕はそれに戸惑ってはいけない。そう閃くとペンが止まった






ときめき (千夜一夜・その80)



キラキラと霜が融けます音もなく。そんな呟きを残していたのがちょうど一年前で、柱の蔭からあの人を見ていたころがあった。ふとしたことで言葉を交わすようになり、廊下で笑顔の挨拶ができるようになってゆく。その傍ら、伝えられない、伝えても仕方のない我が心を安置する場所を無くしてゆくもうひとりの私がいて、何気ない一言二言の会話にときめいていた。人間はときめいているときが美しく、言葉は流れ星のように自ら消えてゆく






迷路 (千夜一夜・その81)


私は迷路から抜け出せないまま二ヶ月もの間さまよっていたことになる。しかし、もはやその人を掴みきれないと思い本気で諦めたのだから、思ったよりもスッキリした気分だった。というか、振り出しに戻った感覚で、もう心をときめかせることはないのだからと自分で自分に言っている。あの人のほうがずっと大人の感覚の持ち主で、サラリと私のメールもかわしてしまうし、普段は知らん振りしてるくせに全然ツンツンしてるわけじゃない






依りかかる (千夜一夜・その82)


依りかかる、母がマフラー巻きなおし。千夜一夜を終わってしまって潔く「うたかた」とカテゴリーの名前を変えてしまった。そう、私は、新しい物語を書き始めたいと考えていたのだ。いくら想っても何も実現しない恋など意味がない。だから坂道を登ってそこでお別れをして、その先の街は貴方の住む未知の世界で、私はそこであなたとお別れしてまた新しい人に出会いにゆくのだ...みたいに考えて、こ
の話をこれ以上書くのを諦めようとしたのだ







懐かしむ (千夜一夜・その83)



最初は「恋文」千夜一夜として始めたころの熱い気持ちが懐かしい。諦めると決め込んでしまったころに、ちょうどそのころに70年代のことを書き始めた。70年代を書き出したら仲良しだった桃子ちゃんのことを思い出してしまい、そうだ、桃ちゃん今ごろ何処で何しているのだろうかと懐かしんでしまった。偶然にもそのとき読んでいた「死の島」(福永武彦)に桃子っていう名前があって、小気味良く「死の島」を読み耽ってゆく






銀子 (千夜一夜・その84)


昔、銀子と倫子という二人の女性の物語を書きかけたことがあった。実在の人に理想の女性像を重ね合わせて、まったく違った二つのタイプの女性を見つめている自分を書きたいと思ったのだ。今までここに書き綴ってきた「千夜一夜」のあの人は、もしかしたらあのときに私が書こうとしていた「銀子」のような人だったのかもしれない。実は銀子のイメージは明確ではなかった。銀子は美人を想定するがあの人は美人ではない。でもほかは銀子だ





気障にも (千夜一夜・その85)


「ひとりごつ、今夜は気障に飲みとうて」「泣き顔のあなたを。気障に水割りで」とそんな言葉の遊びを並べてあの人を想ってばかりいたのがもう300日ほど前の話だ。春の異動でどこか遠くに行ってしまうのだと思うと寂しくなってくる。実際には離れてしまうことや毎日見かけることがなくなることは然程重大なことではなかったと後になってわかってくるのだが、そのときはどうやってメルアドを聞き出そうかなどと気を揉んでいたのだ






季節のない旅 (千夜一夜・その86)


私が再びあの人に無性に会いたくなったのは、夏が終わって秋に移り変わろうというころだった。もう海には人影もなかった。砂浜にサーファーがポツリポツリと居たのを思い出す。まだ紅葉の便りさえどこからも届いてこなかったので10月ではなかったのだろうと思う。夏に会った。Tシャツになっても汗が噴出すのを必死で拭きながら、クーラーの効いた食堂の、壁に向かって並んで座る横並びの席で、サンマ寿司を食べて以来だ






入り江にて (千夜一夜・その87)


どうしようもなく逢いたくて逢いたくて仕方がない夜にメールをしても何の返事もない。なのに夜が明けて再び「逢いに行くことにしました」とメールをすれば、そっけなく「近くまで来たら連絡ください」とだけ書いたメールをよこす。この人はいったいどんな感情の持ち主なんだろうか。やがて秋が来るというのに、ひとりで海に出かけ、そこがあの人の住む隣の入り江で、小さな漁港の桟橋で少し佇んでから、あの人のいる街に向かった






光る海 (千夜一夜・その88)


入り江から入り江へとゆくために港からは定期船が出ている。それが小さな湾の入口に一本のすらりとした曲線を引きながら出てゆくのが見える。鏡のように光る海面には生け簀の筏が染みのように点在している。海が白く輝くのは一日のうちで限られた時刻だけだ。私は時計でこの時刻を確認することなく湾の入口で少しだけキラキラと光る海を眺めて、峠を越える街道へと発った。船でゆけば波間から蜜柑畑の中にあの人の家がある






小さな漁村へ (千夜一夜・その89)


もしも船で沖にゆけたら...ふとそう思う。ロマン溢れた岸辺から一気に斜面は競り上がる。その海辺には民家が点在し、中腹あたりには蜜柑畑が広がっている。半島の背骨にあたる付近は岩が混じった小高い山になっていて暖地性の植物が生い茂っている。そして歴史的な古道の石畳の街道がこれらの山を縫うように越えて何処までも続く。寂れた集落の片隅にあるあの人の家まであと一息という所で私は電話を掛けた。いつもの電話ボックスだ





コール (千夜一夜・その90)


いったい何処にそんな魅力があるのだろう。誰かの小説がそんな自問を書いているのを読みながら私自身もあの人のことを同じように考えていた。呼び出したりして果たしてそれに応じてくれるのだろうか。不安に満ちて震える手で受話器を持った。電話に出るその人の声は沈み込んではいないだろうか。コールの間の静寂は谷底に落ちるようにカラダを締め付けてくるようだ。だが、その心配を払拭するかのように元気で明るい声が聞こえる





おとなな人 (千夜一夜・その91)


不思議な人だ。自分に寄せられた気持ちが如何なるものかを知りながら、呼び出されても出てきてくれる。相手がどれほど熱い気持ちを投げつけても、かわすことなく受け止めて、何もなかったようにニコニコしてる。自分のことを好きになること自体がありえないことで、そんなことは許すも許さないもない。一貫しているその人は、私などよりも遥かに大人であり、百歩も先を見通していたのだ。そんなふうに思うのはあとになってからだ





ケラケラ (千夜一夜・その92)


ケータイを車の中に置いたままコンビニに行っていたので一度目の電話には気づかなかったという。そのことをサラリと話してケラケラケラと笑っている。許されない人に会いに来ているのだから強い姿勢で来ないでほしいと叱られてもおかしくないし、昨晩のメールで訪ねてゆくと書いたのにそれには一切の返事もよこさなかったわけだから、私としてはさっき掛けた電話に出るという確信はなかったし、まして再会できるという筋書きもなかった





山帰来 (千夜一夜・その93)


山帰来さて、どこに行きましょうか。その彼女の気持ちに私がどのようにリクエストを伝えたのかは記憶にないが、とにかく二ヶ月ぶりに会い元気な顔を見たのだから、少しでも他愛ない話で構わないから静かに時間を過ごせるところへ行きたいと私は考えた。あの人がそんな私の気持ちを察してくれるわけがないし、察する必要もないのだが、もしかしたら、この近辺で最も素晴らしい安らぎの空間を持ったところへ案内してくれたのかもしれない





消える (千夜一夜・その94)


二ヶ月間、逢いたいと思わなかった日はたった一度もなかった。朝焼けを見ても、夕暮れに佇んでも、ひとときもその人のことを忘れることなどなかった。西の空が真っ赤に焼けて、そこにちょうどひこうき雲が焦げつくように消えてゆくのを発見しても、その感動を言葉にして出せない手紙、出してはならない手紙を、ぐっと心の奥にしまい込んだのだった。メールじゃ伝えられない。だけど、目の当たりにしても夢のように時間は消えるのだが





再び (千夜一夜・その95)


そもそも、逢いたいと思ってもホイホイと逢えるような間柄ではなく、ただの知り合いなのだから、その潜在的な私の心理が幾ら強烈であったとしても、この世の誰もが許しはしない、この世の掟として恋することは許されない。あの人はことのほか厳格な人なのだから、好きだということを私がどれほど情熱的に語ろうが、まったく気に掛けない素振りだ。しかし私は、海に呼び起こされ鄙びた漁村に立ち、入江にある小さな集落まで来てしまった





オレンジの車 (千夜一夜・その96)


歴史古道として残される石畳を迂回し荷車のための細道が山の中腹を取り巻くようにゆらゆらと延びている。旅人たちはこの道の途中で休みながら刻々と姿を変える入江の姿や海の色を眺め、二つとして同じ形を成さない漁村を次次と歩き繋いで熊野の霊場や伊勢の神域を目指したのだろう。ただそんなことを考えながら、人里から奥まったカフェまで案内してくれるオレンジの車の彼女の後を私は追った。余計なことは何も考えない、思い付かない





猫のような (千夜一夜・その97)
ふた月ぶりに見るこの人の顔をじっと眺めていたいという願望だけが少しずつ叶おうとしている。不思議な人。血液型を訊ねても誕生日を聞いても教えてくれない。性格だって明るいのか暗いのかもわからない。何が趣味なのかも知らない。モテルかどうか、でも、人気者だろう、子猫のように大事される子だろうと思う、けど猫のような人じゃない。私が筋書きにないことを、再会の感動で動転しながらサササと喋ってしまったら、黙ってしまう





夢物語 (千夜一夜・その98)


わたしは、1年という時間をかけてひとつの夢物語を絵描いてきたのだと思う。それは情熱的なもののように見えたこともあり、ときには無謀でもあり、禁断を犯そうとするようなものであったのかもしれないが、しかし、その実態はただの夢であったに過ぎないように思う。わたしはこんな夢をときどき見ながら、夢とは何かを考え、夢って現実の裏返しではないかと納得させて、明日からの希望の活力にしてゆく。何とも儚いものなのだと思う





夢中 (千夜一夜・その99)


しかし、目の前にいる人がわたしに夢を与えてくれているのは確かだ。この人を想いながら、どきどきメールを打ち、たまに返ってくるメールに胸を熱くしている。そしてその物語のオマケとして、こうしてここでお茶を飲んでいる時間があるのかも知れない。わたしは夢中なのだから、この人にマイナス点など何ひとつないと思っている。考えてみればそんな人が世の中にいるわけもなく、落ち着いているようでも惨憺たる会話が続くのだった






予感 (千夜一夜・その100)


いつかどん底へと落ちてゆく予感をわたしは察していたのだろうか。その人が笑いかける小さな目と、かわいらしいえくぼを、じっと見てひとり占めしていると、何もそれ以上を望むことはない。半年間に三回だけお目にかかれたことの幸せを感じながら、もしも毎日でも会えるようになるなら、たとえばそれは同じ職場に居るような、それは夢物語だろうか。しかし、もしもそうなったらわたしは、きっと、ダメになるのかもしれない予感がする





欲望 (千夜一夜・その101)


誰にも知られたくない激しい欲望を私は持っている。それは、あなたを独り占めにしてもう絶対に放さないのだという強烈なものだ。しかし早くあなたを嫌いにならなくては私も滅びるかもという不安もある。春になって喧嘩をして、冷たい雨に濡れながら「さよなら」できるだろうか。と、そんなおぼえがきをノートの端くれに書きながら、好きです嫌いですを繰り返している。まるで、ドラマの狂人を真似するように、わたしは振舞うのだ





春ベンチ (千夜一夜・その102)


三月のある日、色彩を失った月の光が照らし出す庭の中に雪柳が陽炎のように潜んでいる。まさにそれは潜んでいるというのが相応しいほどに、惑いを漂わせていた。思わずわたしは好きな人の名を呟いてしまった...。その瞬間に途轍もない諦めの感情がわたしを襲う。その日、街では卒業式に向かう袴姿の女学生をたくさん見かけた。そうだ、決定的な日が時々刻々と近づいてきているのだ。散歩道誰を待つのか春ベンチ。そう、刻々と 忍び寄る





ひとりよがり (千夜一夜・その103)


好きですとリンゴをかじって言ってみる。そう紙切れに書いて暮れゆく秋を哀しみながら、もうすぐきっとあの人が戻ってくるのだと少しだけ喜んだ。しかし、あのときはあの人に再び会えることが、即ちやがて遠くて永い別れになってしまうのだということを気にかけなかった。予想をしなかったわけではなかったものの、元気になって戻ることのほうが嬉しかった。ひとりよがり。わたしはあのときのほど醜い人間であったことはない





憎まれ口を叩きつけ (千夜一夜・その104)


黒い天使。あなたは私にとって悪魔のようで、ほんとうだったらトコトン嫌いになって、おもいきりなじって、憎まれ口を叩きつけてやりたいほど嫌いだった。そう思いながらも、好きだった。抱きしめたいとかキスしたいとか、そういうのではない。憎らしいけど好きなの。そんな音楽があったけど、気持ちはあの音楽のように陽気じゃない。私はいつでも、あなたを連れ去って独り占めしてしまいたいという夢ばかりを描いていたのだから





出さない手紙 (千夜一夜・その105)


今夜はどんなお話をあなたに書こうかな。私がとても醜い人間だということでも打ち明ける?いいえ、そんなことしたって、破滅のときが近づくだけだから、今夜はあなたのことを思い出して、少しお酒に酔ってみたいなと思っています。きっともう、私のことなど気に掛けてもいないだろうけど、私はたった三回だけでもあなたに逢って話ができたことを永遠の思い出にしているんだから。出さない手紙でも、こうして書くのが好きです





脳裏 (千夜一夜・その106)


私はあの人を脳裏にしまってあるの。メールをしても返事もくれないのに顔を合わせば別人のように優しくにこやかに私の話に相づちを打って、やがて疲れたように小首を傾げて眼を閉じてしまう。話すことに疲れたかのようにふわっとしている姿が私の心をどんどんと痺れさせてゆく一方で、これ以上あなたを見つめていたらわたしは生きていられなくなるのではないかというような錯覚にも似た衝動が襲ってくる。でも、騙されてはいけない





あなたのもとへ (千夜一夜・その107)


手帳から。この人がこの小さな入り江に帰ってきて住み始めるまではまったく気に掛けなかった町なのに、初夏の或る日にあとを追ってこの人を訪ねて以来、まるで一夜にして色を塗り替えたかのようにこんなちっぽけな地方の町がまったく違った町に見えてきたのです。あれから私は、例えば贔屓にする町で美味しいワインを求めるように、この町に立ち寄るようになったのです。峠を越え最初のコンビニを曲がり港までゆき片隅の公衆電話まで来て





痺れて (千夜一夜・その108)


食物が美味しく風光明媚で人情が厚いから何度訪ねても飽きてこない。次に来てもまたワクワクと愉しめる町に変化してしまったのは、その人の吸引力であるのは明らかで、心とはその程度のものだ。まるで魔法や催眠術に罹ってしまったかのように惑わされて続け、そんなことわかっていますよと思いながらも甘い戸惑いと神経が痺れてゆくようなある種の悪質な酔いに縛られて成すがままに流されている。この人に恋をしてはいけないのに





予感 (千夜一夜・その109)


予感はある種の理論に基づいて発生するのだと思うことがあって、三度目にこの町であの人に逢った午後、それが最後になってしまうのではないかという叶って欲しくない予感のようなものを感じた。それはあの人が再び今のところに戻ってくるという期待でもあったのだが、春から6ヶ月という時間が過ぎたのだから、さらにあと6ヶ月が過ぎれば今度こそ本当のお別れになるという確度の高い予測もあった。じっくりと考えると悲しみが湧くのだ





猫よ (千夜一夜・その110)


秋の終わりに京都の街を散策したくなり、ひょっこりと出かけてみたことがあった。そのことを伝えたくてメールをすると、普段から一向に返事をよこさないあの人が「今信州に来ています」と気まぐれな返事をくれた。自分を猫のようだと言った人があったがそんな風にいわれて嬉しい人がいるものか、と珍しく感情を荒立ててメールをくれたこともあるが、やっぱし、この人は紛れもなく気まぐれな猫のようだ...と私にさえ思えてくる。猫よ





猫よ(2) (千夜一夜・その111)


私にとって、あの人は何ひとつ分からない不思議な人で、きっとあの人は正体不明のまま、私の前から姿を消してしまう日が来るだろう。そんな微かな予感がある。猫のようだと私が言えば、どうやら猫にはマイナスのイメージが多いらしく、とても不快そうな表情をするし、化粧が濃いと言えば、それを私がどう感じているのかを聞こうともせずに珍しく怒りを込めた語調で声も大きめで「そんなことはどうでもいいじゃないですか」と嫌がる





猫よ(3) (千夜一夜・その112)




その怒りの様子を見て百年の恋も冷めたか、とまでは言わないが、濃い化粧が嫌いな私がここまで貴方を思っているのに少しはわかって欲しい、と思ったのは確かだ。しかし、あの人のそういうところを見ているとまるで、猫に横からお節介をしたときに、奴らが怒り食いついてくるのに似ているな、と思った。今は「アバタもエクボ」状態の私だから大きな失望することなく踏みとどまったものの、というより不思議にも許してしまうのだ







猫よ(4) (千夜一夜・その113)




あの人は、猫と犬ではどっちが好きかというような世間話的でアイスブレーク的な話にもまったく乗ってこないマイペースな人なのだし、馬鹿げた話をすることに交わるのも好きでないようだ。ましてオトコ好きでもない。もっとも私はこの人にモテようと思っているわけではなく、この人のちっこくて優しい目と、可愛いエクボ、ときどき見せるはにかみを含んだ話し方が好きなだけだから、早く嫌いにならねば自爆をすることになると思う







熱情 (千夜一夜・その114)


時計の針は止まらない。止めることもできない。コチコチと時が刻まれてゆく深夜、この流れに身を任せて次なるドラマの筋書きを私は描こうとする。かつて大きな夢を胸に目前の荒波に向かい、勇気と情熱で船を漕ぎ出そうとしたときの、揺るぎないシナリオは誰にも負けぬエネルギーを持っていた。しかし、細かく刻み続けられた時空の果てに、小さな変化が大きなものとなり、あのときの熱いモノが些か衰えてしまったようだ。暫し休むか







秘める (千夜一夜・その115)




私にとっては猫としか思えない。でもそのことを口にすると少し不快な顔をする。滅多に不快な顔をしない人だ。気に食わないときはよそ見をして知らんふりをしているような人だ。不快な顔をされるとこっちはちょっとどころか凄く落ち込む。何ひとつ私の望みを叶えてくれるわけでもないこの人を、じっと見ているのが好きだった。何ひとつ幸せにならない。そんな夢を胸に抱きながら見つめているのだ。辛いのだがそれはそれで幸せだった







山帰来(2) (千夜一夜・その116)




山帰来であの人は山モモのジュース、私は何のジュースだったか記憶にないけど、めはり寿司も注文した。茂みに囲まれた山の斜面に建つ静かな店だった。とても私たち二人が来るには相応しいとは思えない。まもなく挙式を控えた二人ならわかるが、イケナイ二人の来るところではなかった。山モモのジュース、久しぶりだわ。そうその人は、まるで呟くように、私から目を逸らせたまま海を見ている。何を思い出しているのか。気に掛かる






夢を語る (千夜一夜・その117)




この人は何を考えているのだろうか。きっとこの子にも大人の恋があったのだろうな。それが熱いものであるとか深いものであるとか、私には知る由もない。ただ、好きな人が永遠に幸せであってほしいと願うのは誰しもが同じで、この人を幸せにするチャンスも力もないけれども、今、小鳥の囀る森の中に身も心も埋もれさせたままで、束の間の幸せを感じその光輝を浴びながら、この人の幸せの夢を語って聞かせて欲しいと思ったのだった






弱くて愚か (千夜一夜・その118)




やがて必ず訪れる別れのときは、それ自体が悲しいものか、それとも幸福を伴うような必然なのか、またはいずれにも当たらないことだってあるだろう。まったく想像はできないにしても、心のどこかで覚悟をしているのかもしれない。しかし、その反面、いざそのときを迎えたらおそらく未練を隠せず、ジタバタとする自分も見えるのだ。もっとも私らしい姿を曝け出しながらその人とサヨナラをするのだろう。弱くて愚かな自分を哀れもう





終楽章 (千夜一夜・その119)


すでにもうこの物語は終楽章に入っているのであろうが、昔に「鳥のひろちゃん」を書いたときも「鶴さん」を書いたときもそうであったように、一向に終わりだと認めようとしない自分がいる。花がピンクやオレンジや黄色など様々に咲き、見る人を和ませてくれようとも、いつかそのときが来れば枯れて、萎れた花びらは枝から落ちてしまう。誰かに拾われ土に埋められれば幸せだ。行き交う人に踏みにじられ、やがて風に吹かれて塵になる




終楽章その二 (千夜一夜・その120)




そうだ。塵に還ればまた新しく芽を出して、再び花を咲かせることが出来るのだ。生命がこの世に生まれて活動を終えたときに還ってゆく場所が土であるように、もしも私が花ならばこの花も土に戻ってゆかねばならない。物語は切ないほうが、味わいがあるかもしれないし、その次のシリーズが生まれやすいのかもしれない。はっきりと無理だとわかっていても、はっきりと言葉に出して「嫌いだ」とか「好きだ」と言わせたい性格なのだろう






ある秋の小さな旅 (千夜一夜・その121)




秋のある日の私の小さな旅は取るに足らない些細な出来事なのかも知れないが、一方で絶対に失いたくないひとつの思い出でもある。まるで駅のホームで恋人を送るかのように私はその人と別れて、小さな路地へと行ってしまう車を見送った。帰りにはお祖父さんのお墓参りをする言っていた。その言葉がその人の優しさを象徴しているのだと思う。その人はまっすぐ私は右へと、小さな集落のなかにある交差点で、さようならと呟いて分かれた






終楽章その三 (千夜一夜・その122)




分かれは日常の記録にとどめるまでもないままで繰り返されて、聞こえることのない小さな一言のつぶやきは私の魂の炎の源に当たる芯を痩せ細らせていった。それはあたかも人間が餓死してしまう際に衰えてゆくような痛みを、何ら齎すことなく苦味だけを帯びた苦痛を残し、私の魂はそれさえも覚悟のうえで受け止めながら、分かれがいつか最後に別離になってしまうときを陽炎を見るように思い浮かべていた。そこには逆らえない壁がある





散り散りに (千夜一夜・その126)




あなたに愛を告げる/言葉を探しましょう/並木道を歩く二人に。こんな流行歌があった。愛を自分のなかに擁いているのだろうかと自問を続けた。その自信のなさと熱くなる情熱との二つの心を葛藤させながらこれを書き、結局今は「恋文」としている。もう終章のつもりでいるのでこのあとに改めることもないだろう。恋心は幻のまま、そして纏まることもなく、散り散りの言葉を集めて、つまりは塵とする覚悟を決めるため書き続けられる






十月、まあちょっと (千夜一夜・その127)



去年の秋のメモが残っている。それをポイと屑篭に棄てられない自分を憎んでみたり、可愛く思ってみたりし、ゆくゆくは哀れなのだと気づき始め、誰にも言えない感情に襲われる。そこには照れでもなく怒りでもないものがある。そんなことを繰り返しながらメモを読み進む。そう、あなたは手の届かないところにいる。(1)▼キミと僕、秋雨前線でつながる▼夕焼けに切なくなって、まあちょっと▼まあちょっとあなたに手紙を書いてみる





十月・月 (千夜一夜・その128)




秋という季節は遠くにいる人を慕ってもの思いに耽るには絶好だ。夜は、静かで甘く優しく、月は綺麗に輝き、日ごと高く昇るようになる。沁みる寒さが感情を刺激し、遠くにいるその人に想いを投げかけるに如何にも相応しい。空の真上に向かって叫べば遠くに届くような気がしてくるのだ。つき先ごろも、月はひとり、星は二人で見上げたい、と書いた(3)▼同じ月きっとあなたも見てようか(5)▼これきりと言い出せなくて神無月





十月、真っ赤なリンゴ (千夜一夜・その129)




秋も深まるとリンゴが美味しい。サクッと音を立てて齧ってみる。シャリシャリと噛む。あなたはいつも上品だから、きっと綺麗に皮をむいて細かく切って、そう、真っ白な小さなお皿に並べているかもしれない。会いたいな。でも会えなくてもいいかな。今、小さい目のあなたを思い出してる。(14)▼好きですと、リンゴをかじって言ってみる▼諦めがついてあなたの小さな眼が好きだったのだと気がつく ▼雨音やいつもどおりに地を叩く





秋の暮 心に旅をさせてみる (千夜一夜・その130)




秋の暮 心に旅をさせてみる。そう手帖の片隅に書いている。あの日の私は乱れに乱れた。あなたを想う私の気持ちなど誰にもわかりはしないから、想えば想うほどに心は迷宮入りだ。あなたからの便りなどあるわけもなく、差し延べた手を何処にも戻すことができないままで、いったい私はどこへ行けばいいのだろう。▼秋の暮 心に旅をさせてみる。私は旅に出るしかないのだろうか。心だけが遠くへ旅立てば私の切なさは解消されるのだろうか





夕日 (千夜一夜・その131)




走る列車の中で手帳にそんな走り書きをした。夕焼けなんか見てなかった。旅に出ても何も解決しないじゃない。たとえあなたに逢えたとしてもそれは同じ。このままでは燃え尽きて、私はやがてバーンアウトしてしまいそうだ。そんなことを考えていた。日に日に熱くなってゆく自分は、ちょっとイケナイ状態で、そうなると早く焼け落ちたほうがいいのかも。だったら、できる限り綺麗な姿で落ちてゆきたいな。走る列車に宵闇が襲ってくる





夕やけ2 (千夜一夜・その132)




諦めきれずにあなたに手紙を書こうとする。でもそれは、中学生のころに書いた恋文のようで、好きですと言葉に出来ず、一歩手前でうずうずするようなかんじ。大人だから潔く好きだといおう、と思うのだが、上手にいえない愚かな奴。夕やけの中に飛行機雲を見つけて、あわててメールを投げてみる。キミの夕やけは、ボクの夕やけ。そう思うと繋がれるような気がして、私は一生懸命に夕やけを見上げた。言葉にならない、私の気持ち





ロマンチスト (千夜一夜・その133)




あの人を知りたくて一生懸命になるのは訳があった。友だちも多くて人気者で明るくて爽やかだからきっとモテルだろうけど、自らは何も話し出さない人だから、思うほどに人付き合いが広くもなく友だちも多くない。見た感じよりも派手でもなく大勢よりも一人が好きなのかもしれない。けっこう人付き合いに気を使ってヒーヒー言っているタイプなのかもしれない。それにそれほどロマンチストでもないみたい。▼彼岸花咲いて静かにもの思う





気障はお嫌い? (千夜一夜・その134)




そんなことがなんとなくわかってきた時期がありました。私の思い込みや期待で、魅力があの人には溢れかえっているように思えたわけです。でも、恋って盲目って言うように、私の場合は恋じゃないと言い張ってみるけれど、まあそれは置いといて、自分でも恥ずかしくて顔から火が出そうな気障な言葉を用意してメールでポンと投げても、仕事帰りの坂道でほろりと呟いても、あまり反応してくれなかった。▼雨の朝、あなたの手紙を読み返す





月を見上げる (千夜一夜・その135)




どうしたら私の心の叫びを届けられるのかと夢中になったことがありました。でも、あの人は私の心の内を察していながら知らんふりしていただけで、私も十分にあの人に気持ちが届いているのを感じていました。あの人が知らんふりすればするほど、私は夢中になっていってしまう。あの人にはそんな気などサラサラないのに私は夢中になる。知らん振りしなければならない理由があったのもわかっている。▼同じ月きっとあなたも見てようか





海のざわめき (千夜一夜・その136)


私は怒っているのであろうか。そう、その人に怒りを持っているから、私はこうしてこれを書いているのかもしれない。しかし怒りは、憎しみも生まないし恋情も残さないままだ。穏やかな波の上を漂う流木のように、沖からその人の居る岸辺を眺め、眼を細めてにこやかにしているふりをしながらも、ほんとうは最大の絶望に満ちていたあのときを思い出させようとする。そうだ、私はやはりその人を憎み、その人に怒りを感じているのかも知れぬ。







海のざわめきII (千夜一夜・その137)




それは私の我儘であるにしても、多少の焦りや妬みを含んだ嫉妬のような感覚だったと思う。自分では何の他意も欲も無いと言い放ちながら、海がざわめく、陽の当たる静かな佇まいへ訪ねてゆき、何を語ることもせず時間を過ごせたらどれほどまでに幸せだろうかと幾時となく夢を見ていた。すでに夢破れていたこともあり、腫れ物に触るようにその人には何も打ち明けられないのだろうけれど、私の心は充分すぎるほどに届いていたに違いない





海のざわめきIII (千夜一夜・その138)



朝日と夕日にいったいどんな違いがあるというのだろう。どちらも同じ自然の姿であるのに、心が沸き立ってみたり沈み込んだりを繰り返しながら、人を好きになったり嫌いになったりしている。あの人のウチの、おそらくあの人の部屋からも、海のざわめきが肌でわかるはずだ。さざ波が浜に打ち寄せる音も静かな朝ならば聞こえるのだろうか。きっと、真っ赤な朝日が窓から差し込む部屋で、波の音を耳に眠い目を擦りつつ起きるのだろう







海のざわめきIV (千夜一夜・その139)



カーテンを開ければ窓の下に真っ青な海が広がるという景色は、私にしたら夢のような世界であっても、小さいころからそこに海があったその人にすれば、悲しみも辛さも喜びも悲しみも、みんな飲み込んだ海だったかもしれない。「海が好きだ」と私が呟いたのを聞いたあの人は、あのとき、悲しそうにうつむいて黙ってしまった。なぜにその気持ちに気付かなかったのかと今更ながら思う。私とあの人との間には深い深い淵があるのだと思う





土砂降り (千夜一夜・その140)



雨の降るイライラの募る日に庭の花畑からバラを切って一輪挿しに投げ入れてみる。人影のまだ少ない昼休みのロビーであの人が花を活けていたのを思い出している。あの横顔を何度も何度も思い浮かべながら、一輪挿しの脇にあの人の姿を置いてみる。深い淵がたとえ存在したとしても静かに花に手を添えているあの人のシルエットは私のものだ。私はそれだけで、毎日をドキドキして送ってきたのだから。▼土砂降りに棘ある花を生けている





絶望 (千夜一夜・その141)



きっと私はこのドラマを早く終わらせてしまいたいと思っている。恋を失うことも愛に惑うことも、もはやありえないのだから潔く切り捨ててしまうのがいいと思っているのだ。なのにどうしてこれを書き続けているのか。つまりそれは、絶望という言葉も失望という感情もない私にとって、崖っぷちに追いやられたり、望みをなくして立ち上がれなくなるような哀れな結末はなく、まして惨めもないのだから、そのことが邪魔をしているのだ。




幻の鳥 (千夜一夜・その142)



絶望の淵に追いやられたら私は死ぬ覚悟で物語を終わらせるのだろうか。まさかそんなことをするはずもない。私は自分が不死身で必ずまた生き返ると思っている。その人を恋するひとりの人間として永遠に生き続ける。しかし、その人は容赦なく私を崖っぷちに追いやる。というか、その人にはそんな気はサラサラないのだ。なぜならその人は短気でヒステリックで、夢に架けるロマンのかけらさえない人なのだ。私は幻の鳥を追い続けている





燃える空 (千夜一夜・その143)


赤く燃えている空に季節の色などあるのだろうか。私が貴方に会いたいとこんなに切なさを募らせているときにも夕暮れは容赦なくバラ色のドラマの終わりのようではないか。哀しみに満ちて迎えたあの日の朝のように赤く海原を照らしているではないか。赤色が好きだといって、赤いバラを見つめていた日々もあったのに、今はそのすべてを哀しみへと集結させようとしている私がいる。私は見つかりもしない出口をずっと探し続けている





置き手紙 (千夜一夜・その144)


そこには「さようなら」という言葉などなく、あるのは、絶望の果ての失墜だけかもしれないのに。私は、貴方が投げ付けて去って行った置き手紙を丸めて棄てようともしなければ、拾い上げて読もうともしない。その手紙にはおそらく言葉や活字など何も書かれてないだろう。真っ白の便箋が丁寧に畳んでしまってあるだけだろう。きっと貴方のことだから、私がこれでもかというほど哀しめばいいと願ったに違いない。そんな気がするの





マボロシ (千夜一夜・その145)


「オトコの人ってアホですね」そう、私はアホやからいつか貴方がそういってた通りの奴です。オマケに、そんな奴であればなおさら、恨んだり憎んだりもしないみたい。月曜朝の貴方の激しい赤のチークが嫌いだっけど、好きだったのかもしれない。小さな入り江に潜んだ静かな家で再び会って、化粧もせずに水でルージュを引いたような貴方は海の精のように素敵だった。あれはマホロシダッタノカモシレナイと思うことにする。さようなら





大好き (千夜一夜・その146)


マボロシダッタノカモシレナイと思った瞬間から数か月が過ぎたある日、いつかの大雨に出した見舞いの便りのことを思い出す。ほんとうに心配してめげていまいかと胸を傷めた。そんな便りにもあの人は必ず返事をくれた。ハートマークとか「大好き」という言葉を何の垣根もなく投げてよこす人だった。そんな人だったからこそ本当の意味での「好き」ではないとわかっていたつもりだったが言葉は魔術の呪文のように人間を溶かしてしまう





はあと (千夜一夜・その147)


麻薬のようなその言葉に私は戸惑わず、いくらかの期待も持たなかった。あの子の言葉は日常のひとかけらのできごとであり、この人にとっては何ひとつ飾りを纏わない自然な挨拶だったのだろうから。しかし、心の奥深いところで私の心はピクピクと緊張し、温まってゆく。木枯らしの吹き始めた11月中ごろに、仕事帰りの坂道を下りながら、今日も元気な顔を見れて嬉しかった、とメールしたら、ありがとう、大好き(はあと)、と返事が来た





胸のぬくもり (千夜一夜・その148)


冷たく強い凩が頬を突き刺すホームに立ち間もなく列車入ってくるというときに胸の中でケータイがぶるぶると震えた。「ありがとう、大好き(はあと)」の文字が目に飛び込んだのだから私に戸惑いがなかったとは言い切れない。ワカッテいるのだが。オブラートに包んだ飴玉をそっと口の中に放り込んで周りをキョロキョロと見渡すときのように私はドキドキする動揺を大事しながら誰にも気づかれないようにケータイをポケットにしまった





ショーウィンドウ (千夜一夜・その149)


何も見なかったような顔をしながら言い聞かせるようにホレテハイケナイと心の中で反復していた。惚れてしまうことはないという自信はある。叶わぬものに手を伸ばすのはもうこりごりだ。痛い思いも辛い思いも嫌だ。凩はその日から毎日のように吹き荒れた。帰りの列車を待つ間、ひまつぶしに駅前のカジュアルな洋品店街を歩けばショーウィンドウの中のざわめきが聞こえるような気がした。▼シルエット、キミに見えるてくる木枯らし





えくぼ (千夜一夜・その150)


あの人を初めてみたというか初めて会ったのは、つまり、長い間遠くを繋いでいる電話だけで話していた人に初対面した日でもあった。しかし、そのときのあの人の残像は何ひとつ記憶にない。要件は微かに覚えていて、ちょっとした連絡か何かだったのだろう、例えば嬉しいとか驚いたとか予想外とかそういうものも何もない。静かに首をかしげて廊下を歩いてゆく姿と明るくにっこりとほほえむエクボだけが私の記憶に出てくる始まりなのだ





残酷 (千夜一夜・その151)


あの人はいつもひとり静かにいた。本当はそれほど人付き合い上手じゃなかったのだろう。無理矢理それを隠していた訳でもなかろうが、そのことに触れられるのが嫌だったに違いない。そんなふうに頑張って背伸びしている意地らしさが憎めなかった。-いつでも、白波のように、絶望が牙を噛んでいるのだ。海はまったく人生に似ているよ。粗暴で、強情で、残酷で(福永武彦)-あの子も激しい性格だったか。細雪の三女・雪子が思い浮かぶ





惹かれる (千夜一夜・その152)


私がその人に吸い寄せられてゆく始まりのころはエクボの素敵なくらいの感動しかなかった。なのに、福永武彦が「風土」の中で残酷だと書いていた海が持つイメージを放つその人に私は惹かれてゆく。あの人にはハイヒールもお洒落なブーツも無縁だったし銀のピアスも亜麻色の長い髪も似合わなかっただろう。そういうものは、彼女の可愛さにはそぐわなかったのだ。でも私はドラマを描くと必ずあの人のイメージをそのように自由に変えた





しみったれ (千夜一夜・その153)


さて、そろそろペンを置く支度をしよう。もうそれほどいつまでもこの人のことを書き続けるわけにもいかない。すい星のようにある日わたしの前に現れた人だから、すい星のように消えていってしまってもおかしくもなく、わたしはそのことを知らなかったつもりでいれば何もこれ以上哀しむことなどないのではないか。ところがそうではない。どこの女性たちもが助言するように男とは未練に満ちた動物でしみったればかり。そうわたしも





ケーキ (千夜一夜・その154)


日が暮れてしまった夜空にうっすらと銀色の分厚く重たそうな雲が横たわっていた。冷たい風が頬を切る様に吹き付けると滲んでいた涙が目尻を伝って凍る様に肌を刺す。煌煌と明かりを放つケーキ屋がすぐそこに見える。何の用事もない自分にとってそこへ出入りする人に興味などないものの小さな箱を下げて車の中へと足早に消える女性の姿をみるとそこには幸せが一杯詰まっているのがわかる。あの人はどんなケーキが好きなのだろうか





サイレン (千夜一夜・その155)


ケーキなんて...と投げ捨てるように思った後、それでいいのだとひとりごちた。すると今度は頭の中に再び大晦日の救急車のサイレンの音が蘇った。幾つも山を越えねばならない村の名が車に書かれている。この町で誰がどうなったのだろうか、老人が脳内出血で倒れたか、予定よりも早く子どもが生まれるのか。あのときに感じたこととはまったく異種とわかっていながらも目の前を流れゆく社会の悲哀や驚愕を肌身に感じつつ家路を急ぐ





マボロシ (千夜一夜・その156)


去年のある日あの人は怪我をしたという。横転した車の下敷きになって十数箇所を骨折したと、歩けるようになった頃ひょっこりと便りを出した私に無造作に教えてくれた。便りはそこで途切れた。あれから私は依然としてマボロシを追い続けている。夢を見ながらマボロシを追い、夢のなかでまた夢を見る。マボロシの自分が堕ちてゆく。あの人のことはもう嫌いになろうと思いながら、マボロシの翼に乗って逢いにゆきたいと夢見ている





十年 (千夜一夜・その157)


彗星のように女は現れた。そう、およそ十年ごとに、襲ってくる自然現象のように、わたしの前には女性がひとり現れた。十年という時間が何を意味するのか不明であるが、ほぼ間違いないこの時間の空白の後に次の新しい物語をわたしは迎えた。それは石畳を共に歩いたあの人だけではなく、十年前にも、そして二十年前にもわたしを惑わせて狂わせて失意の淵に追いやってしまうというような人生に凸凹を残してしまう出来事で幕を閉じた






突然 (千夜一夜・その158)


たとえそれが忌々しい記憶であっても、魔法に罹ったわたしが愚かだ。そもそも魔力に憑かれたように狂ってマボロシを追い続けるなど愚かさと浅はかさの至りだ。しかしながら、狂った側にも理由がある。ふだんから素敵だとか理想だと言い続けているような人物ではなく、趣味も性格も考え方も何もかもが突然変異的な人が目の前に現れたときに、わたしはどうやら魔術にかかりやすいということがわかってきた。十年とはそんな時間なのだ





見えない糸 (千夜一夜・その159)


わたしは見えない糸を手繰って彷徨い続ける。その糸のたもとにはわたしを麻薬で犯した悪人がいて、いけないことであっても糸を手繰り続けている。昔話で誰かに教えられたように、「玉手箱を絶対に開けてはならない」と固く忠告を受けたにもかかわらず開けた愚か人のように、わたしは夢を求め未知なるものを探し続け、細やかな誘惑に引きずられながら見えない糸を手繰る。ときには風のように、また詩人のように、自分を失いながら





冬籠り (千夜一夜・その160)


寒さは嫌いじゃないのだと口癖のようにいいながらも、ほんとうは温温とした暖炉の前が好きなのだ。冷たく肌を突き刺す季節風が吹く時期にはどこかに籠もってしまうのがいい。この「籠もる」という言葉にじっと息を潜めて時を待つようなイメージがあり、それが好きで家の中に冬籠るのを私はとても好んだ。もう誰にも会わない。とことんひとりになって、身体から汚れた膿を絞り出し、綺麗な血が滲み出てくるのを私は待つことにするの





私のゴール (千夜一夜・その161)


終点なんて一体どこにあるのだろう。本当にあるのだろうか。ゴールと書いてみて、少し見えてくるような気がする。ある人を追いかけて、追いつくことなどできもしないと知りながらその行方を想う。もう会えないかと不安を抱いたことさえあったが、今はそんなことは考えたくない。確かに結果は見えていた。愛とか恋とか情熱とか。真心とか真面目とか誠実とか。そんなモノで歯が立つならば、哀しみという言葉は不要だったことになる





失う (千夜一夜・その162)


わたしをすっかり見失いはじめている。このままでは意識の置き場も喪失してしまうだろう。喜怒哀楽の感情が空中分解してしまいそうだ。何が一番今のわたしにとって哀しいことか。それはあなたを忘れてること。遥か遠い人にしたくない。わたしが好きなことに気づかないふりをするなんて、この世のどんな拷問よりも苦しい。だからあなたをそっと、遠くもなく近くもないところから見つめていたい。でも、それさえも不可能なのがとても悔しい





追いやる (千夜一夜・その163)


かくて私はその人のことを自分が持てる記憶の果てへと追いやろうとした。言うまでもなくそんな辛さに何故遭わねばならぬのか。望みはもはや微塵もなくなり如何なる努力を成したとしても最早努力だけでは揺るがせないものの諦めであったのか。崩しようのない大きな壁がそこにあり、決して動じることのない固い意思でそれは支えられていた。法や心を捻じ曲げようとしてみたところで壁は容易く動かせない一種のエネルギーを持っていた





ねぇ聞いて (千夜一夜・その164)


ねぇ聞いて、いいことがあったの。でも誰にも話せないの。口に出して誰かに言うと、シャボン玉のようにパッと消えてしまいそうな気がして。かつて、ある人から便りが届いたときに、喜んでそれを人にペラペラ喋ったらその人からの便りは途絶えたの。手紙に嬉しいことが書いてあったときも懲りずに喋ってしまってしょんぼりよ。そもそもが実るわけでもない恋心に春など訪れない。そっと一人で楽しむのが一番なのかもしれない





アホ (千夜一夜・その165)


好きという言葉を何度も自分に呟きながらこのことは誰にも言えないことなのだと染み染み思う。あの人に私の気持ちが必ず伝わっていると信じている。だが、伝わったところでやり場のなさが新たに生まれるだけで、だからあの人は、オトコの人ってアホですねと言って私をからかう様に見つめた。離れ離れになることは出会ったときに決まっていて、その人が遠くへ行ってしまった一年前にも私はこうして夕空を見上げては飛行機雲を探していた






さすらう (千夜一夜・その166)


雪うさぎ輝くことが哀しくて。どなたかのつぶやきが目に焼き付いたまま離れない。太陽の光を受けてキラキラと輝くうさぎはやがて融けて流れて消える。哀しくてもそれは破ることの出来ない約束なのだ。もう心を震わせるのはゴメンだ、慕い続けるのにも疲れたと私は思い始めている。叶わぬとわかっていてもいいというのは嘘だ。できることなら少しでも心が触れ合えばそれでいいのに。オトコの人ってアホですね。今更ながら沁みてくる





嘘つき (千夜一夜・その167)


静かで暴れることのない落ち着いたペンが綴ってゆく短い手紙の言葉は、いつかやって来る私たちの別れを予期するようだった。池に投げ入れた石ころが水に落ちる音でもなく涸れ底に転がるでもなく無音のままが続くなら、それは終わりを意味するのだろう。今になって思えば、それは穏やかで優しそうにも見えるのだが、実はそんなに生やさしいものではなく、呪文ほどに震えていたのかも知れない。陽炎のような日々。君のこと好きだと言った嘘つき





星より秘めやかに輝く (千夜一夜・その168)


貴方には星より秘めやかに輝くときがあって、華やかな面影を漂わせつつも、光の中に吸い込まれてゆく哀しみを抱きながら、ひっそりと暗闇の中へ姿を消そうとする揺らぎを持っている。小さく点になってもなお瞬き続ける情熱を滲ませて、ぽつんとひとりの貴方は孤独と闘っている。それが私にはわかった。雨よりもやさしく春のそよ風よりも爽やかなシルエットに包まれても誰にも言えないものがあったの。いつもそんな気がして貴方を見てた





惹きつけるもの (千夜一夜・その169)


時に鬱になるとあの人は話してくれた。どんな気持ちで打ち明けたのだろう。私を突き放すつもりだったのかもしれない。でもその話を聞いてあの人を絶対に放したくないと私は強く思った。時々ヒステリックなふりをする時もあるけれど、それがますます私の気持ちを傾けてしまう。あの人は知らない。ただ単に好きだからあなたの前にいるのではない。離れたくないほどの魅力があなたにはあるのだ。それを伝えたいけど、あの人は耳を傾けない





ひっかく (千夜一夜・その170)


おとなしく黙って向かいに座り少しだけニコニコし何も自らは話し出そうとはせずテーブルに置かれたヤマモモの生ジュースのストローを口に付けたり掻き混ぜる素振りをしたりしながら決してため息をつくこともなく店の周りに広がる森を眺め遠くから届く潮風を感じているのだろう。海は無言でその人も無言。この人を誘拐しどこかに逃げてしまいたいという衝動。きっと私はその人の立てた爪で激しく責められるだろう。▼ひっかいた心の隙間にキスをする





封じ込める (千夜一夜・その171)


メルアドを聞き出せばきっとときめかなくなるだろう。そのまま、知りたいと願い続けるのがいい。聞き出すチャンスはいくらでもあるのだから、たやすく使ってしまうのはやめた方がいい。昔、夢を叶えることだけに突っ走って、叶えた夢を愉しむことをうっかりと逃したことがあった。あのときを忘れてはいけないのだ。だがこの人は、自らを語ることは一切なく、まるでこれまでの苦渋の過去を自分の胸に封じ込めようとしているように見える





ツツジ (千夜一夜・その172)


梅雨の走りの雨があがったあの一日だけに晴れ間がやってきた。まさにその日に、私は一枚の写真を撮って届けたくて花の咲く石畳のあの道を訪ねた。しかしそこには花はなく、私を迎えてくれたのは新芽の緑が鮮やかに吹き出している光景であった。ピンクの花びらをこぼれんばかりに咲かせているような、夢に描いたツツジはどこにもなかった。失望が私を襲う。次にここに来るときはきっと梅雨だろう。▼ツツジ咲くいつかの雨に散るために





遠回り (千夜一夜・その173)


雨に散ってしまう運命のツツジであっても、あの甘い香りを放ち、鮮やかに咲き誇るツツジの花の坂道が私は好きだった。夕暮れのひととき、電車道沿いの坂道歩けば、二人がたとえ言葉に詰まっても困ることはなかった。ハイヒールの足音がコツコツ響いていたのが蘇ってくる。あなたは遠回りじゃないの?と尋ねることはできなかった。あの人は何かわけがあってこちらの道を歩いて帰る。私の知らない理由にちょっとヤキモチを妬いた





十六夜 (千夜一夜・その174)


窓を開けて月を眺めている間に私は眠ってしまった。満月のクセに隣の屋根に隠れそうなほど低空を月は横切ってゆく。初夏の月を見て...どうしてもあの人に会いたいと思っている。誰にだって私の心は嘘をつけない。何を見ても何を耳にしても、あの人が目の前に出てくる。月が白く淡く輝けば、色の白いその人を思い出し丸い顔が蘇ってくる▼丸い月アノコ髪型変えたかな▼空をみる切ない切ない十六夜。眠れば切ない夜は終わり朝が来る





蛇苺 (千夜一夜・その175)


ただの女をマボロシを見るように私はひたすら追いかけていただけなのかもしれない。二度も三度も四季が移ろいゆく合い間にも廃れることのなかった想い。どうやって始末すればいいのだよと問いかけたとしても、アイツはネコのように知らんふりをしている。酸っぱい顔をした真っ白な猫のような、ただの女を、私はマボロシを見るように追いかけていただけなのかもしれない。▼蛇苺あしたの恋を占うて。へびいちごとカナでは書かない厳しさ





赤く小さく (千夜一夜・その176)


そうか、ただの女か、マボロシか...と繰り返しながら。その人を思うと寂しさがどっと覆いかぶさるように私を襲った。蛇苺を見てヘビを想像できるわけがない。爬虫類のあの冷たい触感はとても苦手だから。真っ赤な苺は小さいからこそ惹かれたのか。▼黄色い花、貴方を想う優しい花。もしもこの時に出逢った花が赤色だったら私は優しいあなたを慕わなかった。▼怒りん坊そんなあなたに出逢いたい。膨れ面のその人を想像しただろう





南風 (千夜一夜・その177)


もういいよ、キライになるから。そんなうそは言えないね、おまえさんには。そんな会話を思い浮かべつつキライになれたらどれほど楽かと考える。南風が優しく吹き込んだのだろうか。日が西に傾き湾の入り口付近の水平線に丸い月が昇ろうとするころ、風は止んでいたに違いない。点々と浮かぶ鯛の養殖筏を、さざ波の跳ね返す光が飾りの様に光らせていたのだろう。あの人のいるあの浜へはもう私は行けない。▼南風凪を待たずに消えてゆく





まさか (千夜一夜・その178)


まさか、ほんとうにあのときの別れが永遠の別れになってしまうとは、誰にも言えない途轍もない悲しみだ。確かに、もう逢えない予感があったのだが、あの人は、もはや私の前に姿をあらわそうという気持ちを一切持っていない、ということが少しずつ明らかになるほどに悲しみが押し寄せてくる。何かの拍子にまた切っ掛けを作って逢えるだろう、と軽々しく考えていたものの、どうやら、今度ばかりは心で受け止めねばならないようだ





(千夜一夜・その179)


二百文字という限られた升目の中にあの人への想いや夢物語やささやかな思い出や取るに足らない淋しさを書いてきたのだが、もうそろそろオシマイにしよう。夢中になっても静かに語りかけても、すべての私の思いはあの人にもう届け終わっているのだから、オシマイでいいじゃないか。日が暮れてゆく凪の堤防で、おしゃべりな私を無口にしてしまうような魔術を持っている海に向かって、さようならの言葉のあとの十二文字を考えている





ぱっと咲く (千夜一夜・その180)


「思いつき。あなたを好きになったのも」 十七音を浮かべながら、心にもない言葉の遊びだなと思っている。あの人を思いつきで好きになってしまうわけがない。じわりじわりと素敵さが見えて来る毎日を送りながら、意識してそっとその可愛さに触れてみると、パッと花が咲いたときの驚きのように私の心は揺さぶられたのだ。そういう感動を感激にして持ち帰って眠れない夜を幾度か過ごせば、誰でも魔法にかかったようになってしまう





煩う (千夜一夜・その181)


もう想い煩う必要がなくなったのだと染み染み思う。あの日、ふとしたことでこれまでに一番欲しかったあの人の笑顔を私は手に入れた。それはケータイか何かで撮影した写真で、その笑顔に再会できたことで私はこの上なく幸せになれた。これまで「逢いたい声が聞きたい遠くからでも見つめていたい」と日記に綴り、静かに佇むものを眺めては想いを募らせていた。しかし本当に一番欲しかったのはこの子の笑顔を心にとめておきたかったのだ





しあわせ (千夜一夜・その182)


十年ごとに彗星の如く私の前に現れては私の心を惑わせ煩わせていつかどこかに消えていってしまう人たち。戸惑ってはいけないときにその人に出会いやがて意味も訳もなく堕ちて行ったのだ。好きなわけではないし独り占めしたいわけでもないと言い訳を並べ立てても、ほんとうは大好きで独り占めして誰にも渡したくなかったのだろう。今なら潔く認めてもいい気持ちが満ち潮のように押し寄せて来る。何度も何度も「私はしあわせ」とくちずさむ





さわやか (千夜一夜・その183)


そうさボクはさわやかという言葉をすっかり忘れてた。キミはさわやか、素敵な笑顔と透き通る明るい声で僕を幸せにしてくれた。...と青春ソングのような詩節が浮かんだよ。気がつかなかったけれど、あの人はアルプスの少女ハイジのように、少しも悪意など持たず人を疑うこともなく憎むこともなく、意地っ張りでもなく見栄っ張りでもなく、みんなに微笑みかけてくれたのでした。その微笑を私だけが独り占めしようとするのはいけなかったの





想い続ける (千夜一夜・その184)


あの人への恋文は、もうおしまいにする。さわやかさも、ほほえみも、優しい眼差しも、すべてがマボロシのような夢だった。その夢に描いているあの人はきっと現実には思うほどに素敵じゃなったのかも。それでも私は好きでいたいのだと片意地のようなものを張りながらも突っ張ってきたのだけれど、今は嵐が去ったようにさわやかになってゆく。あの人というマボロシの女性を描きながらその虚像と実像を重ね合わせつつ想い続けたあのころ





暗号 (千夜一夜・その185)


貴方にだけ暗号のように届く手紙を私は書き続けたいと願った。それは私が考えていることや想いを貴方と少しだけでも共有できたらという切実な願いであり純粋な祈りのようなものだった。どうしても貴方に届けたいという重苦しい感情は引き潮のように翳ってこのときは片隅にそっととどまっていればそれでいいと思い始めていた。けれども貴方はいつものように気まぐれ子猫が尻尾を立てたまま知らんふりをする如く私の便りには無言だった





変わらない (千夜一夜・その186)


貴方へ届けようとした数々の手紙は、あれはもうマボロシであったことにしてしまいたい。確かに正直な呟きだったのだとも言えなくはないが、恥ずかしくも大人が綴る恋文ではなかったのでした。貴方に多かれ少なかれおバカで愚かなメッセージを届けてしまい迷惑をかけてしましたことを悔やむ。赤面するほどに恥ずかしい。大好きは変わらないものの、一時期の様な狂気の夢中さは今はもはや静まってしまって、しっとりと昔を偲んでいる





抜け出せない (千夜一夜・その187)


オトコがオンナに惚れるということはある種の狂気の沙汰なのだと今ごろ気づいている。冷静になって醒めた頭で一部始終を回想するとき、あんな愚かな手段でその人をこちらへと振り向かせようとしていたことがこの上なく恥ずかしく最低だったとわかる。どんどんと自分を負ける戦に導いていってしまいそれに気づけない。いや知っていても抜け出せない制御不能の状態になった。そしてあそこに進化は存在しないのだと、あとになって分かる





銀に輝く (千夜一夜・その188)


いつか昔、誰かに打ち明け話をしたことがあった。僕の心のなかにはふたりの女性がいて、そのふたりはそれぞれがまったく違ったタイプなんだっていうような話をした。名前を「銀子」と「倫子」といって、僕のえがくドラマの主人公にもしていきたいと打ち明けたのだった。そのひとりである女性が、銀に輝くススキの野原をアルプスの少女のようなワンピースを着て歩いて来る姿を思い浮かべて、私は千夜一夜を書いていたのかもしれない





悪夢 (千夜一夜・その189)


嫌な夢を見たことがった。悪夢とノートにおぼえがきをしたものの、しばらくのあいだにそれがどのような具体性を持っていたのかさえも忘れて、今さらになって、その悪が許せてしまう。そういうことがしばしば続くと、私には悪という文字は不必要なのではないかとさえ思えてくる。あの女は確かに悪意に満ちていたのかもしれないが、それ以上に愛してしまったのも紛れもなく私自身だった。そんなことを繰り返しながら愚かに生きてきた





ボタンのかけ違い (千夜一夜・その190)


都合の悪いことや思うようにことが運ばなくなって何か言い争いになってしまうと必ず「ボタンのかけ違い」というふうに言い訳をして逃げようとしてしまう。きっと、あの女も何処かで足を踏み外して人生の方向が定まらなくなったときから、狡く逞しく生きてゆく術を得たのだろう。潜在的に欠片があったのかもしれない。しかし、あの女と私の相性は「ボタンの掛け違い」というような生易しいものではなかったことに、あとになって気づく





九月の雨 (千夜一夜・その191)


夏が終わりきらない。あのころそんなことを紙切れの隅に書いてしばらく放置していた。九月に降る雨は気分しだいでどうにでもなる。あるときの雨はさぞや恨めしく、好きな人への届かぬ想いを湿らせて毒を含んだような雨にだってなる。そのときもきっとそうだったに違いない。しかし今となってはもはやいじらしさも悔しさもない。あの時間は過去でありあの人は体温を失ったように冷たくなってゆく。▼赤い花アナタの心に突き刺して





とっておき (千夜一夜・その192)


美味しい酒を手に入れたりもう2度と食べられないような珍しいお菓子に出会ったとき、それをそのままの形で残しておけないものかと願うことは多い。人一倍に欲張りで寂しがり屋なクセに、そういうものをなるべく大事にしないように自分から心がけてきたようなところが私にはある。時期を満たして消滅するのが嫌で、そいつを独り占めして絶対に誰にも渡したくないというわがままを持っているのだ。そんな私に悔やむことが幾つかある





とっておき 2 (千夜一夜・その193)


思い出は儚い。最期の年齢が近づくにつれてもう2度と会えないことが明白になってくるとある種の諦めと諦めた後のステップとしての決意が生じ始める。私には、とっておきの写真が1枚もなかった。悔やむのは、そう、あの人とのとっておきの1枚の写真を撮れなかったことだ。あの人といってもカテゴリーごとにさまざま人物があるが、当たり前のように言葉を交わし、さり気なく意地っ張りを交わしながら、とっておきを幾つか失ってきた





抗い (千夜一夜・その194)


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月下旬のある日。少しずつ寒さが増し始める毎日を送りつつ12月になったら年も暮れ大事に棄てずに置いている数々の拘りを思い切って処分しなくてはならないと覚悟している。絶対にこの人のことは忘れないだろうと思った人でさえ長い年月の果てに記憶が曖昧になってゆく。それは仕方のないことで、あのときの熱い情熱も、いや、あの激しい憎しみも今は許してもいいという気持ちに変化している。▼抗いもこの曲がり角まで あとは冬





沖を見る (千夜一夜・その195)


あの人は真っ白な砂浜をひとりで先々と歩いてゆき私を置いてきぼりにしてしまう。気まぐれに振り返り「疲れたわ、帰りましょ」というと海に向かったまましゃがみこんで目を細めた。この人を今はもう好きじゃないと口に出さずに自分に話しかけてやる。沖を漂う漁船のように流れる時間とは別次元の波動の上で生きている。そう見せかけて私は手探りをする。そうはさせぬとあの人は沖の筏を見る。波打ち際の砂が引潮で乾き始めている





供養のような (千夜一夜・その196)


もう情熱のすべてを使い果たしてしまった。冬ざれた野山で北風を受けても霜が降っても枯れることなく飄々としている雑草の如く、夢がいつになったら叶うのかとか、幸せとはなんだろうか、などということを考えるのはやめにすることにした。私は兼ねてから胸に抱き続けている「銀子と倫子」の物語を、実像のように綴ってゆきたいと思った。それがあの人を慕い続ける残された心の供養のようなものだ。▼雨降りて人恋しきと傘が呼ぶ





泥の海 (千夜一夜・その197)


二日が過ぎた。動揺は少し収まったものの、地獄に落ちるような恐怖感がときどき胸を突いてくる。夜半からさらに雨脚が激しくなったようだ。一度だけ目が覚めてふたたび眠ったら夜が白み始めていた。脱出。そんな言葉が浮かんだ。でも、私たちは逃げるのではなく旅に出るのでもなかった。私は暴走しているのだろうか。そんな自問を繰り返しながら泥のようにうねる湘南の海を見ていた。いったん上がった雨が再び嵐のように降り始めた





化粧 (千夜一夜・その198)


こんな化粧もしていないわたしでごめんなさい、恥ずかしかったわ、とその人はいう。確かにいつものように激しく美しくている貴方ではなかった。けれども、ふだんの、それは、まさしく素顔の貴方の姿で、とても素敵で魅力的だった。でもそれを上手に言葉にできずにいる自分自身がいて、ぶん殴りたいほどでした。もうこれで会えん、このときが最後かもしれん、そう予感を抱きながら貴方の小さな後ろ姿を自分の瞼にしっかりと焼き付けた





幕が下りる (千夜一夜・その199)


わたしの中を諦めと絶望の嵐が吹き荒れ過去の忌々しい憎しみや後悔が次々とわたしを悩ませた。しばらく投げやりにトロトロオロオロする時間を過ごし苦しさで己を見失いそうになってゆく。だがやっと落ち着くところに辿り着く。ここでは黒い天使が現れては消え再び近づき、わたしに哀しい過去は棄てなさいと助言する。すると消そうとする慕情がちっぽけなドラマに思えてきて、まさに幕は下りる瞬間となる。わたしはそこで拍手をした





胸にしまう (千夜一夜・その200)


一切のときめきも喜びも哀しみさえも胸にしまうことした。▼好きですとリンゴをかじって言ってみる。窓から差し込む明かりを受けて真っ赤な林檎は白く光る。でも林檎は白ではなく赤い林檎なのだ。あの人の薄くしかしながら激しく赤いチークが蘇る。その頬をじっと見つめることもできなかった自分にため息が出て、あの人は私の気持ちを知っていながらそれを許さなかった人だ。諦めがついて貴方の小さな眼が好きだったのだと気がつく





泣かない (千夜一夜・その201)


あの人はたやすく泣いたりするような人ではなかった。負けてへこたれそうになっても弱音も吐かない姿が私の印象だった。泣かないでと私は言った。もっとも私の心配などよそにあの人はたやすく泣いたりするような人ではなかった。負けてへこたれそうになっても弱音も吐かない姿をいつも見せた。だからこそ泣かないでと言いたかったのかもしれない。ほんとうは脆く崩れ落ちるような弱さを何処かに持ち合わせているのを知っていたから





無言の (千夜一夜・その202)


あの人はほんとうは見栄っ張りで意地っ張りだったのかもしれない。誰にでも好かれている自分を偽り続けていたのかもしれない。でも私はそんな疑いの想像をすぐにかき消す。窮地に追いやられても、弱みなど見せずにいつまでも美しく舞い続けようとするあの人を見続ける私は涙さえも出さず手を差し伸べることもできずにただ見守った。無言の私に気づいているのかも確かめられず泣かないあの人を遠くから見ていた。あの人が蘇るときを待つ





ささやく (千夜一夜・その203)


シェヘラザードが千夜一夜にわたって物語を囁いたように私もあの人に手紙を届けようと考えた。それは投函しない手紙で、あの人を想い続ける夜を忘れずに心にとどめておく大切な記憶だと私は思っていた。届かない手紙は千夜を超えて綴りゆけるような気がした。永遠に止まることのない振り子時計のように刻々と ペン走らせあの人をまぶたに蘇らせるのだ。夢がいつか破れることはわかっていても、その夢は棄てないで胸に秘めておく





消えてゆく (千夜一夜・その204)


夢は、諦めることはあっても棄てないで心の片隅をいつまでも痺れさせていて欲しい。私はそう願い続けて、あの人のことを想い続けた。想いながらたびたび、もう一度、山霧の晴れゆく谷間に差し込む朝日を二人で見ることができるだろうかと考えることがあった。幻を追いかけて夢をみることができるのだろうか。幻とわかっていながら夢を追えるのだろうか。やがてあの人は私の手の届かないところに消えて行ってしまう日が必ず来るのに





ヤマモモのジュースを (千夜一夜・その205)


丸い月貴方を想う白い夜。だんだんと月が大きくなってゆくのを見あげながら、貴方が出かけて行った旅を考えていた。偶然に貴方は、一人旅にゆく列車の中からメールをくれた。驚くことにそれがちょうど私とすれ違う列車だった。貴方とは凪の入り江に一筋の波跡を描きつつ沖に出てゆく漁船を見ながらヤマモモのジュースを飲んでいたあの日の午後に逢ったのが最後だった。もう会えないだろうという、よからぬ不安が脳裏から離れない





消滅する直前の炎 (千夜一夜・その206)


貴方のメールはいつも気まぐれでペンを持って言葉が浮かばないままインクが乾いてしまうほどに考えて考えて手紙を書いた私とは違って言葉をテニスボールやバトミントンの羽根のように打ち出してメールにしているみたいだっただけに、もうラケットは片付けましたとばかりに音沙汰もないときが幾らでも平気で続いたりご機嫌のときは道端の四葉のクローバほどの感動でさえ便りをくれた。あれは消滅する直前の炎のようなものだったのだろうか





時間をとめる (千夜一夜・その207)


闇を一手に吸い込むように目の前に広がる静かな海原を部屋の窓から見下ろしている。そこには時間の動く気配などはなく、生き物が呼吸をする音さえもない。風にも依らないエネルギーが生み出す大きな息づかいのなかにあって、太陽がそそいでくれる瞬きの揺らぎにも満たないほどの僅かな波が小さな筏を揺らし続けている。私の心は揺れていた。あの日、大好きだと言ってしまった私が嫌いだった。時間を止めるためにも無言がよかった。




叶える (千夜一夜・その208)


もしや時間は止まってくれるかもしれない。あの人は立ち止まって別れの言葉をひとことでもくれるかもしれない。そんな甘ったれた幻想をいつまでも棄てられずにエンドレスの悲しみに沈んでゆくところが私の最も私らしい姿でした。ほんとうは独り占めしてしまいたいと切実だった。だけどそんなことはできるわけがない。そもそもこのときの願いは、ハナから叶うものではなく、願いを抱くことで自分のなかの何かを癒していたのでした





千回の恋文 (千夜一夜・その209)


叶わなくとも千回の恋文を書き続けよう。果てることなく書き続けてゆこう。私は、そんな風に心に決めて想い続けることにしました。何の疑いも迷いも持たずにこの決心ができたのは、その人を好きになってはいけなかったからです。それゆえにこの恋が叶わぬともあの人をこっそりと見続けることの空しさを痛く感じることがあってもそれは私の覚悟のうえでした。向こう岸にいるあの人をこちらから静かに見ているだけの幸せと苦しみ





ひととき (千夜一夜・その210)


200
文字の手紙を毎夜書きました。その手紙にはいつも同じことばかりを書きました。しかしこの手紙は届かない手紙です。告げられない苦しさを書く夜はいつも静かな夜で、丸い月を見あげてはその人を思い出し、月のない夜にはまぶたに精一杯笑顔を蘇らせました。花屋の店先に季節の花が並ぶのを見ては、生け終わった花台の花をいつも静かにじっと眺めているあの人の姿を思いました。柱の陰から見ているだけだったひとときが過ぎ去る





対岸 (千夜一夜・その211)


私は臆病でありながら無鉄砲なこともしました。声が聞きたい衝動であの人の入り江が見える対岸を幾度も訪ねたこともあります。同じ町から突然電話をしたことが一度だけあったし手紙を出したこともあった。よせばいいのに衝動的にそんなことをして返事がなかったことを当然だと自分に言い聞かせて、自分の愚かな部分を責め続けていたのかもしれない。でも、あの人は優しい人だったのです。どんなときでも一瞬に見せる笑顔が大好きでした





海が嫌い (千夜一夜・その212)


冷たい風の吹いたある朝にもう冬など懲り懲りだと弱音を吐きつつ坂道を黙々と登る。鉛色の空から冷たい物が落ちてくるのに気づく。▼初雪と思わせぶりの霙かな-何を見てもあなたのことを思い浮かべてしまう自分から早く抜け出して、私は私の新しいブルースを作ろうと決めているのに、落ちてすぐに舗装道路で儚く融けてゆく霙を見つめながら、またしても雪国生まれの人のことを思い出す。あの子はあなたと違って海は嫌いが口癖だった





出口へ (千夜一夜・その213)


もう、私の物語は出口を失っている。書きかけてそのままに放置したメモが散らかって、取り返しがつかなくなっている。もう一度拾い上げて、あのとき、私が何を感じてその言葉を書き残したのかを考えて、できることならその場にいたあらゆる人の情景も手繰り寄せて、ふたたびじっと見つめて、あのときのように激しく想いをぶつけたいと願ってみる。しかしながら、そこには出口などなく、出口への道のりもさえも見あたらないのだった





白い街 (千夜一夜・その214)


あの人はかつて私が描こうとした物語の倫子と銀子を思い出せた。銀子はプチハネ茶髪のショートカット。倫子は真っ黒で長く肩まであるサラサラ の髪だった。私は現実では倫子や銀子のような人には出会っていない。だが、倫子のモデルにしたいと考えた人はあった。そして、銀子にもそんな人がいたものの、もっと知ろうとすればするほど銀子から遠ざかってしまい私の空想はバラバラになっていってしまった。▼酔いどれてあなたを想う白い街





さざなみ (千夜一夜・その215)


かつて、ベートーベンの月光を聴いては悲しみに耽った夜があった。しかしやがて、それもすべて忘れてしまう日が来るのだろう。幻のような出来事だったとか天使のような人だったと私は振り返るのだろうか。魔術にかかっていたのだとすれば思い出しもしないのかもしれない。そう、物語は入江の見渡せる小高い丘に続く石畳の坂道で始まったのだった。森の中に迷い込み、夕日に赤く染まる海を見下ろし、裸足をさざなみで漱いだひととき





満月 (千夜一夜・その216)


月は十五夜で満月になり同じ時間をかけて新月に戻ってゆく。新しい月が始まる、などといつの時代の人がどういう手がかりで考え出したのだろう。今の時代をゆく私にとってこの呼吸を忘れまいとする気持ちが襲ってくるときがある。それはあの人を思い出しあの人の面影に再会しようとするときだ。お呪いやお祈りを頼りにするわけでもないのだが、満月が空に浮かぶと高ぶりは頂点に達する。深呼吸をする。▼満月をまっている呼吸の谷間




恋文 (千夜一夜・その217)


恋文を幾ら綴り続けてもあの人は読んでもくれないことを知っていた。それでも、気持ちを投げつけるモノが欲しくて、ペンを持てば湧き上がる感情を断片的に書き残してみたりした。届いたとしてもそこで終わり、その先に道筋などなかったのに、その行き止まりまで来て私はそこが行き止まりなのだと確認している。歯痒かった。でも、それで良かったのだ。あの人は私の綴る恋文の波動とは全く違った羽ばたきをしている人なのだから





坂道 (千夜一夜・その218)


何度ももう嫌いになったと思い込もうとしたのだけれど、ふとしたことでその人を思い出すと締め付けられるような胸の痛みを感じるのだった。遮断機が鳴って、その向こうにあの人に似た姿を見つけたとき、はっとして、見つめようとすると特急列車が私を遮る。立ち止まって踏切のこちら側でその人を待つこともできず、後ろを振り返ることも我慢をして私は坂道を上ってゆく。朝日が白くさわやかな輝きで10階建てのビルを照らしているのに





突然に 続・千夜一夜・その219


この恋文の200字ノートは「千夜一夜」ではなく「200夜」にすればあっさりと終われたろうにどうしてアラビアンナイトのように千夜一夜も私は書こうとしたのだろうか。しかしその理由は明らかすぎる。千日以上になってもさらに幾らでもあの人に恋文を綴り続ける確信が私にはあったから。そしてさらにドラマとして綴り続ける予感もあった。物語が突然終わりしかも悲劇的なほどドラマは面白いのだと嘗て自分で話したようになってゆく





侘助 続・千夜一夜・その220


初めて貴方と歩いた石畳の坂道をお別れする日にもう一度だけ歩きたいと思いました。でもそれは我儘だとわかっていながら、貴方に手紙を書き綴ったのでした。そう、ひと冬に幾度も雪の降り積もることのないその坂道で侘助が凍える様に私たちを見つめている。そこでもう一回貴方に一言を伝えようと思ったのです。しかし侘助は、振り返る直前にポタリと雪の上に落ちた。ほんのまばたきほどの時間差で二つの想いがすれ違ったのでした





貴方はいない 続・千夜一夜・その221


昔々に出会った小さな子が話してくれた海のロマンの物語を思い出している。白く眩しい光が世界で一番大きな海を横切ってその子の部屋の中に横一直線に差し込む。ウチの窓の下には高い高い断崖があってその下に大きな海があってお日様はウチにまっすぐ差してくる。確かそんなふうに話してくれた。時間が過ぎ行き再び原風景に還ってきた。銀色の衣の様に輝く海原に天使の羽衣のようなしなやかさで波が揺れて流ている。貴方はいない





苦しさ 続・千夜一夜・その222


散る花と国の峠でわかれたり。この句を思いたったのは、人生で一番切実にその人を想い心を焦がしていたときではないだろうか。片思いがこれほどまでに焦れったく儚く哀しいものだとは後になって感じるのだが、このときは、あの人のところへと続く峠に佇んで集落を見下ろしては、溢れ上がる想いを噛み殺していた。あの人は私の気持ちを知っていながら、固くその扉を閉じている。それが私にはよくわかった。好きだと言えない苦しさ





潔く 続・千夜一夜・その223


これまでに何度も同じようなことや情景を書いてきたが、そろそろ終楽章を書かねばならないと思う。私には未練があった。しかし、それは決して美しいものではなく、叶うことのない儚く無残で、淫らに乱れたものであったかもしれない。私たちは清くて美しかったよと、かつてどこかで讃えあった、あの偽りのドラマを演じたのとはまったく違う。だから、潔く切り上げて、私はキョトンとしていたいのだろう。あの人を訪ねたいと思った





溜息 続・千夜一夜・その224


いったいどれほどの時間が過ぎればあの人のことを忘れることができるのだろうか。どれだけ哀しく思い出しても、また切なく苦しく恨らやんでも、その涙の量を秤で測って、はいはい一杯になりましたからお待ちどおさまでしたというような、笑話でも済ませてくれない。どこまでもいつまでも、気持ちに逆らって記憶の中にいるのは嬉しいけれど、叶わぬ想いが憎くなることもある。ああ、私とは全く別世界の人だったのだ、と溜息をつく





回想 続・千夜一夜・その225


あの人は小さな峠になった切通しの向こうにある入り江に囲まれた数軒しか家のない小さな集落に住んでいた。わたしはただそれだけで、それは内緒の話だけれど、その人を好きになってしまった。沖には鯛の養殖筏が点々とあって、その間を漁船がときどき行き交うのが見えるどこにでもあるような漁村がその人の住まいだった。一本道を行き止まりまで突き当たってしまってオロオロしていると、どこかからか彼女が現れて小さく手を振ってくれた





ざわめき 続・千夜一夜・その226


鳥が鳴きやんで、ざわめく森が息をひそめようとしたとき、貴方の影が私に近づいてくるような予感がした。やがてそれが、気配に変わって、激しい息づかいになり、ときめきが私に襲い掛かる。抱きしめたい。その衝動が言葉になったか、それとも風を震わせながら伝わったのか。突きとめることもできないままに、夢の中で見る夢の幻を私は掴もうとしたのかもしれない。強く抱きしめて離さない。更に私には激しい情熱が沸き起こった





さがしもの 続・千夜一夜 その227


ああ、あのときふらりふらりとさまよいこんだ夢のなかのようなところに戻ってきた錯覚に今でもときどき襲われることがある。すぐにそれが幻想的なイメージだと気付くのだが、そのやり切れない余韻の波に少し浸っていたい気持ちも出てくる。追いかけても一向に追いつかないし、探しまわっても貴方は見つからない。確か以前にもここで貴方を見つけたのだから、こんどもきっとこのあたりにいそうだと思いながら探すのだが届かないのだ





秋のはじまりに 続・千夜一夜 その228


私にはもうあの人を追いかける勇気も気力も情熱もなくなったのだと、あのときは確かに思った。そう。あのときがいつの季節であったかさえも忘れているのに、今、秋の風が吹いて、あららっと思ったのは気のせいではないのだ。心を空っぽにしてしまい、恋もできなくなった私に、もう一度好きになろうと誰かが何処かで囁いたのだ。もはや春も夏も忘れていても、今から新しい秋を旅をはじめよう。端末がお知らせのチャイムを鳴らすから





冬から春へ  続・千夜一夜 その229


いや、気力も情熱もなくなったなんて悲しすぎる日記だね。あの秋はそんな哀愁に包まれ、もう会えないかもしれないとまで思ったのだろう。もう一度、高台の深い森のなかの木立の間から海が見下ろせるベンチで、あの人と向かい合わせに座りヤマモモのジュースを飲みながら、交わす言葉が浮かばなくとも風に吹かれてみたい。そう!今度は薄目を開けてじっと見つめておくことにする。照れてばかりでじっと見ることすらできなかったあの日





夏になる  続・千夜一夜 その230



三篇を書いて置いたままにしている。それには理由があってないようなものだ。わかりやすく考えればわたしはもう恋文などを書く必要が失くなったのであり書く気力がなくなったともいえようし書いても無意味になってしまったわけだ。しかし、人の心などそう簡単に変えることなどできるわけもないから、あの人のあらゆるところを嫌いだと感じようが、野に咲く花のように忘れたころに姿を見せてくれると何もかも忘れてぼんやりと見つめる





海のくにへ  続・千夜一夜 その231


車窓が里山の雑木林の中から、トンネルを抜けて緩やかな下りのカーブを走り終えたときに、海景色に変わった。隣の客席の少し年老いた夫婦らしき二人が歓声をあげながら大急ぎで鞄のカメラを出している。列車は小さな入江をゆっくりと回り込むように走ってゆく。ディーゼルカーのゴーという音も断続的にやんで、真っ青な海のほとりに民家が見え始めると線路は束の間だけまっすぐになって、赤茶けたコンクリートのホームにゆっくりと止まる。そのスローに息が途絶えるような一時的な静けさが入り江のまわりにそっと佇む集落の美しさを一段と引き立てている





ぬけがら  続・千夜一夜 その232


ディーゼルカーのブレーキの音が頭の奥まで突き刺さるのを怖れて両手で耳をおおっていた子どもたちが、止まった列車を見届けてから万歳をするように両手を挙げて再び遊び始めた。子どもたちは色とりどりの服を着て駅のホームから駅前の広場を使い尽くして駆けずり回っている。ホームには柵もなければ警報機もない。古ぼけた昔からの駅舎が残っているもののもう20年も30年も前から無人化されてしまったのだろう抜け殻のような建物が、ここは列車が止まる駅なのだ、と主張するように居座っている。栄えたころはさぞかし威風堂々としていてモダンな建物であったのだろう。列車が駅に止まっても乗る人も降りる人もなく、車内放送もされない静かな時間に、子どもたちのはしゃぐ声を聞いてぼんやりとしていると、駅構内の上りホームを特急列車が警笛を鳴らしながら通り抜けていった





偶然の記憶  続・千夜一夜 その2331


半時間ほど前にケータイにメールが届きその人が上り特急で都会へ行くのでたぶん海の方に向かってくる私とどこかの駅で行き違うだろうと知らせてきていた。7時ちょうどにその人の特急は町を出ている。それが今さっき私が見送った特急だったのだろう。走り去る列車の窓にその人の姿を探そうと密かに心に決めていたしその人もメールの雰囲気で私を見つけてと伝えるような書き方をしている。でも、私はその人は私のことなどもうこの駅を過ぎるころには忘れていることなど簡単にわかった。だからその人の姿を見つけたとしても無駄なことも知っていた





偶然の記憶  続・千夜一夜 その2332


私は昔のある光景を思い出していた。偶然のことで知り合いになってちょっとした仲になった女性が一人いた。その人との出会いは、すれ違う列車の中で目があって知り合いになり何度も繰り返すうちに頭の片隅に記憶に残りそれがあるときに街で出会い話をする機会になったという、ドラマのようなものだった





偶然の記憶  続・千夜一夜 その2333


私たち何か赤い糸のようなもので結ばれていたのだわ、といつも口癖のように言い合いお互いに頷き合って楽しい日々を過ごした。しかしその人とは、その暮らしぶりを風の便りとして何度か聞き、手応えのない手掛かりにそっと声を投げ掛けてみるチャンスがあっただけで、生存の感触があっても音信がなかった。それ以上は人として押してはいけないというところまで来て途絶えている。停車駅で列車の出発を待つ間、子どもたちの歓声をぼんやりと聞いていると、不思議なほどに忘れているその昔のほかにもあった対話が蘇ってきた。淋しい静けさが私の記憶を掘り起こすのだろう



プラットホーム  続・千夜一夜 その2341


淋しい静けさはホンモノの静寂だった。物音さえしない時間と空間に自分が置かれている圧迫感がしんしんと漂う。昔に出会った静寂は偽物だったのかもしれない。ざわめく人の声と雑音に埋もれて自分だけが孤立してゆく時空のなかで深い深い穴のなかへと閉じ込められるような圧迫感と淋しさ。相互に解け合うことのできない苛立った感情が衝突している。それでも頭のなかは無音で、わたしはひとりで、目の前にいたあの人もひとりぼっちだったのだ





プラットホーム  続・千夜一夜 その2342


それは別れの舞台には月並みなものでしかなく、ありふれたドラマのエンディングのように人の動きは冷たくスローモーションで、ガラス瓶が砕け散るようにばらばらになってゆくのだった。あの人とわたしは見つめ合い手を取り合い、心を揺すりあいながら別れを惜しむように風景のなかへと溶けていった。もう逢わないつもりでいるのだと固く決心しているあの人と、その人を無理矢理でも連れ去りたいと企む悪党のようなわたしがそのシーンのなかで無言の対決をしていたのだった





もう会えない 続・千夜一夜その2351


わたしの頭のなかからディーゼルカーのエンジン音が消え去り、駅前の広場で駆け回って遊んでいる子どもたちの声が戻ってきた。ホームからは真っ白な砂浜が見えた。湘南であるとか九十九里にあるような洒落た砂浜で、海との間に広がる白砂の広さや弓なりになって消えてゆく湾の姿は湘南にも劣ることなく、むしろハワイやグアムのビーチと偽れるほどの美しさだった。





もう会えない 続・千夜一夜その2352


海岸を遠くに眺めながら子どもたちの遊び場を横切って海岸沿いの道路へと歩いて行こうとしたそのときに、一人の色の白い幼稚園児ほどの女の子が駆け寄ってきて髪飾りを作ったのだと言って編み込んだ草の輪を掲げて見せてくれた。わたしは、受け取ってそれを頭に乗せながら峠へのハイキングの近道を尋ねてみた。すると、するりと横へ振り返って古ぼけた土壁の家の方を指さして、あっちが近いのと教えてくれた。





もう会えない 続・千夜一夜その2353


すたすたと先に立って歩き出した道は自転車も押して通れないような生活路で、リュックサックが壁に擦れるのを気使いながら車の走る道路へと抜けた。おかっぱに切りそろえた髪がとても可愛くじっと見ていると小さい目は二重で澄み切っており、ぱちぱちとさせながら泣きぼくろをぴくぴくとさせている。とても美しい子だった。上品で可愛い黄色いワンピースが砂で少し汚れていた。





もう会えない 続・千夜一夜その2354


黄色が似合うという表現はこの子のためのものだと思いながら、またねと言って手を振った。こんな子にまた会いたいとふっと思っても、この子にはもう会えないのだと自分に言い聞かせるしかなく、うしろを何度も振り返っては手を振りながらわたしは峠を登り始めた





架空へ 続・千夜一夜その236


歴史の鼓動が響くような坂道を登りながらこのまま街道を1人で歩き続ければある種の自虐的遊びになってしまうと感じている。襲いかかる現実と同時にその坂道でわたしは架空の日常風景も想像した。へんてこな日常であったとしても海を目の当たりにして思い浮かぶ限りの架空物語をわたしは作り出そうとしていた。各駅停車とのすれ違いざまにメールをくれた超偶然的なあの人にますます惹きつけられていってしまいつつ非日常の夢の中をさまよう





恋が下手すぎ 続・千夜一夜その237


あの朝、私はあの人と行き違ったのだった。鈍行列車に揺られ車窓の漁村風景をぼんやりと見ているとメールがひょっこり届いて、それがほとんど忘れてしまうほどに音沙汰のないあの人で、焦がれている私をよそに今を書きまくっている。すれ違った特急列車の中からだった。その勝手気ままな猫のようなところが歯がゆいばかりで、しかも、私が好きになる人ってこんなふうに残念な性格の人ばかりなのだ。私は恋をするのが下手すぎるのだ





海 続・千夜一夜その238


初夏の陽射しが差し込む杉木立の峠道は歴史街道としても名高い。道しるべや手作りの木のベンチが充実して、坂道の先にはいびつに積まれた石段が続き、覆い被さる古木が野性的になるような箇所では青々とした苔が脇道に群生して、人々は石畳の坂道に癒される。ひとりで坂道を登りながら汗をぬぐい、息を整えるように大きく吸い込んで、森の隙間をじっと見つめるとノコギリのように尖った海岸線の向こうに真っ青な海が見えた





おしまい 続・千夜一夜その239


ものがたりの終わりは突然にやってくるのだというジンクスのようなことを考えながら数々のむかしの事件を思い出していた。もうこの人ともここでオシマイだと何度も思ったそれぞれの場面で必ず共通したことはわたしのピリオドの打ち方の下手くそなことだ。誰とさようならをするにも綺麗ではないとみんなに指摘をされて責められてきたのにちっとも上手にならないのだった。恋が下手くそ。おバカさんは一人で海でも見てなさい。(オシマイ)

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