最後の言葉 ─ 小雪篇
わはく(秘)伝 のブログにメモ書きを始めたら長くなってしまった。移動しながらコチラで書く
▶「ひとの最後の言葉」(大岡信 ちくま文庫)をみて、大岡信さんが亡くなられたころに買ったことを思い出し、さらに、わたしの父はなにか言葉を遺したのかを回想していた。
▶わたしは何を残せるだろうか。
残せる業績などなかったと卑下しても構わないが人として何かを感じたはずでゴミでもであろうがそれを残したい。
▶年が暮れてくると1年を振り返ることが多くなるので些細な事でも気にかかることが次々と頭のなかを掠めて通る。それが身近な人々の最後の言葉であるとか口癖であったりする。その人を偲ぶたびに切なくなり自分の覚悟ができてくるのが分かる。
▶父はなにか言葉を遺したのか
そのことが真っ先に浮かんだ。答えな曖昧なままなのだ。あのときを看取ってくれた人に尋ねたわけではない。なぜこれまで尋ねなかったのか。死んでゆくときの様子を何度も聞かせてもらってはその場所にわたしがなぜ居なかったのかを悔やんできたのに。わたしは知ろうとしなかったのだった。
▶ひの菜で夕飯を食べながら
今夜はわが家の母の美味しいひの菜のことを考えていた。
▶母は80歳を過ぎてから
(細かいことを気にすれば)味付けの腕も変化したてきたものの、これを衰えというよりは進化のようにわたしは思う。
▶そもそも旨味というものがヒトの身勝手な趣向で線引きされたものであり、漬物の味が変わったり、煮物の味が濃くなったり薄くなったり、寿司の甘酢の味加減に変化があったり、日によって違ったり、味ごはんの醤油や甘さ加減が昔と変わったとしても、それは母のサジではないかと思う。
▶母のたくあん漬けはわたしだけが世界で一番おいしいと思う。だから、ひの菜も母のひの菜が一番旨い。写真は地場産の店で買ったもので今年は母の漬物をまだ食べていない。
▶そんなふうなことを考えながら他愛ないおしゃべりをしておゆうはんを食べてたのだが、ちょうどそのときに日曜美術館を放送していることを新聞TV欄で知った。わたしはNHKは見ないが父がいつも見ていたのを思い出してそんな日々もあったなあと染み染み漬物でごはんを食べた。
▶父という人はテレビを自分から進んでみることは全く無かったのだが、日曜美術館はいつも見ていた。あのころのわたしはあの人の気持ちをわかろうとしなかったのだな。もう少し近づける努力はできたのかもしれないのに、なぜ、一緒に見て共感しようとしなかったのか。幸せだったというのが答えのひとつかもしれんと思っている。だからそれを知っていて父はわたしに見ろとも言わず、また、自分の絵も押し付けようともしなかった。
▶父は朝ドラも時々見てた。仕事に出かける前に家で見るか、ご飯を食べに昼休みに家に帰ってきてドラマを見てから仕事に戻っていきました。あの人が見たテレビは、おそらくその二つの番組だけだっただろうと思うと、またまた切なくなる。
▶そんなことを思い出しながら
まだ、あの人のあの人らしい言葉がするりと思い出せません。
(次篇へとつづく)
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