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豊かさと満足度

2019年12月14日 (土曜日)

今年の言葉から ── 人々は困窮し、死にひんし、生態系は壊れる。私たちは絶滅を前にしている。なのに、あなたがたはお金と、永続的経済成長という『おとぎ話』を語っている

このごろの話を色々と考えながら自分なりに重大ニュースなどを振り返ってみたりしている

 

新しい元号の令和の一文字から今年の漢字は「令」となった

 

年の瀬はそんな波も立てようのないことにアレヤコレヤと騒がしく所感を述べて、このようにワイワイとして締めくくってゆくのが美しい姿であるのかも知れない

 

経済政策にばかり目がいってしまっているアホンダラで大嘘つきで卑怯な総理夫婦を戒めるようなものは、年の瀬には一向に見当たることもなく


「豊かさと満足度」

 

の原点を顧みることもなく、行動も起こそうとしない国民たちは、「のほほん」と「令」の一文字に歓喜するのだ

 

「人々は困窮し、死にひんし、生態系は壊れる。私たちは絶滅を前にしている。なのに、あなたがたはお金と、永続的経済成長という『おとぎ話』を語っている。よくもそんなことが!」

 

グレタさんの言葉の方が今年を振り返るのに最もふさわしい言葉でありニュースであり、何度も脳裏をこだまする

 

アホンダラ総理を辞めさせられないのが悔しいし、何もしない国民の動向にも腹が立つ


Days News

 

 

 


 

2013年11月22日 (金曜日)

30年という言葉で探ってみる ─ 小雪篇

もう、小雪をむかえるのかと驚く反面、年の瀬が少し待ち遠しかったりもする。

 

▼小雪や風邪そこそこに靴磨く

 

様々な難題や岐路に立たされたり、あるいはゆとりが出来て人生を振り返るようなことがあるときに、私は幸せであったのだろうかと何度も繰り返し考えた。

 

そして、貧しかったことが即ち不幸となったわけではなかったというような朧気な解決でひとまず落ち着く。

 

身の回りには、資産家を受け継ぐ人もいれば、安定した事業を譲り受ける人もいて、或る時それを羨みの気持ちで見たことも何度かある。

 

しかし、無から有を生むためには私が舵を切らねば歴史は変わらないのだから、と思い、何も残せないけれども子どもには知の資産を残そうと漠然と考えた。知と仁があれば自分で歩めると信じたからだ。

 

6年制の私立中学に在学しているときに企業をやめたので、それから大学を卒業するまでの間に日本育英会の奨学金を400万円あまりを借金した。その負債は子どもに今も負わせている。

 

私の子育てに間違いはなかったと今でも信じているが、1円も肩代わりをして返済をしてやれないのは辛い。

 

■■

 

そんな苦渋の時代に、豊かさについて考えている。

 

豊かさと満足度
2008年(平成20年)6月12日 (木)

続・豊かさと満足度
2010年(平成22年)5月15日 (土)

 

何故こんなものを今ごろ見つけたのかというと、先日(前の日記)に読んだ宮本輝の小説の中に「30年」という節を見つめて未来へと生きてゆかねばならないということが書いてあった。

 

そこでちょうど、私もこの「30年」という数字で人生を振り返ったことがあったと思い起こし検索をしてみることにし、ブログの中にある検索窓へ「30年」と打ち込むと87件のヒットがあった。

 

社会批判や怨み、妬み、愚痴、不平、など、言い出せばキリがない。

 

宮本輝の小説「三十光年の星たち」のあとがきのなかで、非常にスカッとするほどに纏められた宮本輝の言葉がある。なかなか、言えないのではないか。

2013年7月12日 (金曜日)

温度差 のことを考え続けている

温度差のことを考え続けている。

 

昔からの友人がいる。

 

遠く離れていたときは手紙を書いた。そのうちPCメールになって、近ごろは携帯メールになっている。返事は殆ど来たことがない。

 

どんどんとボクと彼の距離が遠ざかっているような気がする、10歳あまりからの友だちだからというか、あの頃の損得を超えた人間味のわかる友だちだからこそ、返事が来なくてもオシマイにはならない。

 

二十歳の頃の友だちがいる。同じようにPCのメールからケータイのメールへと変化している。社会人になる前の青春時代を共に送った友だちだ。

 

こいつ達とも遠ざかってゆく。

 

遠ざかってしまっていいのかもしれない。彼らには家庭があり身近な社会がある。子育てにも忙しかろう。孫に夢中の人もいる。昔ながらのスタイルを今さら共有することは出来ないし、イデオロギーも変化しているだろう。

 

これまで誰とも、幸せ感というものについて、さほど語ったことがなかった。それは、夫婦だって同じ事なのだけど、私たち夫婦は98%の不一致の上で2%の接点でこうして毎日を暮らしている。

 

「豊かさと満足度」のことについてこれまでにもここで何度か書いてきたが、そのことにおいて、二人で意見を交わしたり衝突させたことはない。衝突してたがえる事になったとしても喧嘩にはならない。まして、別居にもならなければ離婚にもならない。

 

様々なものをデジタル的に捉えてフィルタリングして、スレッショールドを決めて分類していったとしても、そのお互いの中に存在する「温度差」が大きなデシジョンとなることがある。

 

最後はひとりで死ぬ。

 

その1歩手前は、家族といる。
さらにその一歩手前は、日常の傍にいる人といる。
 
心が通じ合えるとか信じられるとか何かを共有できるというような幸せ感をひとまず脇に置いておき、温度差を肌で感じ取ってみる。
 
あらゆるものが進化する世紀で生きている。

 

温度差を吸収することの出来ない機構が当たり前になりつつあるから、社会がバランスを失ってゆく。
 
デジタル化された無数のパラメータの向こうにみえるデジタルフィルタのゴミのようなもの。温度差も高速フーリエ変換する概念、が必要になってくる。

 

2012年3月14日 (水曜日)

花は桜の

●●

 

あたたかくなったり、寒さが急に戻ってきたりして、まさに三寒四温の日々が続いています。まもなく土筆が芽を出すのでしょうが、まだもう少し寒い日が続きます。

 

今年は例年よりも気温の低い日が多かったような気もします。寒さが厳しかっただけにいっそう春が待ち遠しいです。

 

2月のある日、県立博物館の移動展示「くらしの道具いま・むかし」というのを見る機会がありました。そこには暮らしのなかで昔から私たちが受け継いできた文化が並んでいました。

 

木の枡や湯たんぽ、蕎麦や米を粉に引く石臼などが展示で、現代っ子たちは、きっとそれらの多くを知らないようなものばかり。

 

昨今、省エネ活動などの影響もあり湯たんぽが注目されたり、薪を焚きつける竃や暖炉が見直されています。

 

しかし本来、これらは私たちの先人たちが暮らしてゆくうえであみ出してきたわけであり、生かしてきた知恵であるわけです。

 

そのことを考えると、エネルギーを見つめ直すことは暮らしの文化を振り返ることでもあるのだ、と気づくことができます。

 

「文化力」という言葉が少し鳴りを潜めていますが、素晴らしい環境を持続することは、その土地で芽生えた文化と暮らしの知恵を受け継いで守ってゆくことでもあります。

 

そしてそこに存在する「豊かさと満足度」にも県民性があってもいいのだろうと感じます。

 

●●

 

春という季節には花がつき物です。

 

三国志では桃園で誓いを果たし、中古では梅の花に想いを起こしています。現代、別れや出会いの舞台を飾る花は桜です。しかしながら、「サクラサク」という伝統的にも素晴らしい電報も今や電子のモノとなってしまいました。

 

大河ドラマでは西行が登場し、歴史物語に花を添えているのですが、寒さのせいで桜の開花が遅れ気味と予報されているようです。

 

西行庵のある吉野山奥千本のあたりの花が満開を迎えるのは、年度が開けた4月上旬から中旬ころのことになります。

 

昔、桜吹雪の舞う奥千本を訪ねたことを思い出します。ひっそりとした気品のある谷でした。

 

お弁当を手に再び吉野を訪ねたい、という念願が叶うのはいつになるのでしょうか。

2011年3月20日 (日曜日)

有事斬然 無事澄然 失意泰然

東北地方太平洋沖地震に伴う電力不足に対応するための家庭ですぐ出来る節電 21

という呼びかけを地球温暖化防止活動推進センターが行っています。

 

1.暖房の温度設定を控えめ(20℃)にする。

2.こたつやホットカーペットなどの部分暖房を活用する。

3.暖房時に、窓に空気層のある断熱シートを貼る。

4.暖房時にカーテンを閉める。

5.エアコンのフィルターを掃除する。

6.暖房の使用時間を可能なかぎり短くする(就寝前に1時間消すなど)。

7.暖房時に部屋のドアやふすまを閉め、暖房範囲を小さくする。

8.暖房時に家族がいっしょの部屋で過ごす。

9.照明を使う時間を可能なかぎり短くする。

10.テレビの画面を明るすぎないように調整する。

11.電気ポットの保温をやめる。

12.炊飯ジャーの保温をやめる。

13.冷蔵庫を壁から適切な距離を離す。

14.冷蔵庫の温度設定を強から中にする。

15.食器洗いでお湯を流しっぱなしにしない。

16.シャワーの利用時間を可能なかぎり短くする。

17.お風呂の自動保温を止める。

18.衣類乾燥機や洗濯機の乾燥機能を使わない。

19.保温便座の温度設定を下げる。

20.使わないときには便座のふたを閉める。

21.使用していない電気機器はコンセントから抜き、待機電力を減らす。

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私はこのすべてをすでに5年以上前から実践していますが(仕事ですから)、興味があることは、まさかこのことを知らなかったとか、無視していたとか、まあいいやで済ませていた人たちがたくさんあったとしたらどうしよう。これはちょっと見逃せないことだと思う。

 

平成17年(2005年)ころから相当に喧しくPRしてきたのだし、「美しい国」(うつくしいくに)という言葉を安倍総理が仰った時に「憎いし苦痛」(にくいしくつう)と、逆さまから読んで嫌味も書いてみたりしてきた。

 

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◎今の暮らしよりも、少し苦痛を強いて節電や生活レベルを落とさねばならない。「苦しみなしに節電ができる」なんていう甘いモノではなく辛抱を強いて今を打開すべきだ

 

◎今日の夕飯の5皿の一番端っこのお皿を節約して、世界のどこかで苦しんでいる人へ向けて届くように工夫をする

 

◎自分のお皿に盛るのではなく、隣の人のお皿に盛る。自分のお皿にはどこかの誰かに盛っていただけるようになる

 

このような気持ちをと呼びかけた。

 

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子どものころに「椅子取りゲーム」をして最後の子をはじき出す遊びをしたことがあったのを記憶している方々も多いだろう。

 

あのときのルールが、取った椅子を誰かに捧げて、自分も誰かに捧げられて、複数捧げられた人はまた誰かに捧げて、ゲームを続ける……と習っていれば人の心は違ったものになっただろう。

 

21個の節電項目を見ながら、これらはすべて誰かに捧げるために行っているのだ、と感じる。

 

これまでに「豊かさと満足感」というテーマでくどいことをこの日記やブログで書き続けている。

 

自分たちの「豊かさ」をきちんと振り返って今一度「あるべき姿、あるべき方向」をみんなで考えることが必要だ。当面は募金や支援、節電でよかろうが長期的戦略を睨んでいる澄み切った眼が必要だ。

 

改めて

 

自處超然(ちょうぜん)

處人藹然(あいぜん)

有事斬然(ざんぜん)

無事澄然(ちょうぜん)

得意澹然(たんぜん)

失意泰然(たいぜん)

 

とあえて書く。

2010年9月17日 (金曜日)

信頼というもの を考える

信頼というもの
2010年09月13日

 

▼信頼とはを考えはじめる
信頼とは何だろうということを考える。そのきっかけは、不調が続くバイクの話を読んでいた人の「もっと信頼できる店に頼ってみては」というアドバイスの言葉であり、あるいはさらに大きく私を揺り動かしたのは三十年来の友人の身内に起こっている不測の出来事に拠るものだった。信頼という簡単な言葉であっても、ふとしたきっかけで考え続け、深みを探れば果てしなくそこに潜んだ哲理が浮かび上がる。

 

▼友人に身内の危篤から
友人の身内は、危篤が続く状況に追いやられている。意識が戻ることも無く生き返ることもできないかもしれない。しかも、本来ならば近くに住んで居るはずなのに、仕事の事情で飛行機を使っても8時間以上掛かるところにいて応答のあるうちに会えなかったという。年齢的にもまだまだ20年は早いと思える。様々な面で運に背かれた形になる。信頼して、順調な軌道の上を走っていると思っていたのだ。ここにも信頼という言葉がある。そして、信頼とは人物を信じる状況を指すだけでなく、あらゆる状態を見守っている自分の心の形を表すこともあるのだ。

 

▼信じるとは何か
何をどういう形で信じればいいのか。この廃れきった世の中で信じるものなど無くても銭金があれば生きて行けるとでも言うのか。信じられるものは神のみなのか。いや、神など信じられないのか。

 

私たちは信じるということを数限りない対象において様々な形で捉えている。それは、物理的にも心理的にも、また行動科学や精神科学が及ぶような分野においても、あてはめて考えている。与えられた既得権のように厚かましく手中に持つこともあれば、感謝に満ちた信用もある。善し悪しなどは無く、ひとつの状態を表現するものとも考えられる。

 

それを物理現象と考えるなら、エネルギーは質量と速度が生み出すのだから、信頼、あるいは信頼関係というのは、そのものの思いの深さと情熱度合いということになってくるのだろうか。しかし、そこには、これまで私たちが生きてきたこと、生かされてきたことへの畏敬が含まれていない。

 

▼さらに考える
まっすぐ跳んでゆくボールは突然曲がったりはしない。路線バスも定めれていない交差点で曲がったりはしない。そうなると、どうやら、曲がらないと信じることは実は信頼とは呼べず、予期せぬときに何かの時点で曲がるかもしれないという事実を見詰め合うこと、またはそういう危機を共有すること、向き合うことが信頼なのではないかとさえ思えてくる。だからといって「危機管理」などという安直な言葉で片付けられると腹が立つ。もっと心の奥の襞の中まで沁みこんだ感情的なものが「信頼」なのだ。

 

▼信頼なんて存在しないのか
神は幸せというものも齎してくれるが、罰という裁きも可能だ。いまや、信頼という言葉自体が風に晒された死体のように、無表情に残されている。

 

信じることは信じられることだ。そこには何の合理性も実益もないし、科学も哲学も無い。
信頼という言葉が深いところに秘めている重要な意味を見失った現代人たち。
そういう人たちが溢れかえった空間(または時間空間)を私は彷徨っているのだ。

 

(日が変わって)

 

▼信頼というもの──その2
信頼というもの。・・・・というわけの分からない私の呟きにたくさんのコメントを戴き感謝します。答えの無い問いかけに答えるのは難しく、そこんところを上手にかわしてひと言を残してゆくというのは、人生を上手に生きることにも通じると思います。みなさんのもうひとつの姿を見るような思いです。

 

▼続・考える
さて、きのうのお話の続きを今朝から書いておりました。信頼という重々しい言葉を投げかけておきながら答えも出さずに、というか答えも出せずに放り出した私の心理までを理解してくれる人など、たぶん誰も居ないだろうが、私は「信じる」ということと「頼る」ということを、発生学的に考察したかったのだ。

 

◎「信」と「頼」に分けるてはどうか。もしかしたら二つに分けて考えれば見えてくるものがあるかもしれない。複合の言葉なのだから、ひとつずつ紐解けばいい。

 

◎「信じる」といことも「頼る」ということも、どちらも親の言いつけでできるようなことではない。つまり、その人自身の心の奥底に存在する本心のような部分が無意識に決定するものだということだ。

 

◎信頼という行為の結果が必ずしも正解であったり、報われる結果を導くというようなハッピーエンドなストーリーでもないというのも現実だ。

 

◎信じることはある意味では信仰のような側面を持ち、人を信じることは己の誠に通じるともいえる。「頼る」「頼られる」というような相対する言葉にもそれらが当てはまる。

 

◎さらに頼られることの奥深くには、その人物やその出来事の重みが生きてくる。人に重みがあれば、そこには尊敬の念が返ってくるし、行いであれば実行力とバックアップが対になって勢いを生む。

 

◎仁義礼智忠信孝梯。この言葉の中にも「信」が存在する。南総里見八犬伝でも出てくる語句だが、やはり人はそこに戻ってくるのだろうか。

 

▼信じる根拠の変化
人間関係が希薄になっているのだろう。だから、心から信用できるものや人が少なくなってきている。物事をお金や数字や統計的な割合で表現する傾向を見てもわかるように、スーパーの買い物ひとつを取り上げても、信用イコール数字なのかもしれない。

 

◎みんなが買っている、誰かが良いと言う、そういう情報がネットにある、カタログに信用できる数字が記載されている、性能表の内容が良い。

 

◎癌の治療、脳外科的疾患の治療についても、医者の評判、噂、テレビの情報、新薬の情報、最新医療のTVなどでの紹介、病院の事故率・失敗率。

 

▼信頼できるものの激減
数字の上では身の回りには私たちに役立つものが増えているのだが、どうも温かみのようなものが減ってしまったことで、心から信頼できるもがなくなってきて、信頼という言葉のもつ意味が軽々しくなってきたのではないかということかな。

 

▼これまでにこの日記で書き綴ってきていることは、私たちは「豊かさと満足度」という、現代人の骨の髄まで溶かしてしまった麻薬より恐ろしいものがあり、それが様々な面で人々の暮らしを激変させたこと。そして生活レベルや満足度は満たすのだけど、その変化により人と人との間に存在していた温かみのある信頼関係は、お金や数字や情報では語れないところで破壊されてしまっていること、を認識に無くてはならない。情報を活用していいものを手中に出来ても、なんだか嬉しくない気持ちが残ったりすることがあるのはそのせいなのだ。

 

▼家族を癌で亡くすかもしれない。脳卒中で死なせてしまうかもしれない。そこに、当人とあとに残るものとの信頼があれば、また治療をする医者との信頼関係が確実に出来ていれば、もしかしたら短い運命であるのかもしれないけれど、自分でもひとつの区切りをつけることが出来るのかもしれない。

 

現実にはそんなに甘いものでもないと叱られるかもしれないが、たくさんの人を見送ってきた。そういう年齢に達している。不治の病、手遅れの病気、突然の変化、事故、自殺、老衰。治療の限界を感じて自分の父も死なかしてしまったのだが、今更、そのことを悔いて仕方がない。

 

そういう世相のもとに生まれてきたのだと思う。

 

▼この日記の初版では
結局、何が言いたいのかワカラン。>自分
と書いた。

 

人の純真さが薄れてきていることを嘆いたのかもしれない。
自分のことしか考えない社会に怒りを持っているのかもしれない。
悪が悪として裁かれないことや戒められないことに怒っているのかもしれない。
世の中が、間違った方向に多数決で進んでゆくことに怒りを持っているのだろうか。

 

まあ、いいや。もうすぐ死ぬ時期が来るし。それが諦めの言葉なのだが。

 

(まんざらハズレでもない悩みかな)

2010年9月14日 (火曜日)

信頼というもの  その2

(ゴミだなと嘆きながらここに書く)

 

信頼というもの。
・・・・というわけの分からない私の呟きにたくさんのコメントを戴き感謝します。

 

答えの無い問いかけに答えるのは難しく、そこんところを上手にかわしてひと言を残してゆくというのは、人生を上手に生きることにも通じると思います。
みなさんのもうひとつの姿を見るような思いです。

 

さて、きのうのお話の続きを今朝から書いておりました。話は書物のことに無理やり急旋回しましす。

 

「それよりも一冊の本と出会って、どれだけ心を動かされるのかってことが大事なんじゃ…」

 

八木沢里志の「桃子さんの帰還」(森崎書店の日々に収録)のなかでこんなことを書いていて、冷めた言い方をすれば何を今更…ということになるが、そんなことは分かっていながら作者はさり気なく書いたのだろうと想像すると、改めて作品の清清しさが伝わってくる。

 

 

信頼という重々しい言葉を投げかけておきながら答えも出さずに、というか答えも出せずに放り出した私の心理までを理解してくれる人など、たぶん誰も居ないだろうが、私は「信じる」ということと「頼る」ということを、発生学的に考察したかったのだ。

 

 

どうしても二つに分けて考えねばならない。複合の言葉なのだから、ひとつずつ紐解くことにする。

 

信じるといことも頼るということも、どちらも親の言いつけでできるようなことではない。つまり、その人自身の心の奥底に存在する本心のような部分が無意識に決定するものだということだ。

 

もうひとつ、その結果が必ずしも正解であったり、報われる結果を導くというようなハッピーエンドなストーリーでもないというのも現実だ。

 

信じることはある意味では信仰のような側面を持ち、人を信じることは己の誠に通じるともいえる。「頼る」「頼られる」というような相対する言葉にもそれらが当てはまる。

 

さらに頼られることの奥深くには、その人物の(またはその出来事の)重みが生きてくる。人に重みがあれば、そこには尊敬の念が返ってくるし、行いであれば実行力とバックアップが対になって勢いを生む。

 

仁義礼智忠信孝梯。
これは、南総里見八犬伝で皆さんもよくご存知な語句だが、やはり人はそこに戻ってくるのだ。

 

どの漢字にも棄てがたいものがある。

 

私たちは、これまでにこの日記で書き綴ってきているのだが、「豊かさと満足度」という現代人の骨の髄まで溶かしてしまった麻薬より恐ろしいものを、もう一度見直さねばなならない。

 

この八つの文字の全てを、失いかけている。

 

(今夜も纏まることなく夜が更けるか。御免)

 

結局、何が言いたいのかワカラン。>自分

 

人の純真さが薄れてきていることを嘆いたのかもしれない。
自分のことしか考えない社会に怒りを持っているのかもしれない。
悪が悪として裁かれないことや戒められないことに怒っているのかもしれない。
世の中が、間違った方向に多数決で進んでゆくことに怒りを持っているのだろうか。

 

まあ、いいや。もうすぐ死ぬ時期が来るし。それが諦めの言葉なのだが。

2010年7月19日 (月曜日)

廊下と老化、のあとに考える

このタイトルの意味は深いな。
自分でも妙に納得していたりする。

 

---

 

先にあった選挙の結果から様々な問題提起が投げかけられている。しかし「厚み」と「深み」を備えずに、三面記事的な世間の騒動としてこれらを受け止め続けて、果たして社会が改革できるのか。私たちの暮らしが変わってゆくのか。そんな疑問も残る。

 

 

「美しい国」のいう言葉があった。その総理大臣の政策を責めるのはなく、朝日新聞が面白おかしく書いた(逆読み)「にくいしくつう」を喜んで使いまわした。「憎いし苦痛」国民は豊かさボケを早く解消し、苦痛を覚悟して暮らしに挑まねばならない時代が来ているのに、国民のご機嫌をとり顔色を眺めているようでは社会改革は出来ない。

 

 

国民は消費税率のアップにノーと言った。簡単にノーと言える時代である。
賢人でもアホでもボケでもカスでも、ノーと言えば通る。

 

 

 

或る平日の昼間に市内の有名なケーキ屋を覗く機会があった。小奇麗にした若い奥様が子どもを学校にやっている間にお茶をしているらしい姿に出会う。「豊かさ」を象徴する光景であった。

 

その日の夕刻に市内のはずれで、遠距離にある山村地区への送迎スクールバスを待つ小学生たちを見た。猛烈な夕立の中、バス停になっている空き地の片隅で傘を差してバスを待っている。傘はもはや役に立たないほどの雷雨だった。

 

若い奥様方に子ども手当てを支給するのも必要なのかもしれないが、スクールバスを待つ子どもたちに雨除けにも日除けにもなる屋根を作ることも必要だ。

 

 

「豊かさと満足度」という遠大なテーマを考え続けている。

 

そのことを一緒に考えて下さっている皆さんには、私がいう「厚み」と「深み」を理解してくださると思うが、こういうことを深く掘り下げる思慮力の格差は深まるばかりだ。

 

物理的な1票の格差も確かに課題かもしれないが、考えて判断する力の格差が開いたままそれを平等に1票として投じて、政策を捻じ曲げてゆかれては、マジメにやっている方としてはたまったものではない。

 

前政権だった鳩山氏は〔正しいかどうかは別論議として〕素晴らしい政治思想と政策力をを持ち合わせていたのにもかかわらず、その有能さをたたえる声が少ないというのは、物事を俯瞰的でかつ対論からも正確に分析する視点を、社会の大多数(いわゆる国民)が失いかけているからではないか。マスコミも一部が営業成績至上主義的になりつつあるともいえるかも。(すべて情報化社会が悪いとまでは言わないけど)

 

 

環境破壊、労働問題、子どもたちの受験や就職問題、老後の不安、課題など。解決すべき問題は山積していることのすべての源流に、経済社会構造の崩壊があると考えてゆくことに間違いは無いとは思うものの、「豊かさ」によってダメになってしまったコチラ側のほうも大きく反省しなくてはならない。

 

 

ケーキを食うなと言っているのではないし、タダだからといってイイ気になって高速道路を走って得した気分になっていてはイケナイと言っているのでも無い。

 

環境についていえば、あらゆるところで一生懸命に知恵を絞って努力をしている人がいる。海岸を清掃して歩いたり、通勤をマイカーから公共交通機関へと(たとえ月に数日でも)代えてゆこうとする人たちがあったり、雨水を利用したり緑のカーテンを軒に作ったりするささやかな行動もある。

 

高速道路は、夢の道路だ。僻地から、またはそちらへの人やモノの輸送に欠かせない。高齢化に備えての救急体制や防災体制を社会に築く必要性もあることから、高速道路を利用すれば僻地の医療体制を都市に近づけることが出来る。つまり、救急病院や日常の通院の人々は、安くて便利な高速道路を利用すれば安心感と実益も得られる。高速道路に公共交通機関としてのバスなどを定期的に走らせてゆけば、高速道路というものが地方都市の構造や広くは地域の構造も変化させてゆき、今よりも優れた環境で住みよい社会が出来る。

 

豊かな暮らしは、限られた狭い社会の人々や個人が都合のよく身勝手に暮らせるというものではないはずだ。何故ならば、もしもそのようなシステムを実現した人々だけが地域社会を構築したら、すなわちその社会は分裂して成り立たなくなってしまう。人はお互いを畏敬の念で尊重し助けあいながら存在している。「豊かさと満足度」という魔のような甘い汁を、思慮分別して切り分け棄て、一方で苦痛を受け付ける社会が来ていると思いたくは無いものの、仕方ないが、そういう風に考えねばならないのだ。それは、自分が過去に犯してきた罪を今になって償なわなくてはならないことを意味する。

 

高速道路がわかりやすいので話題になる。それを例に考えれば、何事においても「厚み」と「深み」を持った戦略構想を練ってから、ということになる。もしも。深い考えのもとでの高速料金の値下げなり無料化であったら、この政策はもう少し評価が高くなったのかもしれない。


豊かさと満足度2008年6月12日 (木曜日)
続・豊かさと満足度2008年7月 1日 (火曜日)
続・豊かさと満足度2010年5月15日 (土曜日)

 

2010年5月15日 (土曜日)

続・豊かさと満足度

(下書き)

 

続・豊かさと満足度

 

これまでに続いて、また再びこのテーマについて考える。

 

政治が混迷をしている。このことに自由に意見を言うことはとても良いことであると思う。その意見を参考に新しい意見が生まれ、次々と政治に対して意見を述べ、社会の中に盛り上がりを作り、変化が生まれるきっかけになるだろう。

 

だが、連鎖的に発生する意見のどこかのポイントで、何か異変が起こったとすると、または、違った論理が、さらには事実無根なことが紛れ込んだりしたとすると、それは途轍もなく恐ろしいことである。

 

その遺伝子の突然変異のような事態が、どんな形で起こるのかはなかなか具体例を引いて言えないために、先日からもどかしく且つじれったく感じている。

 

こうして積極的にどしどし意見を言う人に申し上げたいことは、自分の主張に対する逆の立場(反論する側)になって自分も意見が言えるかどうかのチェックをして欲しい。つまり、お互いに席や立場を入れ替えて相手を論駁できるようになったうえで、貴方の意見をお聞かせ願いたい、ということです。

 

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今、自由意見が活動的です。あるときはtwitterのタイムラインを、あるいは新聞記事のオピニオン欄を、みんなの意見が自由に飛び回る。それを誰もが自由に読めるので、次々と連鎖的に意見は躍動的になる。

 

(立ち止まって考えてみる)

 

社会はこの姿と同じように変化しているのではないか。それは政治や政策への提言だけでなく、お笑い、映画、音楽、遊び、就職活動、結婚恋愛などなど、あらゆるものが「自由」な視点で見つめられて、語られて、動いてゆく。

 

「個性」とか「自由」という便利な言葉で、その裏にあるかもしれない魔性を魔性と思わないまま社会が変化する。儲かるから、自由主義経済社会だからという盾を大いに利用し、情報科学から情報技術へと、テクノロジーの進化が無哲学の波の浚われて行ってしまった…のではないか、と言ったら言いすぎでしょうか。

 

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すべてが「豊か」になってくる。これは、自分たちの暮らしが良くなってきていると考える。

 

果たして正しいの?と思うのだ。今の世の中に大きく欠乏しているモノの1つに、(自分だけでなく)みんなをもっと幸せにしよう、ということがある。

 

お鍋料理の季節は終わったが、お鍋料理の配分で例えると、「自分の取り皿には自分では食べ物を盛らない」(お互いのを取り合うことで自分を満たす)、というような考え方が長い時代の流れの中で消滅して来ている。

 

先に書いた「政治や政策への提言だけでなく、お笑い、映画、音楽、遊び、就職活動、結婚恋愛など」において、目立つようになってきたから社会で話題になるんだろうと思う。そして、問題となって噴出しているものもある。

 

前に申し上げてみんなに知らんふりをされたことをまた書く。
今夜の夕飯のおかずの5品のうち上から2品を世界のどこかの人に届けることが出来れば。

 

ご飯でなくてもかまわない。服でもいい。知恵でもいい。言葉でもいいのかもしれない。

 

多くの人が「豊かさ」というものを得て思いやりや気遣う心、優しさを失いつつある。もっと普通の心も失いつつある。(逆に)、向上したこともたくさんあって、煙草ポイ捨てを例にとればよくわかる。昔は棄てても「変」ではなかったのだから。

 

ITというスパイスではなく麻薬に近いようなモノを楽しんでいることは、「ポイ捨て」行為と似たようなことをやっているわけで、もっとしっかりと社会を構築してゆくうえにおいて、一部の企業が儲かるとか経済が活性化されるということにブレーキになるかもしれないけど、こういう愚かな行為やメディア利用の無節操さにいち早く気が付いて、やめねばならないのが使命ではないのか、と思う。

 

技術を否定するのではない。たとえば、私がかつて専門としていた先端医学技術工学の分野で考えれば、情報科学や制御理論、材料工学を駆使して、人類の生命が持つ課題(延命、病気治療など)に役立てることが出来るはずだ。現代社会(情報政策)がITに懸けるパワーを、老人や福祉や困った人々、弱い人々に向けて活用しよう(予算を回そう)と何故しないのだろうか、と感じるだけです。

 

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インターネット全般についても、かなりの面で浸透したのだが、社会の相互の豊かさを助け合うという思想のもとに進化はしていない。ホームページでもブログでも、twitterでも、すべて自分に向かって注目を集めるための主張手段的な要素が大きい。

 

これだけの情報科学の進化は、私が30年前に学んだ世紀には予想が出来なかった。基礎技術にそれほどの進化はないし、驚愕的発明、数学にも発見があったわけでもない。
そう考えると、現代社会が激変といわれる発展を遂げつつあるのは、狐や狸の魔術に惑わされているようにも思える。

 

もっとしっかりした哲学を持ち、基礎技術を大事に扱い、人命を救うとか、老人社会や福祉システムに革命をもたらすとか、人間味を生かすような社会システムを構築する方向に使えないものか。(IT技術自体は素晴らしいのだから)

 

科学技術のエンジニアは、哲学や理学の目指した思想をまったく失い、経済社会やマネーにいまだに踊らされて、幻の「豊かさ」を追っているのではないか。(そういうところにある満足度って何者だろう…)

 

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電子ブック、IPADのニュースを見ながら、以上のようなことを考えていたのだ。

 

まあそんなボヤキだな、これは。

 

私はそのうち死んで居なくなるから、進化についてゆけなくなったらITからは足を洗うのだ。(願望)

 

Rev0.1

2008年10月 7日 (火曜日)

手紙 から

同窓生の友人たちに出した手紙。メモ

 

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各位、

 

さぞかし、呆れていることでしょう。

 

別に機嫌が悪かったわけでも不真面目であったわけでもない。

 

まあ、一番の信頼できる人たちということで、何も隠さず、嫌われるようなことを承知で、あのようなことを書いたのでしょうか。>自分

 

何でも話せる人がなかなか居ませんね。
家族だけかもしれない。

 

社会では、仕事を失っても、そのことを妻にも言えず、公園で一日を過ごす人が居て、自殺者や犯罪報道のときにも、非常に興味本位に取り上げられている。

 

結局、そういう現象を始めとして、数々の社会の悩み

 

(これは病理学的にも、人間の疾患と似た特徴を表すもので
心理学と社会学というものは、よく似た構造であり)

 

を放置してきた人間側の問題が、本質的に解決されてゆかない限り
明るい未来は見えない。

 

私は全ての源流は「豊かさと満足度」に帰着するのではないかと考えたわけです。
あまり、理屈を広げて書いた作文を見せたくないので、掲載箇所は非公開としますが

 

豊かさと満足度、だけでは大きな誤解を招くので少し補足をすると…

 

・幸せ意識、中流意識にはじまった豊かさ
・現状でかなり頂点を迎えて後戻りできない満足度。
(それらの基軸のなかに、)
・お坊ちゃまな政治家や
・タレントの議員や
・売れれば何でも報道するマスコミや
・儲かれば環境問題でもしゃぶり尽くす業界や
・奇麗事を前面に出していい格好をする企業や
・経済やマネーだけを尺度にしか考えられない狭い視野の人々や
・そういう妄想にいつまでもしがみついている人たちなどなど。

 

客観的にモノを見る姿勢の中心点が確実に傾いているのだなあと思うたびに、浮力の中心を失った船は一度解体するしかないか、と思うのです。

 

長い歴史を顧みても、人の知性とはそれほど大したものではなく、欲望とかカリスマに振り回されてきたわけで、たかが2000年にも満たない民主政治というものの流れをみても劇的な改革は厳しい。

 

物質文明やその文明を取り巻く環境が変わるにつれて思想も変遷するのでしょう。人は痛い思いをしなければ何もわからない。

 

「上から目線」という言葉が盛んに新聞などでも目に付きますが、本当にそのことをわかっている人はどれだけ居るのか。

 

今の私の目標は、年金をもらえるまで健康に行きぬくこと。これしかないのですわ。

 

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↑の前に出したメール。

 

 

 

別に、読まんでエエです。
生存としての返信ですから。

 

メールがこんので、メルアド変更してドロンしようかなと怒っておりました。
日本の社会の縮図のようなリアクションだと感じてます。

 

田中康夫の質問は、ニュースと新聞でダイジェストに知っていますが、知っている程度です。

 

それを聞きながら、家でよめはんに言った感想は、

 

概略ですが
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まともなことを考えている政治家もいるんやから、国民は真剣に考えなアカンのや。
しかし、全然、(国民は)自分のことしか考えてえへん。
社会を変えるためにどうあるべきかなど、考える気は無い。
その使命感もないわな。
自分が損したり、しんどい思いをしたりするのは嫌や。
(そう考えているだけや、ぼーっと)
それは正しい考えやけど、今の社会にはそぐわないんや。

 

自分たちが痛い思いをして、犠牲を出せとまでは言わんが、
マイナスを出してプラスに導く発想がない限り、今の社会はアカン。

 

滅びるしかない。
国民全員が失業するか、戦争でも起こって、目茶目茶になることや。
要領のええ奴が生き残って、そいつらだけが幸せに暮らし始めたら、それが破滅への道やとそのときに気付けばええ。

 

ワシには、できることは何もない。

 

ボケな国民ばっかしやろ。
やれ、人気投票が高かったから、この人好きやわぁ。
バナナの騒動。納豆の騒動と同じや。
そういうモノで価値が決まってゆくわけよ。

 

クイズ番組見て、ああ正解、やれ不正解。
こんな簡単な問題が出来た出来んで喜ぶなボケ。
賢くなった錯覚。
そういうのをボケというのや。

 

儲かるかどうか。
損失がないかどうか。
僻地の医療がそういうモノサシで決定付けられてええと思う?

 

住民のほうが先にその土地に住み始めたんや。
行政は、経済理論を盾に政治をしてええの?

 

戦争でひとりの人間が鉄砲で撃たれて犠牲になって死んで、大騒ぎするんやろ。
たった一人でも、僻地に人が居たら、医療行政は消滅したらあかんやろ。

 

経済理論の本やマネーを稼ぐ話。保険で損しない話など。
がめつい奴ばっかしの飛びつく話で、それが今の社会での、大手を振った正論。

 

技術優先で社会を良くしてきて、国民は豊かになった。
その甘い汁をいっしょになって吸ったわけやが、それは大きな間違いやった。

 

社会の中では、ほんとうはそんな技術よりも、人々の心のなかに絶対的に豊かに宿るものが、育てってゆくべきやったのよ。

 

哲学。何ですか。役に立たんやろ、そんなもん。
理学部、物理学科。そんなとこでは就職できんやろ。
(そういうふうに)目先の損得を考えるだけの社会が、
人々の心や生活を豊かにしてきたように思っていたけど、間違いでした。

 

更なる大きな間違いは、「豊かさと満足度」ということを考察したときにも触れたが、そういう大変な状況なことになっているのに、私は大丈夫、と思っていることやね。
言い換えれば、私がよければかまわないわ、ということですな。

 

そんなことを言うから、
「昨日食べた夕食の中で高額なものを上から二つピックアップして、それを取り下げて、社会に役立てる何かに使ってみるなどの工夫をする精神を持ってよ」
と言いたくなるわけや。

 

反論くるけど、将棋の盤なら、ここで180度回転させて勝負継続してみるのが面白い。
頭に血を登らせている奴に限って、相手の言い分の論理を、大空から見下ろすように理解できてないん。

 

今の国民にはそういうレベルが掃いて棄てるように居る。
少しばかり賢くなって、学歴を得て、社会的にも名誉も地位もお金も得た人もそういう中にはいますな。

 

バカ高い車が売れる社会。
車が不必要に渋滞してても仕方ない。
ガソリンが高いのに、暴動も不平も言わん。
テレビは24時間。
食い物も贅沢の限り。
食糧管理問題なんか、出てきて当然の結果や。
縄文時代に戻ることから始めなあかんのよ。

 

また、あほ言ってると思うやろ。
けど、真剣に考えて欲しいなあ。
と、愚痴りました。

 

やっぱし、ワシが立候補するしかないんやけど、大バカ国民は、ワシには投票せんしなあ。

 

どうぞ、好きにしてください。

 

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腹の内では、

 

・民主党に入れて、政治に楔を打つという戦略が必要。
・政治は自民党でないと出来ないかもしれない。
・楔を打つ必要は大いにあり、そのことで有能な自民党政治家は国民をもっと見る可能性も出るけど、出ない可能性もある。
・大バカ国民は、近所や知り合い、有名人、世間の動向調査結果などに敏感な反応を示し、真剣に考えてない(ノンポリ、体裁主義、美的自己中心な)んだから、だったらワシは真剣に考えることにしよう。
・ワシの一票は生きないことがわかっていても、民主党と自民党には絶対に投票しないと決めてます。
・生きないという結果は投票した人の人格を踏みにじる行為に等しく、哀しく寂しいのですが。
・だから、好きにしてください、といいたくなるのですよ。

 

 

行政のプロの人の中で仕事をしていますが、住民(県民)は、非常に無関心です。
自分のことしか考えていない人が多い。
世の中を改革するためにどうすればいいのかを考えている人は一部の人。
考えない人は、集まってどっかの島にでも移住してほしわ。

 

まあ、そんなことをブツブツいいながら毎晩、よめはんと飯食ってます。
晩酌はウィスキー1杯にしました。

 

もう世の中で暴れたる気合いも無いし、金も無い。カリスマ性もない。

 

行政側の人は、井のなかの蛙、ということもよく分かってきました。
しかし、「行政人。しっかりしなさい、自信を持って。」とも言いたい。

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