それでいいのだ
7月2日、Lisa さんがご自身のブログで、励まし合う人を死という形で失って、「病気になったら 恵のとき」(晴佐久昌英)という詩を書き添えて悲しい想いを綴っている。私はコメントを書けるほどの立派な見識を備えているわけでもなく、ただただ一緒に考えこむだけである。
● 悲しみの共感
残念なことに多くの人は、他人の悲しみや喜び、怒り、憎しみなどを本当に心から理解することなど、そう簡単にできないのではないかと思う。もちろん、わかり合える人もあるし、心から通じるあえることを可能にする人もある。
でも、突き詰めて考えていけば、自分はひとりであり、誰のチカラも届かないところにポツンと置かれているのだ。孤独と寂寥に押しつぶされそうになって生きている。ひとりの人を自分の力ではどうしようにもできなかった悔しさと諦めと、怒りのようなものさえも湧いて、やがて静まってくると押しつぶされそうになってくる。
● 人生を振り返る
それは、順風満帆で健康なときであっても、あるいは、失意に満ちたどん底であっても、同じなのかもしれない。見栄を張って、自分の栄光を自慢しているときであっても、孤独は孤独である。だから、見栄や名誉やお金や地位など、あらゆる愚かなものに纏われて生きていても虚しいだけだと思った。そんな生き方はさぞや辛かろうにと思ってみたりして、輝かしかった過去をあっさりと捨ててしまう決断をして、人生を諦めて自分の弱さを噛みしめて暮らしたときもあった。
まだまだ、生きるということを見渡せていないわたしと、それに立ち向かおうとするわたしが、頭の中で闘っていた。わたしは、死んでいたも同然だと自分で自分を哀れんでみたこともあったのだ。
● 人生の果てに
随分と無駄な時間を費やしたけど、棄ててしまった時間などは今更思えばカスの様なもので、やはり、生きていることに価値があった。死んでしまえば楽になれると勘違いをして一足先にその道を選んだ友や同志も居た。
人生のラストスパートを走っている。確実にそう言える。しかし、わたしには、自信がない。本当の悲しみを共感する自信がないのだ。それは、私が未だに未熟だからだろうか。それとも、悲しむセンスを枯らしてしまったのだろうか。
● 真実の自分
生きることを諦めないで、いつまでも夢を捨てないで、一生懸命に生きてきた人の姿ほど美しいものはない。言葉にはできないほど、一瞬一瞬にまたたきがあるのだ。
だからこそ、そんな詩が生まれ、人を共感させ、新しい心を増殖させていくのだろうと思う。
「残念なことに」とはじめに書き出したけど、しかしながら、それはそれでいいのだとも思うことがある。それは神様の仕業で、わかってあげないようにできているのかもしれないと考えることもある。悲しんでいる人をわかってあげられない方が本当の自分なのではないか。ニンゲンってそんなもんではないのか。偽りなく生きていれば、しかも1回だけ、真実の自分に出会うことができるかもしれないのだ。
だから、その1回きりの悲しみをチャンスにして恩返しをしなくてはならないのかもしれない。
● 幸せと不幸せ
人は、地上にいる「いきもの」たちよりも、賢くて考えることができて、感情を持つこともできるし、優しくすることもできる。憎み合うことも殺し合うこともする。科学が進化して、命という運命の筋書きも書き直すことができるようになってきている。
なぜ、そんなことまでするのだろうかと考えたことがある。科学の力を使って、筋書きを変えてしまおうとか、幸せと不幸せを同時に生むことをやってみたり、危険と安全を詭弁に論じたりしている。
蝉は、一日でも長生きをしたいと考えることがあるのだろうか。トンボは外敵に襲われずに生き延びたいと思うのだろうか。では、人は幸せに暮らすことを生命体の本能として体内に刻み持っているのだろうか。
そんなことを考えているうちに、ニンゲンは、やっぱし賢いが故に、知能を働かせることができるが故に、とても寂しい思いをしたり、幸せの正反対であるような不幸せに対面しなくてはならなくなることがある。そのことが悔しいほどに愚かにも思える。
● それでいいのだ
だけど、ぐるぐると回って、結局は「それでいいのだ」となってしまう。無抵抗であり無能力でいいのだ。そう思ってしまう瞬間も出てくる。
いい機会に恵まれた。
こうして命というものと向き合って静かな時間を過ごすことは、途轍もなく掛け替えのないことだと本当に理解してれば、一生に一度だけの一瞬で、それがわかるならば、もうそれで十分だと思うようにしている。
だから、今度は恩返しをする番なのだ。
● 恩返し
前進する気力を喪失し自命を絶った人、気力が手に負えなくなった人、突然不可抗力の事故が襲いかかった人、立ち向かえない病魔に襲われた人。過去に出会ったその人たちは、親友であり家族であったりしたわけだが、その様々な生き様にじわりじわりと責められて、わたしはここまで生きてきた。
生きている人の使命は、一人でも多くの人に、自分が蓄えた生きる力を振る舞うことなのだろう。今はひたすら悲しんで、悲しみは背負って一歩一歩しっかり歩いて行こう。それでいいのだ。そう思う。
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