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人生を考える

2015年9月17日 (木曜日)

舌まがりアナタを好きと言いそびれ

タイトルと本文とは無関係です


(Sちゃんには)
ひとり息子がいる。
大学に進学して卒業して立派な職場で働き始めた。
勉強もしながらさらに望みを叶えるように転身してゆく。
結婚をした。
と同時にアメリカに渡り数年間は研究者として
そしてツマを日本に
自分はアメリカいて
離ればなれで暮らしている。
仕事で新潟に用ができて一時帰国した。
けれどもとても忙しいらしい。
そんな理由で実家には顔を出さずにアメリカに帰っていたという。
この子の父は子どものころに離婚をして実家にはいない。
母は嫁ぎ先の名前のままでいる。
今も仕事をしてひとりで暮らしている。
この息子は東大だった。
そこを出たあと京大でも研究者として
さらに理研での研究経験もしている。
こういったことを回想しながら将来展望を考えてみる。
しかし
母の立場からは
何も見えてこないのではなかろうか。

 

 

この子の母には兄がいてその人には息子がいる。
似た年代のつまり従兄弟にあたる。
この子も良くできる子だと小さいころからいわれた。
進学校として有名な中学に進学しトントン拍子で地元の国立大学に合格。
この子の父は役所勤めで周りからも安定した家庭で
良くできる子が育ったと評判高い。
自分は地元の国立
従兄弟は東大理科一類に進んでいる。
できる子の話題になっても
地元に進んだ堅実さを大きく買われて
二人は良くできた息子たちの評判が高い。
しかし
地元の国立大学に進んだものの
卒業を目前にして大学から離れていってしまう。
卒業したかどうかさえ親戚でも推測話になって飛び交う。
しばらく引きこもったあとに公立の農業大学校に通い始める。
順調に卒業をして地元で大規模農業を運営する企業に勤め始めた。
結婚をしたかどうかは不明である。
仕事は上手くこなして
引きこもり時代の不安などは一切なくなっている。

 

 

なかなか子どもは
夢に描いたように大人になってくれない。

 

だから
なまじっか成績が良くても子どもは都会にいってしまうだけや
大学なんかにいったら古里に帰ってこなくなる
といわれる。
大学に行っても地元に何も貢献しない
農家の跡取りとしてしっかりして欲しい
などと言われる。
良く耳にする話だ。

 

 

この子の母親と仲良しにしている子がいる。
自分の従兄弟に当たる。
その子が便りをよこし

 

(アナタから)
見たらかわいそうに見える?男の子は元気で頑張って自分の生活をやってくれればいい。人に迷惑かけたり借金作ったりしなければ。だから結構楽しくやってるみたい

 

と書いている。

 

 

別に言い訳をするつもりも反論をするつもりもない。
人生は人それぞれで自分の思うように操って暮らせるわけでもない。
流れに任せて
その結果が幸せかどうか
なのではないかとも言える。

 

しかし
わたしは意思で流れを変えていきたいといつも激しく考え続けた。
叶わぬことであったのだが。

 

 

何もいいことがなかった人生だったかもしれない
それだけに
数々のお世話になった方々に恩返しをしたいと
日々
思いが強くなっていく。

 

自分たちだけが
迷惑をかけずに
幸せに暮らしていればいい
という甘っちょろい時代ではないだろう。

 

恩返しをするための強い意思を持って
親のもとへ帰ってきて
社会貢献をするべきではないか。

2015年7月 7日 (火曜日)

逃げ道

くみさんがFBで「人生の〈逃げ場〉 会社だけの生活に行き詰まっている人へ」(朝日新書)上田紀行というについて触れていた、この本をぽちっと注文してしまったくらい心身ともに読む気も起きないくらい疲れてる、という

 

読めるところまで回復したころには多分もうそこまで行き詰まってないんだろうう

 

🌱

 

自分を振り返ってみる

 

仕事が開発部門だったので潜在的プレシャーが大きかったか

多くの製品に関わってきたのは思い出ではある

 

人それぞれでプレッシャーの感じ方は違う

あのころはバイクに乗っていて連休には1週間以上も俗世界を離れたり週末はかなり身勝手な休息をしていた

 

仕事を辞めてしまえばプレッシャーはない

髪が減っていく速度が急激に遅くなっている

 

別の社会に変わってみて知ったことがある

プレッシャーの少ない社会が世の中に在るのだということだ

もしもそんな会社に二十四歳から入っていたら・・・違った人生だっただろうか

 

 

私は仕事をやめてバイクをやめて旅をやめた

人間は圧力の感じ方や影響の受け取り方に差が大きく在るものの私の辞書から「ストレス発散」という言葉が消滅してしまう

 

ストレスから解放されて初めて、その次にの打ち手が大事だと感じた

これはアブナイことだ

 

人は緊張するから生きている

 

緊張って誰のためのものか

それは自分のためにあるのだ

外部から緊張させられていると感じたら負けや

 

🌱

 

人生には「嫌い」と「好き」は都合のいいような割合では存在しない

「向いていない仕事」が相応しくなかった仕事ではない

嫌々ながら飯を食って子どもを就学させたのだから◎としたい

 

自分の夢の仕事をして成功できるなんて限られた人が実現できることで夢である

 

だから、人生をあれこれと語って見れば気付くだろうが、たぶん、成功した人の話はそれほど参考にならない

たんなる自慢話のことも多い

 

「どん底」を見た人の話には耳を傾けてもいいだろう

しばしば腹立たしい時もあろうが、上手に聞けば参考になる

順風満帆でなかった人のほう色々と悩んでいるぶん味がある

 

人生は順風に流されてゆくものではない

どんなことがあっても自分で設計をする

 

溺れていても、流れは自分が作る

そう思うことが大事だ

 

どん底で考えたことには大きな意義があった

 

🌱

 

子どもは親の背中を見ている

どういうふうに捉えるかの味付けは背中を見せっぱなしではなくて親がする

 

背中が大事なのか

真正面からの姿が大事なのか

そこで語る言葉の重みに価値があるのか

 

どっしりと重いものが親の肩に乗っている

あの頃は確かに重かった

しかしそれほど重くも感じず、楽しかったとも言える

 

子どもは木を育てるように大きく逞しくなってくれた

 

 

2014年7月28日 (月曜日)

舵を切る

何か言葉で自分を納得させようと考え続けているのがよくわかる。バイクを降りたのは決して諦めたり飽きてしまったからではない。そのことは自らの肌が感じている。

 

だが、スキッとしないのはどうしてだろう。自分で問いかけて、そこに相づちを絶妙に入れてくれるものがあらわれないからか。

 

その言い訳じみた理屈付けを乗り越えるために、「もしも」という仮説が飛び出す。もしも、仕事を辞めていなかったら、もしも、今の仕事に出会わなかったら、などなど。

 


□■

 

水平線しか見えない遠洋への船旅のような人生のあの時期に、突如、航海を打ち切って船の舵を大きく切った。その先にあったものは、衝撃的で新しい世界だった。もしもあのまま航海を続けたら、新しいものには出会えず無知のままだった。一介の総合電機メーカーの技術者としてある側面では優雅で豊かに、そしてもうひとつの側面では井の中の蛙で終わってしまったのだろう。たとえマイナスが大きかったとしてもプラスがあったところに歓びを感じることができた。
(何よりも大勢の愚かな人々が愚かな会社を愚かな方向に導き社会までも変質させてしまうことができるのだということも分かった)

 

オクラ

 

実際には仕事を辞めて新しいことを始めようとして、それを損なってしまったわけだが、出会ったものが私の心を幸せに導いてくれた。もっと早く二十歳のころに出会えば全く違った生涯を送れただろうにと後悔をした。

 

だが、冷静に考えると湧き出るように見えてくる人生の筋書きのなかに、二十歳のころに現在の業界のような仕事に出会っていた…というドラマがあったに違いなく、紙一重なのかわたしの失策なのか断定できないが「没」になった。

 

どこかにも書いたが、曽祖父が村長、祖父が村議会議員、父が公務をしてきた。皆が社会に尽くした人たちだっただけに、わたしだけが恩返しを怠り逃げ出したのは掟破りであったのかもしれない。

 

人生は一度きりとはまさにその通りで、目に見えない神の導きに出会えなかった不運だとも思う。

 

急降下のころに、ムスメは受験時代を迎えていた。何がどのように転々とするのか理屈も何もないと思うが、着地点をしっかりと見て、着地するからにはそのモノをよく知り尽くし自信を持って生きてゆく。

 

果たしてわたしがあのときに感じ得たことは、伝えたい人たちに伝わったのだろうか。舵を大きく切った人生であったが、その舵をこれから引き続きしっかりと操縦しようと考えている。

 

 

2013年8月25日 (日曜日)

人生は、後半戦がおもしろい

人生は、後半戦がおもしろい。

 

Imggg

 

 

 

 

 

そんなコピーのぶら下がり広告を見つけた。それほど新しいものではないようだったが、こういう普遍的なキャッチコピーを思い浮かべられる人とその映像を発想する人、プランを考え出した人に拍手を送りたい。

 

 

 

言葉は複雑なものでないことが望ましい。

 

 

 

もしも、屈折して不要なことを考え、生きてゆくために、雑草や藻のようなものを足や手に纏いながら浮遊していたとすれば、言葉のウラやオモテにに理屈を当てはめて考え込むだろう。

 

 

 

人生ってのは、おもしろくないことだってあるし、後半戦ばかりが取り上げられることもなかろうと思い、また、人生じゃなくても面白いものはたくさんあるし、そもそも面白く無い奴が読めば詰まらないコピーだ、というのかもしれない。

 

 

 

そんな気の毒な人がもしもいたら、おもしろくなろうと呼びかけるのだが、面白いという言葉の活用形に「命令形」はあるものの、意思を持っておもしろくコトを変化させることは出来ない。

 

 

 

つまりは、この言葉自体が直感的に面白いのであって、面白く生きてきた人やこれから面白く生きてゆく勢いのある人、そういう意思のある人を讃えているのではないか。

 

 

 

面白いか面白くないか。そんなことはどうだっていいのだ。「後半戦がおもしろい」と直感が奮えることが大事なのだ。

 

 

2012年4月21日 (土曜日)

花筏見送る人も無言なり

4月の初旬に父を亡くし、急遽帰国したときに、帰る空港から便りをくれた友だちに出した手紙を、上手でないところは少し書き直したが、記録しておく。4月15日早朝に。


 

私の地方の桜は、まさに今散らんとしていて、
▼花筏見送る人も無言なり
というわけで、信州よりも一足先にソメイヨシノは葉桜になろうとしています。

 

お父さんがなくなって、そのあとにもmixiの日記を書き足していたりするようですが、人生なんてのは、そんな継ぎ接ぎだらけの驚きや喜びで出来上がっているのだと思っていた。

 

そんな中、今、自分の頭にあるのは、自分の番もやがて来るということで、もしかしたら、この次に葬式にかかわるのは、81歳の母親の葬式でないならば自分自身の葬式であるのかも知れないということだった。

 

そう、喪服なんて着られるかどうか、サイズのことなど気にしているなんて(といっても軽く触れただけなのだが)、お笑いネタみたいにも思えてくる。葬式なんてのはそんな感じでやってくるのがありがたいのだろう。

 

今の時代、いつでも会えるという安心感が潜在的にあるものの、 18歳で家を出てしまったこともあって、父親はそれほどいつもそばにいたわけでもなく、それは父だけでなく母もそうですが、これから死んでい行くという不安や恐怖はなくて、既に私の心の片隅に住むところを持っていた。だから、どうぞ楽に痛みもなく逝ってください、とわりと冷めて祈っていられる。日々一緒に暮らしているならばまた話は変わってくるのだろうと思う。

 

しかし、生きるということは、人それぞれの思いの違いが歴然として出てくるもので、私の母の場合は、もうすぐ死ぬだろうと自分で言いながらも、ものすごい負けん気で生きたがっているのがわかる。「食事に注意を払って、生活に気を使うように」と、子供らに言われても気にしないようなふりをしながらも、生きたがっているの伝わってくる。

 

その点、父は14年前に逝きましたが、いつ死んでも仕方がないほどにそれほど健康ではなかった人だったのですが「生きられないのは悲しいなあ」といつも嘆くようにしていた。けれども諦めのようなものを持ってようにも思えるときがあった。

 

私は父譲りで、生きることには、固執しないような面があって、いつ死んでもいいなと思っている。

 

人には、人を育てるという、つまり育成し次世代をよいものに改革してゆく大きな使命があって、(貴殿の場合は子供がないのでそのことには、理由もわからないし触れてきませんでしたが)、社会的に、その使命を負うことで、さらにもっと早く若き時代にその使命を意識することで一人前になる条件のひとつが揃うと思う。

 

夫婦になる、つまり結婚して家庭を持つという基盤のうえで社会に参加をし、その基盤の上で社会を見つめて、人間を見つめて、あらゆるものを理解しながら生きるのだ。人とはそういう社会の中で、社会に貢献して恩返しもしてゆく使命がある。

 

自分が楽しく。そんな傾向が現代社会に蔓延しているけど、人間なんてちっぽけなもんだから、社会を永遠に引き継いで行くような遺伝的な動物的使命を持っていることをあっさりと認めて、毎日の暮らしを見ることは大事なんだと、45歳あたりを過ぎてから切実に思う。

 

つまりは、詰まらない見栄や快楽や豊かさや怒りなども必要なことは認めるけど、そんなことにこだわって自分の人生の目標を狭義的に決めてきたことが社会の中での不満を生み、ばかばかしい欲に走る遠因でもあるような気がするのだ。

 

ボケに満ちた今の社会の奴らに対し、死と向かい合って生きろというわけでもないし、もっと世の中に尽くせというつもりもないが、じじいになってきて、そういう自分のことばっかしを見ている人を見ていて、ああ、あれは間違っていたな、と自分を諫めるわけです。

 

人にはさまざまな家族があって、そのお父さんがどのような影響や言葉や規範を次の世代に与え、遺していたかまでについて僕の言及するところではないのですが、父の遺したあらゆるものが、ゲーテの残した言葉と同じくらいに、神秘的で、詩的で、あるときは論理的に解釈することで、結構蘇って来る。

 

つまりは、ささやかな周期で、遠大なる使命を背負っているということなんだ、と思うわけです。

 

花筏を、歓喜に満ちた酒宴の後の酔いで見送る人もあろうけど、散る花を惜しんで、涙で悔やむ人もあろう。別れと出会いの季節である時にお父さんが逝かれたことは、ご本人がどんな病だったのかはわかりませんが、花の中でのご逝去として記憶に残ると思います。

 

僕が第15回目の三重県の俳句で
▼散る花と国の峠でわかれたり
と書いて佳作になった時の心はどこにも書かなかったし誰にも言わなかったけど……。

 

別れとは、そういうものであり、峠道の向こうとこっちでは新しい暮らしが待っているということです。

 

新しい使命を明確にして、さまざまな社会の一員として、小さな力であり大きな力になって、もうしばらく生きていきましょう。(……と、自分に言っているみたいな手紙になってしまった)

2012年1月25日 (水曜日)

感謝とか恩義とか仇とか憎しみとか。

たくさんの人を見送って自分も大人になってゆく。

親が死んで、世の中がはっと見渡せる。

人の宿命かな。

感謝とか恩義とか仇とか憎しみとか。

いろんな言葉があるけれど、こんな節目をいくつもこなさなきゃ、真意はわからんものよね。

これからよ、人生は。

 

---

 

先日、ある方の言葉に走り書きで上述のようなコメントを書いたのだが、この言葉には至らないところが多いことがわかる。

受け取った人は困惑するし、伝えるべきことではない部分で反応なさった可能性もあろうし、このように意味の難解なコメントは避けるべきであろうと自分に言いつつ、少し分析を試みる。

 

ヒトは、通則として歳の順番に逝ってしまう。このことは千年経っても変化は無い。通則。

 

しかし、その規則に従わない事例はいくらでもある。世の中は例外によって成り立っている。だから、確率論も存在するし、そのおかげでご飯も食べてくることができた。

 

親より早く逝く。逝くべきでない人が先に逝く。

私たち人間は、このような一見して不条理のようなことに底知れぬ悲しみを抱き、嘆き、苦やしむ。

 

ヒトの涙は、すべてが悔しさから成り立っている。悔しさを克服すれば涙はなくなるが、悔しさをなくしたらヒトはヒトではなくなってくるのではないか。つまりは、涙はヒトの証なのだとも言える。

 

親しい人が死んでゆく。死んで欲しくない人が死んでゆく。引き止めることはできない。

そういうものを運命といい、その重みを背負うことを宿命という。

 

恩義を強く感し、人を惜しむ。そこには、感謝の気持ちがあふれる。

しかし、場合によっては仇とか憎しみであることもあろう。

 

死んで欲しい人があるとまでは断言できないにしても、人生の道程の上から消えてしまって欲しいと思う人が過去にいたことは事実だ。私はそういう悪者の側面も持っている。

 

死んだら終わりであっても、許せないこともある。死刑ではなく、懲役千年というような極刑も世の中に存在して欲しいと思うことすらある。

 

命を亡くした人を見送るのは辛い。そしてその辛さは必然的に年齢と共に増加し、それは指数関数的に、そう、f(x)=exp(x) 的に増え続け、最後は自分である。

 

その1コマ1コマに自分の感情の乱れがあり、哀しみはもちろんのこと、苛立ちや憎しみ、同情、後悔、怨念、果ては無関心などもあるのかもしれない。

 

だが、その瞬間に自分自身を奮わせる波動のようなものは、誰の力や意思によっても揺るがせることはできず、心が正直であればその微動でさえも受け止めざるを得ない。

 

得てして、人は未熟で未完成で揺らぎに動じやすい時期に、困難やアクシデントなどの大きな変化を受けることが多い。いや、そんな気がするというのが正しく、それは確率の基本式を紐解けばそれほど難解ではないだろう。

 

人が消滅して行くときに、私たちは何を思うのか。

 

それは儚くも、巻き戻すことのできない過去であり、死に直面するたびに許せなかった過去や許してもよかった過去を振り返り、消えてしまったもの、─ それは命であり罪であり、または功績でもあろうが ─、を手繰るのだ。

 

人にはそういう節がある。竹のような節目かもしれない。

その節目を、いったいいくつ数えれば自分の番がやってくるのかは分からないけど、その節目を迎えるごとに一人の人間としての自分の姿を見つめ ─ 暫らくしたら忘れるかもしれないが ─ 、広くて澄みきった視野と、熱くなりすぎない冷静な感情と、いつでも奮えることのできる心を、少しずつ固めてゆくのだ
ろう。

 

ちっぽけな日常の、その刹那的な馬鹿馬鹿しさから身を引いて考えることができる時にはもう手に負えないほどに自分が覚悟をしてしまっているわけで、だから、社会は太古の昔から愚かを繰り返しているのだ。

 

科学や哲学がどれほどまでに洗練されても叶わないのだろうと思う。川の流れは変えることなどできない。(水は清く、光に輝くようにはなれるとは思うが)

2011年5月21日 (土曜日)

将来を考えるとき・・・・

(Gさんの日記に書いたコメントですが、あとで見直します)

 

子どもであっても大人であっても、大局的に見たら子どもなんだなと思うことが多いこのごろです。

 

人は永遠の欲望を絶やすことなく持ち続けることで生き生きとしておれるし道を拓くこともできる。

 

畑を耕すのは簡単なことかもしれないけど、それが実は簡単ではないのだということに気づいたときが、ひとつの悟りの開くときであり、畑に実る作物が来年も再び実をつけることを夢で描けたら、ヒトとしての才気をひとつ生かしたともいえるのか。

 

来年花が咲くかどうかは予期できないし、来年嵐が来るかもしれないことや日照りに見舞われるかもしれないことを考えると、必ずしも明るい材料ばかりでもないのだが、人間というのはそういうときにこそ逞しさをプラスに換えて知を結集し、長い歴史で築き上げてきた文化の礎のもとに、楽しく生きているのだ。

そんな暮らしに絡みつくように、人が目の前に現れて、これまた自分の人生は二転三転とする。
スリリングで面白いことは、なかなか思うようにことが運ばないことと、そこに愛が生まれ、時には憎しみが生まれ、義理を果たし情けをかけて、この世の川を渡る。

 

長いのか短いのか、人生というのは見通せるようで見通せるものでもない。
その中で自分の一歩先と百歩先を同時に見つめて、沿道の景色にも目を配り、人を助けまた助けられ、ケラケラと笑いながらずっとゆけたら幸せだ。

 

一人より、二人がいいよ。私はそう思う。

そこで少し考えるけど
質のいい一歩と質の悪い一歩があることは確かだ。
百メートルを全力で走るとしても、きれいなフォームなら速く走れる。
ほんの少し科学の力を借りて、歩幅やつま先の動きを直せば、速くなれる。

 

大勢の人が交差点で衝突をしないことや、散歩をしている爺さんが水溜りにハマらないのは無意識に前を見ているからだけど、人生の一歩だって前を見て歩いているさ、と思っていると大間違いのこともある。

 

さらに考える。
前を見るって・・・・何だろう。

 

絡み合った人や、人の心。さらにそれを取り巻く事件を見ながら、私たちは何を思いつつ歩んでいるのだろうか。

 

水溜りに落ちなければいいわ。

車に轢かれなければいいわ。

雨に降られなければいいわ。

美味しいものが食べられればいいわ。

とりあえず私にだけ、放射線や津波が来なければいいわ。

 

私の家族が幸せならいいわ。

わたしの身近な人が幸せならいいわ。

地球上のみんなが幸せであって欲しいわ。

 

幸せって何だろう。

誰もが一度は考えたことがあり、答えを持っている人もあるし、決めきれずに追い続けている人もある。

 

一歩、百歩、千歩。答えは刻々と変わり、百通り、千通りの答えが待ち受ける。

 

旅はまだまだ果てしない。
でも空を飛べないから、大空から行く果ての道のりを見ることもできない。

三十三間堂

2010年12月14日 (火曜日)

背中合わせ

十二月に考える、ということで一年を振り返ろうとする日々が続く。次の一手を会心で打ちたいための策略を講じたいと願うがゆえに想いが拡散したり、逆に足踏みをしたりする。

 

日記のページをぱらぱらと捲ってみると、消えかけていたひとつひとつの出来事やその時の感動や驚きや嘆きが甦る。今年もいつもの年と同じように暮れていこうとしているのだ。

 

それではいけないと自分に語りかけるもうひとりの自分がいて、さらに、それでいいのだ、とニコニコしているまた別の自分もいる。

 

日記を一月まで繰ってきて、もう一枚ページを捲るとまたその昔の十二月。時間は何の区別もなく季節が巡る。良い過去も忌々しい過去も消えてゆく。

 

時間が過ぎるたびに自分の中に存在していた新鮮味と初々しさが消えてゆく。それはひとつの脱皮にも似ているとすればそれでいい。

 

十二月と一月は背中合わせだ。ほんの三百六十五日前には、もう一人のわたしが暮れゆく年を省みていた。そんななかで、境目のない月日をいかに充実させるかという纏まり切らないテーマが人生後半の重要な課題になりつつある。

 

--

 

12月6日の天声人語が「賢者の贈りもの」(O.ヘンリー)の一節を引用していた。

 

「人生は「むせび泣き」と「すすり泣き」と「ほほえみ」とで成り立っていて……」と名作の作者O.ヘンリーは呟く。

 

以前、わたしは人は悔しいから泣くのだと書いたことがある。痛いからでも怖いからでもない。そのことが悔しいのだ。咽ぶ人だって悔しいだろう。「すすり泣きが一番多い」とO.ヘンリーは書くが、その内心は悔しさで満ちているのだ。

 

喜びと悲しみは、背中合わせだ。世の中の何処かで喜ぶ人あれば、何処かで悲しむ人もいる。もっと世の中の人が他人の悲哀や悔しさを理解しあえれば、政治だって環境だってもっともっと良くなる。他人の哀しみを自分のそれに重ね合わせるゆとりがあれば世の中は必ず変わる。もっと言えば、景気でさえ良くなるかも知れない。

 

自分の幸せと他人の幸せが背中合わせにあるのだということを、人々が理解できるようになれば、地球温暖化だって食い止められるだろう。豊かさも経済成長も、もはやそれほど目まぐるしくは進化しない。だから、上手に質素と不便に付き合う準備をしなくてはならないと思う。

 

そんなことを考え続けた一年だった。これからは生きることと死ぬことは背中合わせなのだという事実を見つめて、何が残せるのかを考えて生きたい。

 

--

 

たくさんの人にお世話になって、また教えられてここまで来ることができた。チャンスを与えてくれた方、門戸を開いてくれた人、親身になって助言をしてくれる人たちに助けられ歩み続けてくることができた。歩みながら自分が残した足跡に勇気づけられ励まされ叱咤されてまた一歩次のステップを踏み出す。その一歩がほんの少しの狂いを持てば挫折が待っているし、踏み外せばどこかに落ちてゆくのだ。誰もがそんなスリリングな一歩を毎回毎回慎重に踏み出しているわけではないものの、暮れゆく年の瀬に限ってはそういう自省も必要だと感じる。

 

立ち止まって後ろを見る。それが坂道であるならばその坂道は上りだったのか下りだったのか。平坦な道かも知れないし、わたしは海原を超えて島にたどり着こうとしているのかも知れない。冒険者でありたいと夢見たことがあった。しかし、今や華やかな道の果ての冒険は不要だ。小さな力で大きなものを着実に動かす梃子のような一役を目指せばいい。

 

--

 

いつもと違った新しい年を築きたい。そう密やかに決意をする。そのためにはいつもと違った年の暮れを迎えねばなるまい。二十四歳で社会に出て、ほぼ十年おきに大きな変化を迎えてその都度決断をしてきた。

 

ほら!今年はそんなときなのかもよ、と自分にそう呼びかけてみても、テンションが低いなあ、と嘆く。

 

いろいろ考えることはグルグル廻る。もう中心には戻ってこないのだろうか。恋がしたい、旅に出たい、美味しいモノが食べたい、涙も枯れるほどの感動的な物語に出会いたい、腰が抜けるような美人に会いたい。

 

年頭のあいさつ(年賀状)を出すのをやめたのは、仕事を辞めて年収が三分の一以下にダウンしたときであるのだが、そのころの記憶ももう風化し始めているものの、挨拶など要らないしする余裕もないというのがあの瞬間に感じていた本音だったと思う。

 

その後、社会のあらゆるものまでもが急降下して、人々の心は荒んでいった。年賀のあいさつを合理性というような言葉で改革へと追いやり片付けて、電子メールなどで済ませる人が目立つようになったのもこのころかも知れない。

 

年賀の挨拶状を経費節減や作業合理化で整理したことが失敗であったというのではなく、その文化の背景にあった目に見えない深い意義をあっさりと捨ててしまい忘れようとしていることが誤りなのだ。現代社会が病んでしまって立ち直れないのはそういうものをバッサバッサと捨てたのが原因でもあろう。

 

年賀という文化は、一年間の様々な失敗の懺悔と成功の称賛を顧み、この上なくお世話になった方々や昔の貧弱だった自分を支援してくださった皆様への感謝を表すひとつの手段であって、年末年始に気持ちを整理してお礼を伝えるところに大切な意味があった。

 

それを廃止してしまった人たちが多いのだが、そこにあった大きな意味までも廃止をしてはいけなかった。他にも文化的な生活習慣や道具などを捨てるとこのようなことがよくある。生活の中に長い歴史の中に根付いてきたものを、簡単なパラメータだけで切り捨ててしまってはいまいか。

 

素敵な恋をしたいというおバカな夢でもいいから、わたしのお世話になった人たちに、ここに書き連ねてきたことを伝えなくてはならないのではないかという、激しい責務を感じる日々が続く。

2010年11月27日 (土曜日)

心に旗をたてる

先日、ある方にちょっとした手紙を書くことがあった。

 

感謝したい。
手紙を書くことで、自分を見つめることができる。

 

手紙を投函するまでにじっくりと書面を眺めることがめっぽう少なくなった。
それだけに、いつもよりもじっくりと見つめたかもしれない。

 

それでも、二三日しか暖められなかったけど。

 

❏❏

 

(断片)

 

▼どんなときでも、メールをいただくととても嬉しいです。さらに、相談を受けることで信頼されているのが嬉しくて、頑張って答えなきゃと思います。そういいながら、たいへんなメールを受け取っちゃったな、って思ってみたりしてます。だって、あなたの人生を曲げてしまうかもしれないわけでしょ。

 

▼答えを急ぎますか?二面性があって、急いで決定してしまわねばならないことと、じっくり熟成させて考え抜くことが共存しなくてはならない。いっぱいいっぱい考えて、最後はさらりと決めてしまう。

 

▼久々のメール、拝読しました。相変わらずの頭脳明晰さ、感心します。なるほど、ヒトは明るく振舞っていても、色々と悩みを持ちあわせていることだってあるよね。深く考えることも大事だね。それが人生。

 

▼あなたのことは何も知らないといっても間違いじゃないですね。何となくわかるのは、勇気と大胆さと自信に裏付けされた行動力があって、それを許した周囲の大きさも恵まれている。素晴らしい人間関係をお持ちだということ。

 

▼悩みは、素晴らしい才能のようなものがあっても、まださらにその人を悩ませてくる未知なるものであることが多く。ヒトはその未知なほうへと向かおうとし、これまでの経験では解決ができないほどの大きな悩みを抱き続けている。そういう人生を選んだのはその人の人間性であり、人間味である。そんなことを考えながら。

 

▼あなたがメールを書いていた深夜という静寂は、人間を魔術にかけたようにあなたを弱気にさえてしまうこともあるかもしれません。人は弱いものだと大勢の批評家たちがいい、強いものだとも言われてきた。静寂が思考を混乱させるけど、酔うているようにも見える。

 

▼さて、出会いやそのあとの併走が勢いよく夢に向かって突っ走れるかどうかってのは、夢が一致していることと、その夢をお互いが理解しあって認めていることと思う。世の中で騒ぎのネタにされる離婚の理由なんてのはまったくもってナンセンスで、セックスと夢さえ一致してれば幸せに目標に向かって突っ走れる…と夢のようなことを考えている愚かな私です。

 

スズメはなぜ電線から落ちないのか。落ちそうになったら飛べばいいから。そう思うことでここまで生きてきたけど、近頃は飛ぶ自信が少しなくなり意欲も夢も薄れつつあるけど。

 

▼長い、いや、短いかも知れない人生。迷ったときほどほんとうに頼りになるのは自分だけです。他人の意見ほど無責任で、あてにならないものはない。もしも当てにできるものが在ったとしたらそれは、「結果論的正解」なんだと思う。つまりは、長いか短いかという修飾語は不要だったのだが、書きながらモラトリアムのようなものを探っているの。

 

▼行く先に当てにできるのは自分の判断力だけだ。引いて言えば、自分の人間性、人間味ですね。じっくり考えて、得た答えや選択に間違いは無い…というか、それが正解だと思う。だからこそ、そこで、じっくり考える。「結果的正解」しか存在しないのだから、戻れないのだから、いろんなものにインスパイアされながら、自分で考える。しかしながらも逃げ道として、やり直しができることはやり直せば良い、という手段を残しておく。

 

▼やり直すって、時間は戻せないじゃないか、と反論もある。それは自問でもあるが、その挙句、戻せない時間と闘うならば、行き当たりばったりもひとつの選択かも、とも思えてくる。そんな支離滅裂に見える中にも確信がある。それは、逃げ道は必要で不可欠なモノなんだけど使わない。道は1本しかないのだ。自分はひとり。…ということ。

 

▼自分は何に向かって走りたいのだろうか。お金なのか。名誉なのか。地位なのか。ささやかな幸せなのか。優しい朝日の当たる食卓で、美味しいコーヒーを二人で飲むのが夢か。激動する世界のどこかで、世界の貧困を救うために駆けるのか。自分の求める美をカタチにするために、目を閉じて瞑想をするのか。哲学の世界に身を置くのか。

 

大きな変化球を投げたいわけよ。私の場合は、そうだった。真っ直ぐの球が、予想通りに投げ込まれるばかりの人生は嫌だった。しかし、結婚して、親となり、老化への一歩を歩みだしてから、自分の小ささに気が付き始めた。

 

▼あなたは乱れたスパイラルに巻き込まれる。そこであなたの悩みはインスパイアされてゆく。

 

▼そうそう、オリンピックの選手だった森末慎二さんが、バクテンをするときにみんな誰でもが怖がってできないけど、それはあの瞬間に目を閉じているからダメなのだと言っています。目を閉じるのではなく、自分が手をつく地面のほうをしっかり見なさい。この言葉は、好きです。

 

▼自分の行く未来を見るのも大事。夢を描いてそれを見るのも大事。一歩の足を踏み出す地面を見るのも大事。、受験時代に「困ったときは鏡を見よ」と自分に言い聞かせていたことを思い出しました。見てるようで見てないの。

 

▼私の師匠の言葉に

 

    • 心に旗をたてる

 

    • 片時も忘れず抱きつづける

 

    • 一歩でも近づこうと地道に努力する

 

  • 旗の大きさが、その人生を決める

 

旗を立ててください。
あなたをなびかせる風になりますから、私。

2009年7月28日 (火曜日)

心を支える Ⅱ

不安定なものは、意思がしっかりしていても揺らぐ。しかし、考えてみれば、何ひとつ安定したものなど世の中にはないかもしれない。ジャイロのコマであっても自転があるから安定しているのだ。

 

やはり、不安定なものにはそれを支えるものが必要であることは否めない。もちろん、支えた状態を得ても、それは即、再び不安定ということも事実であるが、支えられている安定度数は指数関数的に上昇する。

 

心という目に見えないものを支えるものは、やはり目に見えない何かであるのだろうか。精神科学や心理科学を追い続ける人たちは、自己矛盾を引き起こしそうだ。

 

実は最初にこのタイトルの命題を掲げたときに幾つかのモデルを考えていた。ひとつは、「子ども」である。次に「夫婦」そして「趣味」「お金」などが思い浮べた。細論を考えるつもりはないので、「子ども」と「夫婦」を少し追いかけてみる。

 

 

今や子どもの就学を終えて社会に出てゆけば、やれやれというわけではない。結婚が控えている。だから結婚まで面倒を見るという親が多い。裏返せば子どもの晴れ姿を見たいという希望が親にはあり、子どもが親からなかなか巣立たなくなった。

 

25歳で結婚して子どもが生まれ、その後も2年毎に8人ほどできた時代は、最後の子どもが生まれるころには親は40歳を越えていた。したがって、その子が成人をするときに、自分は60歳を越える。その時代の平均寿命が60歳から70歳の間にあったとして、55歳で仕事の定年を迎えているころの話だから、親は、すでに人生の終盤を迎え着陸態勢に入っていたと考えても間違いではないだろう。

 

子どもは、成人するまで親に育ててもらえるとは思ってもいなかったし、期待もできなかった。ある意味で危機感を持ちながら成人になっていった。だから、このころの子どもは、義務教育を終えたあたりから自立をして、資産がある家柄の子どもであったならば堂々とその資産に甘えながらも、自立して社会で遊ぶなり学ぶなりをしていた。

 

親が子どもを手放さなくなったのはおそらく近代のことで、戦後復興の後にやってきた学歴主義と甘えの時代、そして経済発展を伴うサラリーマン激増の成金社会ができたころに同期する。

 

子どもに苦労をさせまいとして大事に育てた親は、子どもから、自立して物事を考える時期を与えるチャンスを奪い、生きてゆく力や判断力を欠乏させたまま、ノンポリで外面を着飾り、役立ちそうに見える情報で武装した腑抜けな人物で満足し、猫のように可愛がる。その反面で、家庭内での軋轢も爆発する事件が起こったりもする。

 

しかしながら、そんな子どもであっても自分の家から結婚等で出て行くと、心の支えを失って家に篭ってしまったり食欲をなくしたりする母親が存在するのは事実である。

 

 

一方で、夫婦にも変化が出てきている。

 

子どもの有る無しにかかわらず、人生の終点が見えてくると慌てだす人もある。自分の人生は何だったのかと振り返って、もう一度楽しくやりたいために、苦労を及ぼしあっていた夫婦を解消しようと言い出す人たちが目立ち始めたのだ。

 

その人たちにはそれぞれの正当な理屈があってそのことをあれこれ言うつもりはない。しかし、この現象は、音や光こそ放出しないものの、立派な社会的雑音であると思うことがある。

 

自分たちはまっとうな生き方をしており、自分の考えを正直に通すだけだというような考え方、全てをとまではいかないが金銭的に(民法上で)解決していけば、何も問題はないはずだという論理である。

 

私たちは他人に迷惑をかけなければ勝手気ままをやっていても構わないというものではない。人は生まれたときからたくさん人たちのおかげで暮らしてこれているのだし、人間という形で存続できていることまで及んで考えれば、人類の祖先たちの恩恵を受けている。恩恵は暮らしや文化だけではなく、自然や技術でも受けているのだから、自分だけがひとりで今の地球に居るなんていう考えは思い上がりも甚だしい。

 

だから、人生を振り返れば、そう易々と思い付きとか損得だけで一瞬の行動判断をしてしまっては罰当たりではないか。もしも、どうしても自分の幸せを得たいなら、生まれ変わってからにするべきではないかと、思う。

 

 

心の支えをなくしている人は、心が貧しくなっているのかもしれない。現代社会、物質が豊かにあふれ、精神的にも満足感が溢れているのだが、人々の心を支える柱がか細くなりつつある。この貧しさを解消するために、お金を使おうとか、力を出そうとか、見栄を張ろうとか、快感や快楽を求めようなどとは考えないほうがいいだろう。何度も書いているが、自分を見失ったことによる損失は、自分を破滅に追いやってしまいかねない。

 

 

 

そうこう考えると「心を支える」ではなく「心を支えあう」が正しかったのではないかと気づく。

 

「心を支える」という言葉を考えていろいろと悩み続けた人たちは、ここで見つけた「あう」という二文字を落としてきてしまっただけなのだ。

 

あう。
「見つめあう」という言葉もある。
美しいと思いませんか。

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