九月の終わりの考えていること
九月尽 🔗 十月のはじめに考える
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満月のつぶやきがざわつくので月三十日が満月なのかと思ったら十月一日が中秋の名月なのだという、満月は二日の早朝の日出時刻のあたりらしい
縋り付くものが少ないためか余計に二十四節気や歳時記などに心の拠り所を求めようと酢のだろう
ほっと安らぐひとときが欲しいのだであろう、ため息を言葉にして代弁してくれる緊張の解放感に惹きつけられている人が目立つ
ひところよりさらに多くの人がそういったつぶやきの中でほっこりとさせられている
これは今というひとつの時代の潮流のなかにストレスが姿を変えて淀んでいるのを撹拌して浄化して排出しているモデルのようでもある
悪言をつけば、歳時記を片手に猫も杓子も俳句・短歌を楽しみ二十四節気の情景や名月を飾りにして安らぎを求めて自己陶酔に浸っている
私も紛れもなくそのひとりであるのかもしれない
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どこまであの満月のホンモノの魔力を体感できているのか
たぶん私には人並みほどにも風流などわかっていないだろう
まあそれでもいいじゃないか
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やれやれと夏がおわっていく
向田邦子さんが「父の詫び状」というエッセイを書いたのは「遺言状」のつもりであったと別のエッセイで読んだ
だからそれに触発されたのかどうかは曖昧な記憶だが、読んだ時期のころに私も「遺言状」のようなものを残せないかと考え、真似をして書き出したのが「秘伝」のブログである
だがしかし、そんなものは作家でもないのだから思うようには行くわけもなくあのザマで纏まりもないものになっている
思いつく儘に書いてゆき無闇矢鱈に長くなってしまって纏まらず、無駄なものも多くありながらその無駄を削り落とせずに困り果てているい
しかし、伝えたいことを簡潔に、読み手にストレートに伝えるのは到底無理である
「塵埃秘帖」「裏窓から」(ココログ)のシリーズだけでも長い、しかし、これも私にしたら一種の遺言状のつもりで
つまり今になって遺言状を編纂するには資料の整理能力においても不足しており、遺言状として取り止めがつかないのだった
というわけで、読んでくれる人任せということになる
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では、果たして
私は何が一番言いたかったのであろうかを考えて膨大な記述を整理してみるのがいいのだろか
焼き鳥が失敗だったのでちょっと残念です
ニンニクと醤油を刷り込んで少し漬けておいてから焼きましたが
これがアカンのですね
塩してそのまま焼くのが一番旨い
漬け込んだ鶏肉は唐揚げにするのがええわ
近いうちに再挑戦をしようと二人で誓い合う
生姜焼きとか
胃袋を休めている
懐も休めたい
※ + 加筆は未定
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