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まあそれだけです
近々また日記書きますさかいに
2020年2月中旬のランキング
No. タイトル
二十位以下をさらに拾ってみました
2020年2月中旬のランキング
No. タイトル
- Walk Don't Run -
夕焼けの向こうまで─枯葉の舞う道をあなたと二人で/銀マド【自画像篇】
湯気が出てレンズが曇るので困りました
美味しかったけど煮込み時間が少し短かったかなと反省
食事に間に合わないので慌てて鍋から取り出したので暑くてホクホク
(熱い料理は<それほど好きではないのですが仕方がなかった)
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(FB日記 から)
脂身のきれいに入った美味しそうな国産豚を見つけたので
そこそこ値段も手頃でしたから
久々に豚の角煮をしました
角煮をするときは延べ三時間ほどの煮込みの間 家の中をウロウロしてなあかんので大変ですが
ちょうど風邪をひいて安静にしてなあかんので ま いいか です
500円あまりのお肉を半分に切って使いましたから、250円のお肉ですねえ
2切れか3切れ使ってカレーとかシチューとかにするのもいいのですね 値段もお店ふうになってしまいますなあ
水曜日に楽らくというお店に行きお昼を食べました
週替わり定食が生姜焼きだったのよ
隣の席で食べてる人の唐揚げ定食の方がめちゃうまそーやった
今度行くことがあれば絶対
野村克也さんが2月11日に亡くなった
衝撃が走ると同時にそういう時期が来たかという冷静で落ち着いた心もあった
野村克也を知らない人も多いことだろう
選手生活が長いだけに現役時代でも引退の頃の後ろ姿は盗塁を刺すための送球がセカンドまで届かない時もしばしばあった。
それほどに弱ってきても選手として監督として名選手の看板を背負うのは俺しかいなだろうという勢いで野球をしている熱意のある人の姿だった
もちろん選手全盛時代は強肩であったことはいうまでもない
田淵だってそうだったのだが、キャッチャーとして補給を受けてそのまま座った状態からセカンドに投げて盗塁をシャットアウトしたほどの人だ
そりゃ見ていて痺れるというのはああいうのをいうのだ
あのい勇ましく格好良かった頃も華やかにテレビに映してやりたかった
「月見草」と自分を比喩する言葉には憎たらしくひねくれても見えるところもあるが、あの時代背景を知っていれば、あの不運な時代であってもあそこまで知れ渡った凄さというのは現代の人気者の諸氏には真似ができないものではないだろうか
どこにそんな根性があったのだろうか、優しい顔と話しっぷりからは想像もできない
*
選手を引退をしてからも監督としての切り替えが素晴らしい
有能な人というのは自分が立派で格好よくて目立って記録をたくさん残す以外にも自分の弟子を育てる才能を発揮してこそ使命を果たしているとも言えるのだから野村克也の功績は大きい
数々の言葉が残っている
それを一つ一つ整理していくと湯水のように出てくるわけであるが、それらが全て野球だけに通じるものではなく、人生訓として(指導者に求められる条件としても)通じている恐ろしく重くて意味の深いものが数多い
数々の場面や経験を経てひとつひとつを言葉にしている
つまりそれらの言葉の発生には場面がある
ある状況に置かれた時に野村克也にマイクが向く、そしてそこで野村克也は答えるのだ
その名言がズキンと響く
数多い言葉、どれをとっても 身に沁みるものばかり
今の時代 理屈を言うと嫌われる風潮もありますが、理を持って丁寧に分析をしている姿を知ると尊敬が念が溢れて来ます
「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」
ニコニコとしながら話す内面には熱い情熱がこもっていたのを痛切に感じます
目次は写真をクリックすると出ます
どこを読んでも講義が蘇って来るようです
深い河で検索をしました
遠藤周作は1996年9月29日午後6時36分肺炎による呼吸不全のため、慶應義塾大学病院で死んだ。73歳であった。葬儀告別式は、10月5日午後1時半から東京都千代田区麹町6-5-1 聖イグナチオ教会で行われた。喪主は妻順子さん。9月30日付朝日新聞の朝刊は弱者に優しい眼差しという見出しで報じていた
深い河を1913年6月講談社から刊行され翌年1月毎日芸術賞受賞した。その成立には深い陣痛が伴っていた。深い河創作日記は1991年8翌年11月29日終わっている。初稿が脱稿したのはこの年の秋9月8日であった。平成5年5月25日腎臓手術前後の闘病日記は口述筆記である。
「平成3年も最後の日なり。余、病弱の身にて漸く68歳の年齢を終えんとす。昔日、50歳まで生きればと思いたること、夢のごとし、今日まで理解してくれる生かしてくれた神に感謝せざるべからず」
翌年正月には、血圧170から90となり、1ヶ月以上の目眩(30日)が続き、腹痛、頭痛を訴え、書くことの苦しさ、挫折感(3月6日)さえ訴えている。そして4月21日「血痰」を見る。小説を書く気力も失せ(7月19日) 30日はこう書いている
「なんという苦しい作業だろう。小説を完成させることは、広大な、あまりに広大な石だらけの土地を掘り、耕し、耕作地にする努力。主よ、私は疲れました。もう70歳の私にはこんな小説はあまりに辛い労働です。しかし完成させねばならぬ。マザー・テレサが私に書いてくれた。(God blesse you througt your writing)
こういう状況で9月8日、ようやく初稿を脱稿したのだが、やがて腎臓の異常が見つかり「余命の少なきを感じる」(9月24日)。「自分の死がいよいよ近づいていることを思う。どういう状態で、どういう苦しさで死ぬかを想像」(10月21日)する。これらの日記を彩っているのは、終末の予感である。10月24日腎臓病で入院。翌月、糖尿病の併発も判明。「自分の晩年が盲目になるやもしれぬとは考えもしなかった。人生の最週末が悲惨な結果で幕をとじるとは考えもしなかった」(11月7日)と……
平成5年5月21日順天堂大学病院入院。いよいよ腎臓の手術。
「今日の手術ほど痛く。有楽、堪えられぬものはなかった。途中このまま殺してほしいと何度も思った。痛み、激痛起こり、唇も下もカラカラに乾き、一秒でも早く手術が終わることばかりを念じつつ、二時間半を堪えに堪えた。(略)七十の体にはあまりに辛い一日だった。(略)この小説のために文字通り骨身を削り、今日の痛みをしのがねばならなかったのか。」(5月25日)
その後、作者は1995年9月、脳内出血で倒れ、順天堂大学病院に入院し、12月退院。又翌年四月、腎臓病治療のため慶応義塾大学病院へ入院し、9月29日、午後六時三十六分、「肺炎により呼吸不全」のため不帰の人となったのである。
『鬼』を検索すると70個も出てきまして
その中から選んでみました
鬼思い昔懐かしむジジイかな
奥山くんという同級生がおりまして
その子のお父さんが有名な句をいくつも残しておられます
奥山
元気かな
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