南国屋さん(その2)
南国屋さん(その2)
蒸し暑い夜は昔(その1)の 下宿屋のことを思い出す。
向かいの下宿屋は、ぼろぼろの家で一階が食堂だった。
「南国屋」さんと隣近所の人は呼んだのだが、看板が出ているわけではなく、営業しているときでもその暖簾では食堂として営業しているようには見えなかった。
だから、お客が入っていくところも入っている姿も見たことはなかった。
二階の下宿へはどうやら食堂の戸をがらがらと開けて入るらしいのだが、夜中に帰ってきたときはどうしているのかはわからなかった。
そうそう、寅さんの映画に出てくるような雰囲気に近いのかもしれない。
こちらの部屋と向かいの部屋は一間余りの狭い露地を隔てているだけだったので、向かいの下宿屋には跳べば移れそうな感じがした。
窓を開けると向こうの部屋の中がよく見えた。
おそらく真正面の窓から見えている部屋と他には小さな押し入れがあるくらいだっただろう。
この部屋とさほど変わらなかったに違いないが、この部屋は貧乏な大学生が住んでいる賄い付きの下宿屋で、向かいは一人で暮らす若い女の子が住んでいる小さなキッチンのある部屋だった。
その女の子はたぶん学生ではなかったにちがいない。
こちらから、窓辺に座ってちらちらとみながらいつも想像をしていた。
向こうの部屋にはカーテンなどなく、磨りガラスの窓が1枚の構造であった。
だから、彼女はたいてい窓を開けっ放しで暮らしていた。
ご飯を食べるときも、テレビを見るときも、寝るときも、着替えるときも。
こっちの部屋から見えていることは充分にわかってる筈だし、若い大学生の男子がいることも気づいていただろう。
けれども、この部屋からしか見えないという理由なのか、その気がないのか、いつもこちらを意識している様子はなかった。
洗濯物も恥ずかしくないのだろうか、平気で窓際に干していた。
挑発的であったというわけでもない。
存在を意識していないのだ。
こっちの部屋の住人にしたら刺激的なことが次々と起こることもあったが、やがて慣れていってしまう。
下着姿でうろうろしようが、着替えをしようが、ほぼ裸で寝転んでテレビを見ていようが、慣れてしまって平気になってゆく。
と、そうは言いながらも彼女がどんな女性なのか気にかかって仕方ない時期があった。
南国屋さんは猫を7匹くらい飼っていた。
店主であり下宿屋の主人だったおばさんは、その7匹の猫ちゃんを大切にしているのだが、機嫌を損なうと箒で追いかけまわすという、漫画のような人だった。
ぼくはその主人であるおばさんの顔も下宿人だった女の子の顔も、2年近くもの長い間住みながら知らないまま暮らしたのだった。
パンツを見れば誰かわかっただろうというおかしな自信がある。
その1 南国屋さん
2012年1月28日 (土曜日)
【銀マド】 深夜の自画像
« 貧乏・暇暇 前略・早々 - 八月下旬号 | トップページ | カンタン酢でタルタルソース »
「増殖する(秘)伝」カテゴリの記事
- ぼくだけの物語 (2019.01.26)
- 平成最後の大晦日に考える(2018.12.31)
- 人生というドラマにスポットライトなどなかった(2018.12.30)
- 旅とはそもそも(2018.09.20)
- ヒッチハイクの旅・・・のこと(2018.09.09)
コメント