死に際の一週間
21日に小さなケーキを母に買っていった。誕生日だからケーキなのだが、長い人生でもお祝いにケーキを持参することなどは殆ど稀なことであった。
喜んでいたのかどうかは計り知れないものの大切に冷蔵庫に仕舞っていたのであの夜かあくる日にでも食べただろう。
22日はおとう(父)の命日で、67歳を目前にして逝って以来初めて迎えるひつじ年だ。年月は早く過ぎると言いながらも、たっぷり、じっくりと84歳まで辿り着いた。
○
ストーブにあたりながら死ぬ間際の話になった。
「痛い思いも辛い思いもしないでストンと死にたい」
「夜眠ったら朝には冷たく息が止まっているような安らかで突然の死がいい」
というようなことわたしが言うと母は即座にそれを否定して
「一週間くらいはしんどくても死に際らしい終わりを送りながら大勢の人に次々と別れを交わしてから死にたい」
そんなことを言うので些か驚いたのだが、年寄ると死に対する恐怖もあろうと思うものの、世話になった方々ときちんと儀式を交わしたいと考えてのことだろう。一週間くらいは生きていて、といいながら、心臓が子供の頃から弱いので心臓麻痺で死ぬと思う、とも話していた。
○
阪神淡路大震災、オーム真理教事件と事件や災害が起こる直前の師走に大腸のまわりを切れるだけバッサリとやってもらった大腸癌だったが、再発もなく生きてきた。「命拾い」とはあのようなときに使うのだろう。両手サイズほどの大きな肉のパックを見るたびに、あのときに切り出して医者が見せてくれた肉の塊を思い出す。
葬式は派手でなくとも立派な墓でなくともいいと言葉にしたりしながら覚悟を自分に言い聞かせているようである。まあ、墓は粗末では済まされないし済ますこともないから心配しなさんな。
せっかくここまで生きてきたのだから、まだまだ生きて欲しいし、願いを最後に叶えるならばそんな一週間を贈ってやりたいが、魔術師でもないわたしだから祈るだけである。
一方、父はこの22日に逝ったのだが、最後に言葉を交わしたのがいつであったのかとかとかその言葉がどんなものであったのかさえ全く記憶にも記録にもない。母のときはきちんとしなくてはイカンと思っている。
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