何事もふだんどおりの冬至なり ── 冬至篇
(12月22日・冬至の晩)
▼ いつの日か父と湯に入る冬至かな
12:38:17
▼ 小雪舞う追い焚き口まで柚子香る
12:56:42
▼ ゆず風呂に入っている夢のうたた寝
23:46:29
わはくま ─ @wahaku
仕事を終えてエレベータに乗るときに一緒になった早苗さんが柚子風呂に入る話をしてくれた。むかしからの伝統的な習慣は守るような暮らしを心がけているという。
いつもどおりに快速列車に乗って帰ってくる。その話を思い出しつつ明るく華やかに瞬く無数のイルミネーションが車窓の向こうをながれてゆくのを見ている。
頭のなかでは、数日前からピックアップ課題にしているわたしの今年の重大ニュースと漢字1字が、答に近づかないままぼんやりしている。
もうそんなことはどうだっていいのだと思う心がある一方で、何かをある意思で変えようなどとしてももはや変える力などないのだとわかっていても、きちんとその時間を精一杯に生きることが大切なのだと自分に言い聞かせている。決して投げているわけではないのだ、と言い訳を心のなかで呟いているが。
柚子のお風呂に入るつぶやきが飛び交っている。父はこのような習慣やお祭り、習わしには非常に素直な人であった。柚子を手に入れてきて風呂に入れ、極楽気分を何度も味わっただろう。
子どもの頃に患ったせいで耳が遠かったから、風呂につかっていても物音らしいのが耳に届くと湯舟の中から「ええかげんやあ~」と頓珍漢な返事をしていた。「焚こかぁ?」(追い焚きをしよか〜?)と誰かが声を掛けてくれたのだと察していたのだ。父は静かな柚子風呂にゆっくりとつかれたのだろうか。
薪の風呂は、理屈は分からないが、とても暖かい。非常に身体が温もるのだ。分からない理屈を色々と考えるに、薪を燃やす釜のなかに炭火が残るので、風呂釜全体がいつまでも保温されているからだろと推測する。
つぶやき句に書いたように柚子の香りを湯舟で感じたことは(架空の話で)実際には無いのだが、追い焚きをしてもらうと煙が窓から忍びこんできて蒸気と混じると子どものくせになんとも温泉気分に浸れたのを思い出す。
追い焚きをする釜の口は小雪が舞い込むような外ではなく風呂場の建物の中だったものの、寒かったことには違いない。薪の燃え具合を確かめるために釜を覗き込む顔がホカホカと温かかった。
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