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葉室麟 蜩ノ記
物語の書き始めばかりを集めて作品集を編集する人があるくらいなのだから、そこには惹きつけるものが無くてはならない。この作品も書き出し集に仲間入りできるかもしれないな、などとふと思う。
ふだんから滅多に接しない時代小説というジャンルを読むことに決めたのも、ほかならぬ冒頭の二三行に依るものであった。しっかりと考えこまれて、厚みと深みのある懐から物語を紡ぎ出すように、この小説は綴られていく。主人公が冷静なのと同じように、作者のペンも非常に落ち着いて物語は始まってゆく。
映像作品(映画)もできあがっていて、すでに公開しており身近な人達も観たという話や聞きたくなくても評判が耳に飛び込んでくる。読み始めて間もなくそんなことを知り一生懸命封印をしようとしながらも、心のどこかで、果たしてこの書き出しの美をどうやって映像にしようというのか。偉大なる挑戦となるのか愚かな試みになるのか、単なる売上を狙った金儲けで、文芸とはかけ離れたものになるのか。些かなる不安も襲い掛かる。わたしが心配することではなくても気にかかる。だが、作品は冷淡に切腹する主人公のその日に向かって出来事を展開させてゆく。
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時代小説と帯に書かれていたのを見ながら、知っていながら、そういう言葉の区分けに縛られたくない気持ちで読み始めている。しかし、さらに、帯には映画の俳優の写真もあって、関心を持たないふりをしても、イメージは大きく左右されているのがわかる。幸いなことに、若い俳優さん二人は知らない人なので、災難は半分で済む。
そう言いながらも、映画化がマイナスばかりでもないかとも思う。小説はところどころ詰まらない部分に突入していくし、いわば凪のような部分を読み進まねばならないこともある。映画ならばそれはそれなりに意味があって映像芸術として心に忍びこむこともできるが、活字の文芸はそうもいかないところに弱みがある。
作品は、美しく惹きつけるような珠玉の情景ばかりで書き上げられているわけではなく、ごく平凡なところも持ち合わせている。この作品に物足りなさを感じる人がいたとしたら、そのように静かに語るところや必要以上に決闘などを挟まず、眼に見えない動きを1枚ずつ繰ってゆく頁に委ねていることだろう。そこにこの作品の明暗があるようにも思う。
相当に上質の作品であることは理解できるのだが、例えば、山本兼一や車谷長吉の同じ直木賞と比べて、新鮮味や新しい躍動感のようなものに物足りなさを感じてしまう。私のような読者が今回期待したのはベテランの時代小説家の作品ではなく、やはり直木賞としての作品だったのだと、おおよそ読み終わりながら感じている。
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人が武士として死を覚悟して、その時代のなかで逆らうことなく、責務を全うして生きて果ててゆく姿を、活字で文芸にしている。その難しさは、この作品ほどに精巧に書かれた作品であっても、もっと(もう少し)クライマックスに慄えて欲しいと期待を持ってしまうのだ。人の心の微妙な明暗や浮沈、喜怒哀楽、理不尽は、そう簡単には綴れない。もしもほかの有能な作家が書いたとしても読者を納得させてはくれないだろう。この作家よりも上手な人は現れないかもしれないのに、読み終わったときに妙な落ち着きを抱いていたのは何故だろうか。
わたしたちはおそらく、日本人として古来から伝えられてきた人として哲学のようなものを心のどこかに持っていて、そのモノサシが私個人の頭のなかでゴソゴソと活動するから、この文学作品の一部分を許さないのではないか。それは読者の多くにも当てはまって、許さないけど「☆=5個」なんだが、首を傾げて「4個」くらいに迷っている。静かすぎてなおかつドラスティックでないところに不満を持っているのかもしれない。
だから(でも)いい作品なんだろうけどな、と大きく息を吸ってもう一度考える。最後は切腹をしてしまうことも譲らないのは歴史を変えられないのと同じ辛さなのだが、やはり、物語をリアルに書けば書くほど、実はドラマからかけ離れて、詰まらなくなるのかもしれない。
そうか、だから、映像で作品を編み直してみようなどと思いつくのかもしれないし、そういう望みが生まれてくるのかもしれない。
と考えると、時代小説とは儚いもので脆いものだなと悲しくなる。
文芸とは罪深いものだ。文学はそれを乗り越えなくてはならないのだろう。
およそのところ、一日一魚は食べている。
けれども、ここ最近にはお刺身が少なかったような気がして
お昼にはイワシの蒲焼を食べて、夜は生の魚が食べたいなと思ったりしていた。
わざわざメールでリクエストをすることもできないので、ひっそりと刺身が食べられることを願っていたのですが。
夕方、帰りに駅に着く直前にメールが届き、灯油を買いに行くことにしたのでお迎えに行きますと知らせてくれた。
クルマに乗り込んで「今夜は刺し身が食べたいのではないかと思って適当やけど買っておいたわ」といきなり言うので驚いた。
旨さは心。
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寒さが急に襲ってきたこともあって、日記に書いたように灯油を買いに走ったわけです。
わたしは味噌汁はあまり食べませんが、豚汁は冬になると食べます。
そういう季節なんですね。
ムスメさんのおみやげです。
大ブームになった「もみじ饅頭!」という漫才のギャグはもう昔のものだが、子どもたちは知っているのだろうか。
(23日・霜降)
小松菜という野菜を
子どものころにはあまり食べていないように
記憶する。
それは、ひとえに、
母がその菜を好まなかったのか
はたまた、
わからないように姿を変えた料理にしていたのか
もうひとつ考えられるのは、
あまりのも当たり前の料理として食べて
名も知らぬまま口にしていたかもしれない。
ツマは、京都の人なので、
こういうものを作るときの味にはやかましい。
しかし、中学の卒業式の前日に
突如母を失ったこともあって
可哀想なことに母の味を完璧には受け継げなかった。
味とは受け継ぐことも大事だが
新しい我が家の味文化として拓くことも必要だろう。
そこには、気質(かたぎ)のようなものが脈々とあるのがよい。
ムスメはやがて出てゆく。
受け継ぐということの深い意義と美しさに気づくのかどうか
気づいたとしても
それはわたしが八十歳くらいになるころのことだろう。
10月21日 (火)
日本海庄やに行った。
ツマとムスメが待ち合わせて買い物に出かけるというので便乗して合流したあとで夕飯に寄った。
夕飯と言っても居酒屋でというのは合意であり、もっと遡れば待ち合わせて買い物というのもその後は居酒屋でというのがいつもの筋書きである。
*
ウインナーの春巻きが風変わりで旨かったな、
メニューにドカンと載っていたサラダも注文してみて大正解、
唐揚げもボリュームがあったし、
サンマのにぎり寿司も回転すしレベル以上だった。
満足して帰ってまいりました。
駅前では、はなの舞、魚民、つぼ八、庄や……などがあって悩むのだが、嬉しい悩みでした。
*
そうやそうや、
ウイスキーの水割り(W)をいつもどこでも注文するのだが、立ち飲み屋か町中の酒店の片隅にある立ち飲みのグラスのようなもので水割りを出されたときは「おおおぉ」となったが、氷も適切量で水も旨かったし、きちんとまじめに作っているように感じた。店の人に依るのだろう。
約45分ほどの散歩に行ってきた。曇りの日は歩き易いなと思って出たのですが、半袖のTシャツがぐっしょりになってしまいました。
みかんも柿もいっぱい成り放題。きっとこのまま放置して、やがてカラスや他の鳥に突っつかれて落ちてゆくのだろうなあ。
柿は渋柿だったのでポイともぎ取って食べる訳にはいかないが、みかんはきっと酸っぱくて旨味があったに違いない。
ただいま、MieMu 開館記念企画展第4弾 として、「祈りと癒しの地 熊野」というのをやっています。
10月12日にギャラリートークがあったので、瀧川和也学芸員のお話を聞きに行ってきました。
展示期間は、平成26年10月11日(土)~11月24日(月)で、曼荼羅は11月になったら、かなりの数を入れ替えます。前半と後半の両方を見ておくことをオススメします。
10月19日に「曼荼羅絵解き」の解説が MieMu であります。これが、なかなか滅多に聞けない話になること間違いなし。
地獄の様子を描いた絵など、かなり残酷なものがあって、驚かされます。どんな意味がこの曼荼羅にあるのかを知るだけでも、興味が増幅していきます。
誕生日を祝うといってケーキを買くれた。わたしには不要だと何度も言ったが、それでは気が済まない。デコレーションはやめて、ツマはショートケーキを3個だけ買ってきてくれた。甘いモノを食べるのは好きですが、多過ぎても困るので、わたしにしたら十分過ぎる。
一方、食卓のほうは普段よりも地味で、シャケとシュウマイとほうれん草のお浸し。
ビールもなし。
それもこれも、台風19号のせいだということにしておく。
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というわけで、心配をかけた台風19号は、九州に上陸をしたあと、夕方ころに四国あたりに再上陸して、深夜11時から12時ころに奈良市あたりから名古屋の方へと駆け抜けていったらしい。
わたしは、普段通りにウイスキーを飲んで風呂に入って9時過ぎに寝た。
誕生日だからといって肩に力を入れても名作ができるわけでもない。
先日、鼻の下のカミソリで怪我をしたところが痛いのでひげを放置している。
このままむかしのように生やしていようかなとも思うものの、みんなはヒゲが嫌いなだけに、あまり自分の趣味で伸ばし続けるわけにも行かない。ただ、誕生日だから一つの節目としておまじないのように復活してもいいかもしれない。
今のわたしには、心を入れ替えるという意味でも、結構、こういうトリガーが不足しているのかもしれない。
(11日ゆうはん)
久しぶりに鯛のお刺身
それだけでは寂しいので、おジャコをピーマンと絡めて。
それでも、寂しいけど
今日は近所を30分余り歩き回ったのだし、辛抱しておく。
と言いながら、ラガー1本飲んだけど。
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ムスメさんがAちゃんと鳥取に行っているのでゆうはんはひっそりと二人で食べる。
酔っ払うのが嫌だからといってノンアル(@アサヒ)を好んで飲んでいるツマですが、そこまでしてビール風味を味わいたいのだなと感心する。なんぼ飲んでも酔いを感じられないわたしの感触を楽しみたいのだろう。
わたしは1杯飲んで簡単にふわ~となってみたい。
そのほうが断然お得だ。
ちょうど今の季節に書いた昔の日記を読み返すと
不思議にもあれやこれやと鮮明にものごとが蘇ってくる。
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昔の話といえば一気に時代を50年ジャンプすると
ちょうど、東京オリンピックのときの映像をTVが盛んに流していたので、毎度のことながら思い出すことをメモ書きしておく。
新幹線が開通して新大阪と東京を結んだ初列車の運転席にNHKがカメラを載せて3時間生中継をした。
とまあ、信じられないような話だが、あの時代はそれが凄いニュースだった。
でも、たかが50年じゃないか、されど50年ともいう。
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赤電話の話で、先日なるほどと思ったこともあった。
知らないという人の年齢層が思っていたより高かったので驚いている。
(35歳くらいの子に聞くと知らないと言っていたのだ)
赤電話を見ながら様々なことが浮かんでくる。
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当然ムスメも知らなかったわけであるから、その頃のことを伝えておかねばという気持ちが出てくる。
当たり前のように携帯して持ち歩いている電話である。生活文化や暮らしのスタイルを知る意味でも聞きたくもない歴史に少し耳を貸していただき、是非とも過去に興味を持って知っておいて欲しいことが幾つかある。
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昭和50年ころ、東京で学生暮らしをしていたあのころは、郷里と電話で話をしたければ、公衆電話に出かけて行って10円玉を5秒おきくらいに投入しながら話した。
(公衆電話そのものが今では見かけることが少なくなった)今では街角から姿を消してしまった赤電話だが、あのときの電話がその赤電話であった。そしてその電話が設置されていた路地の一角は、たばこ屋であった。これも今では姿を消してコンビニになっていることが多い。
貧しかった下宿生は誰もが10円を40個も50個もポケットに入れて電話をする。それでも足りないときは下宿のおばさんの家に電話をかけさせて取り次いでもらった。(でも金持ちの子でも電話を持っている子は少なかったと思う)
時代は少しずつ変化してゆく。
公衆電話BOXの一般化が進み、街角で容易に電話をかけられる時代が来る。
(10円玉の時代が長かったが)コレクトコールや100番通知を利用するいっときを経て、100円硬貨が使える電話が登場し、すぐにテレホンカードが使えるようになる。
このころは下宿生でも部屋に電話を引いている子が増えていた。
しかし、わたしは手紙を書いた。電話はカチャンという硬貨の落ちる音の哀愁のあとに淋しさが残り、言葉は消えてしまうからだったのだろう。
古里の友だちや、会いたくても会えない友だちと交わす手紙は1週間に何通も届いた。
まだまだ手紙の時代で、わたしは下宿を引き払ったときにダンポールに幾箱にもなる手紙の束を残していた。
赤電話はやがて街角から消えて、コードのない電話が常識化され、その電話が個人のための携帯電話へと変化してゆく。
きのう(8日)は、二十四節気の寒露にあたる。朝から少しひんやりとして、机に向かいながらも一枚長袖を羽織ったほどだった。
この日記ブログのなかでも、これまでの季節の変わり目では自分を振り返り多くの人たちに感謝をし、これからの決意を新たに固めた日々が何度もあった。
寒露という季節は、晩秋に向かってゆく少し寂しい感じのする節目であり、もう一つ、自分の誕生日を数日後に控える貴重な戒めのときでもあるのだった。
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サッポロクラシックというビールを、珍しくスーパーの棚で見つけたので嬉しくなって買っきて、ツマと飲んだ。コップに一杯ずつついでムスメに誘いをかけてみると、珍しく飲んでみるという。少しだけ口をつけて味わって一丁前なことを言っていた。
味がわかるのだろうか。「旨い」と言うので、この子もビールの苦味がわかるようになったのか、と思うと些か嬉しくなってくる。
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実をいうと味については、それほど期待をしていたわけではなかったのだが、 いさ飲んでみると懐かしい泡の味がするので、少し見直した。世間で馬鹿騒ぎをして買い求めている人々のブログ記事などをみて、ブームや広告が主流の今の世にどこまで味がわかっているのだろうかと猜疑心を抱いていただけに、まんざらでもない人がいるのだと思ったのだった。
■
というか。
このビール、50年ほど昔に父が、ポンと栓を抜いて、どくどくどくとコップに注ぎ、唇に泡を残して飲んでいたあの時のサッポロ(★マーク)の味なのだ。コップの上に吹けば飛ぶように柔らかく載っていた泡をぺろりと舐めて「わー苦いっ、まずい、大人の飲み物って苦くてまずい」と強烈に思ったあの味だった。(それでも何度も舐めてみたのだったが)
■
ビールの何が好きだったのだろうか。
麦茶を高いところからコップに注ぎビールのように泡立てて飲んで「ぷふぁ〜」と大人の真似事をしていた時代があった。あのときテーブルにあったビールの苦味なのだろうか。
高校を卒業して上京して一人暮らしをするうちに憶えたビールの味は、子どものころの味とは変わっていた。それでも、一丁前に大人ぶってビール党を気取っていたりした。
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ビールを愛してきた自分にも密かながら歴史があるのだなと染み染みと泡の香りを楽しみ苦味を飲み込んだ。
昔と変わったことといえば、この一杯をじっくり飲んでそれでオシマイにしてしまうことだろう。旨いものを旨いときに適切なだけいただく。
ゴクリと飲みながら、本当にムスメさん、味がわかったのだろうか?
そうだとすると、もはや追い越されているのかもしれない。
プロローグ
第一章 おいたちから事件まで
第二章 一審「死刑」
第三章 二審「無期懲役」
第四章 再び、「死刑」
第五章 「永山基準」とは何か
エピローグ
永山則夫は1997年8月1日に死刑を執行されている。事件の始末がこの日を持って終了したというわけではない。
2009年の8月裁判員裁判開始。
その時から実施されることになった裁判員制度を転機に変わってゆく刑事裁判というものや罪を犯した人を裁くということ、死刑というものが意味するもの、その必要性などを考察しようと作者は考えたのでしょう。
この作品は永山則夫という人が裁判で遺した足跡だけではなく、日本の死刑を求刑した、あるいは判決を下した裁判の見えない葛藤や冷酷さ、冷静さ、正義、情状などが絡み合っているところへ飛び込んで、永山裁判とは何であったかという大きなテーマから、人間の心理や姿に迫っているのだと思います。
先に読んだ「永山則夫 封印された鑑定記録」(堀川惠子、岩波書店)のほうが調査時期が新しいこともあって、永山則夫の鑑定記録(鑑定書、録音テープ)の調査結果からの考察が素晴らしい。
この作品 永山則夫 死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの は、その前段階の論考になり、永山の裁判記録の流れにそって、裁判にあたった裁判官、弁護士、調査官、永山と獄中結婚をしたミミさん、その他にも永山の交わした膨大な手紙、書物や記録を丹念に解析して考察している。
堀川氏の冷徹すぎるとまでいわれるペンが読者を惹きつけます。
もしも二冊を、いや、二冊をセットで読むのがいいので、読むならば新しい方から(鑑定記録に詳しい作品から)をオススメします。
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ドキュメントの時代と騒いで、多くの人が小説よりも(事実をかたる)ドキュメントの分野に読書域を広げて、お馬鹿なテレビが追従して、ドキュメントというものとお騒がせ三面記事とかゴシップが混同された低レベルな時代を経て、おまけに新聞メディアまでが三流週刊誌みたいになったのも、広告メディアに侵されてしまったからだと諦めていたのですが。
ドキュメントも地に落ちて魅力を失ったし、見向きもしないかも、と自分で思っていたのですが、捨てたものではない人がいるのだということを知らされました。
どうぞ、堪能してください。
PCを叩けば出て来るお馬鹿なネット情報などに翻弄されずに、実物を自分の眼で確かめてください。
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