父という人は、怒らない、怒鳴らない……
父が長い間書き続けていた日記や大事に仕舞っていた小物、母の(妻の)小物などを燃やしてしまった事件がある。それには深い事情や理由があったのだろうが、事件を記録するという形では何も残らない。だから、私もそれ以上詳しいことは知らされていないのである。
定年を終えてから、別の会社で非正社員として働きながら年金受給を目指していた頃のことであると思う。
高血圧はジリジリと進行していた。主治医の喜多先生は若い時からのお付き合いだったので、最期の迎え方も想定しての治療だったのだろう。つまりは必要以上に苦労や心労をかけて根性で長生きをすることだけが人生ではなく、これまでに生きてきた姿と社会での位置づけなどを見ながら、さらに残される家族のことを思って治療をしてくださっていたと思う。
父はすべてを喜多先生に任せていた。
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私は父が定年になる1年ほど前に、私は京都から引っ越しをしてきて今の地に住んだ。車で1時間以内である。父の傍には弟が住んでいるので、私の屋敷を万一建てる時が来たらと思い100坪だけ私のものとして、先祖から受け継いだ残りの田畑と屋敷はすべて弟に相続させた。周りには、長男だった私を気遣って形だけでも兄弟で半分ずつと考えた人もあったらしいが、私は一旦は出てきた身分だからそういうものを受け取る気はなかった。
時々、生家を訪ねて行くのだが、ちょうどそのころは家庭が一番の成長期で、自分も一番忙しい時期であり、遊びにも気が多い時期だったこともあり、あまり足を運ばなかった。そのことで母親が私に、もっと家に顔を出すべきだと叱ったが、時間がないという理由で行かず仕舞いで、父の前では終始出来の悪い息子であったわけだ。
何事も立場を逆転すれば見えないものが見えるように、この話も同じことが言える。だからそのことで多くは言及しない。
父の顔を見に行くこともそれほど多くはなく、1ヶ月に1回ほど顔を出し、夜遅くまでいても泊まることもなく帰ってきた。
前にも書いているが、酒を酌み交わして喋るということはそれほど実現されず、人生観であるとか、生い立ちであるとか、苦労話であるとかは、昔に夢に描いていたようにはしていない。
だから、私は父についてを推測で書くしかない、というわけだ。
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焼き棄てられてしまった日記には何が書いてあったのだろうか。
父は、若いころから毎日毎晩、日記を書き続けている人だった。分厚い1年分の日記帳の他に大学ノートのような帳面にサラサラとメモを書いてあるのをみたこともあるが、父が何か意味を見出していたかどうかはわからない。何かを伝える意志があったのか、残そうとする意志があったのか、不明のままだ。
父という人は、怒らない、怒鳴らない、愚痴らない、感情的にならない、不用なことを口にしない、何かを主張しない、押し通さない、説教しない、などなど、そんな人であったのだ。
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