遠藤周作 悲しみの歌 (続・感想)
きょう、この本を読み終わるときも、この本の最後の部分で勝呂が首を吊って自殺をするために医院を出て新宿の街をゆくときも、冷たい雨が地面を濡らしている。雨は悲しい物語に降るならば冷たいイメージとなってゆく。祭の囃子が聞こえるときにキミちゃんの父さんをあの世に送るのだから季節は冬ではないのだけれど、季節感のない新宿という大都会の中で大勢の人々が蠢く。人は、皆、弱くて情けなく、あるいは優しい人々が孤独に動いている。
遠藤周作は知っている。共に悩み考え疑問を投げかけ、捉まえることのできない答えを求めている。
遠藤さんといえば、TVで売れっ子で司会をしている今のタレントのような語り口で、真面目な話をするときでも、さっぱりとした口調であった。もちろんその口調に嫌味なものは一切なかったので、おそらく誰からも嫌われることはなかった。
もしも、あの時代にTVに登壇していた遠藤さんを知っている読者ならば、この作品の遠藤さんを想像するのは難しいかもしれない。まさか、遠藤周作という人がこんなふうに、1人ぽっちで神と向い合い苦悩しながらも助けてやることすらできぬ罪深い弱者たちを、淡々と書き綴る優しい人であるとは想像できなかっただろう。小説家とは正体不明だ。
しかし、こういう作品を書いている遠藤がホンモノであった。そうあのころには何度も考えて、遠藤のいう神について、人生について考えた。
遠藤周作さんは大正12年生まれで、平成26年まで生きていれば91歳になるのあるが、惜しいことに70歳を過ぎたばかりで逝ってしまった。今ならばめちゃめちゃ若いところだろうが、当時はしかたがないと悔やむだけだった。闘病生活があったわけでもなかったので、元気な姿でふくよかな顔でいつもテレビに出ていた。その印象で止まったままである。私の父より9歳ほど歳上で、2年早く逝ってしまった。
晩年のころには、深い河という作品も残し、新人のころの硬さと美しさをも蘇らせ、成人期の柔軟さも加えた作品にまとめる術を見せてくれた。そういう遠藤になりつつある過程で、苦悶している遠藤さんが書き上げたのがこの作品だろう。
海と毒薬のようなリアルなタッチや凄みから離れて、いかにも遠藤周作らしい真面目なユーモアをふんだんに取り入れ、照れ隠しにニタニタと微笑むような作者の顔を想像させながら物語は真剣に展開する。遠藤さんは、メタファーというか、一種の比喩的な表現をとても好んで使うのだが、それが読み手の心を悲しみへと引きずり落としてゆく。「青い小さな葡萄」や「白い人・黄色い人」を書いていたときのペンと何ら変わりなく、真剣に悲しみと立ち向かいながら書いている遠藤周作に会える作品だ。
彼は私たち読者を強引に連れ落とそうとしているのではない。人がひとつの壁にあたったとき、または淵に立たされたときに、周囲がどのような気持ちでいるのかということを知り尽くしていて、その淵にいる人に対して真理はどうあるべきかということを常に悩み続けているからこそ、捨てられた子犬のようにというような比喩的な言葉が出てくるのだろう。ガストンの登場も比喩ではないもののある意味では真理の化身のようなものであるといえる。それを手品のように使って一緒になって悔しさを共有させてゆく。
強い人物がいて弱い者がいる。悪者がいて善人がいる。偶然のもつれの中で、悲しみが増殖して、みんなが行きつくべきところに向かって歩き出す。シアワセという言葉は不要なのだ。
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