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きょう、図書館に返却しました。
お次の方どうぞ。
県立図書館に会員になってメールで予約すると近くの図書館で受け取れます。
同じ文化部のかたが読んでおられるのをFBで知り、私も県立図書館から借りてみた。
非常にわかりやすい入門書的な本で、私の興味は、言語のことに始まり、生活習慣、祭事、食事、性事、それからモノの捉え方、などに向いてゆく。
報告書ではないので、それほど簡潔に書かれいるわけではなく、テレビの娯楽番組としてダラダラと海外の民族を紹介しているようなのが昔あったかもしれないが、そんな感じであった。
岩波新書にぎゅっと凝縮してくれると、まあ、上篇・下篇くらいにはなるかもしれないが、購入する気になると思う。
言語のことやものの捉え方など、多くの方が感想で書いているので、そちらを読めば面白そうな内容は理解できる。
色に対する感覚、左右の捉え方、生き方そのもの、数の数え方など、民族学の研究レポートで何らかのカタチで紹介もされていたのだろう。改めて掘り下げて「ピダパン」という民族についてだけ集中して読んだ形になる。
このような研究レポートを読むと必ず文明化している我々との大きな違いをため息とともに考えこむことになる。
文明とはやはり愚かな要素が多い。そのことを省みろうとする現代文明人が少ないことが残念だ。
(だからといって、私はアマゾンで暮らそうと思うわけではないが、考えることは大事だと思うな)
大寒のときの月が何かを蘇らせたのだろう。思い出したくないこともあれば、ふたたび再現したいことだってあろう。忘れていたことが期待はずれに呼び戻ってきても心はときめき、あるいは沈むこともある。
私など狭苦しい世界で生きているニンゲンは、忌々しことばかりに泣き笑いをし、世の中の悪が素早く滅びればいいと思うものの、しかしながら、それには痛みと犠牲を伴うことが世の常で、それでもと強くは言い難い面もあり、怖気づいて居るだけである。
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砂女さんがブログに書いている博物館は、正しくは「民族学博物館」。私が東京を棄てて(諦めて)京都のオ社に就職を決意をした動機が、京都大学の偉い先生方の書物の影響で、今西先生とか梅棹先生とか、そういう方々の熱のある報告や書籍を読んでいると、居ても立ってもいられないと感じたからでした。何ができるわけでもないのですが、ともかく京都に行こうと考えて会社を選んだことを思い出させてくれるのが、この民族学博物館です。京都に住んでいた10年足らずの間にはせっせと通いました。
民族学博物館にひとたび足を踏み込めば、ニンゲンの純粋なる姿が手に取るように見えてくるような気がするのです。現代文明がアホで愚かなものにまで感じられて、限りなく原始人に近いような暮らしで、真剣に祀りに打ち込んで、神とともに生きていく人生であれば、これほどまでに欲に満ちた日常などなかったのにとさえ思えます。なんどでも行きたくなるたった一つの場所かもしれない。
さて砂女さんのお月様。
そこには坂道があって、何かの用事で先を急いでいたのか、用事を済ませて逃げるように帰り道を急いでいたのか。(悪いことも良いこともみんな)「お天道さまが……」(ご覧になっている)というようなことを言いますけれど、そこには、静かでニコリともしないお月様がいたのでしょうか。
月はどこまで行っても無言で、昨日ポロリとついてしまった嘘や見栄も、お見通しのようなところがあって、俳句でそっと懺悔している。(それは私の場合ですけど。)
ひとりで見上げる月であるから、徹底的にひとりになれる。ヒトは自分に嘘は付けないのだから、時にそういう自分に成り戻りたいという願望もあるのでしょうか。
あの晩に月が照らしたあの人の赤いマフラーはモノクロに見えたのに、記憶が舞い戻って来たときには真っ赤になっている。そこだけ赤く、それが辛い。
ヒトの脳みそってのは勝手なものだとつくづく思う。
寒中お見舞い申し上げます。
年末年始はグウタラをしてしまい、年賀も参賀も疎かにしてしまいました。
元気にしておいでと思いますが、年頭の挨拶だけでは、いわゆる世間話もできないので、子どもは大きくなったのかとか進学したのかなどというサラリとしたことやありきたりな話もおざなりのままになりがちです。
月日が過ぎると家族とそれなりに幸せに暮らし、孫ができるとその子たちを大事にして日々を送る人が多くなります。そんな折にひょいと思い出して貰えたら、やはりメールではなく、手紙を書いてみたいと思うのです。
万年筆を使う頻度が減ってしまい、インクが切れてしまうことが無くなっています。
枯れることはあるのですが……、と笑ってみたりしております。
19日のつぶやきに次のように書いた。走り書きであるがそのまま写します。
冷たい風が吹く一日となりました。朝、目覚めてすぐに幕の間から外を見たら雪はなくホッとしましたが、ネットで近隣を見回してみるとすぐ隣の町からは積雪映像が発信されています。慌てて鈴鹿峠などを調べると、真っ白の道路を車が走っている様子が写っていましたので、来たのだな思い、心を落ち着けたのでした。寒い夜に十七回忌を済ませて酔いしれて帰った夕べですが、知らぬ間にいつもの酒より多めに飲んだらしく、日本酒の糖分のようなものが身体の隅々の隙間にとごっているような感触。やはり、お酒はもう一杯呑みたいのを辛抱するくらいが一番旨いと思います。旨い酒を楽しみたい。
わたしにとって大寒という日は、ひとつの節目ですけれども、ことしは17回忌をするということで、いつもの年とは違い迫ってくるものを感じていました。
未年の母は83歳になりますし、まさに21日は誕生日ですから、83回めのこの冬を迎えているこの季節に、頭のなかに真っ先に浮かぶことは、来年の冬をこうして迎えられるという望みは非常に少なく、期待もできないのだということです。長生きを叶えられなくても失望もしない覚悟はしているつもりですが、もちろん、覚悟というものほど当てにならないものはありませんでして、そのときはそのときのパニックが襲い掛かるのでしょう。
おとう(父)の葬儀の日に冷たい風が吹き荒れ、峠の山々は真っ白になりました。大人でさえ山に雪が積もれば珍しがって感嘆の声とともに眺め入ってしまうのですから、あの日の雪は突発的で、私たちの記憶の大きな目印を付けてくれたのでした。
いまでも、あの日の寒さと、焚き火の暖かさと煙たさと、あのあと1週間以上も咳以外の声も出ないし風邪を引いてしまったことを大勢の人が思い出します。あれから風邪を引かなくなってしまったという伝説まで出来上がってしまいました。
むすめは、イチゴ狩りに出かける算段を立てていたのですが、峠の向こうは想像以上の積雪であったらしく早々に変更して、近所で済ませました。ツマと私が買い物に出掛けた時にひっそりと家に帰り冷蔵庫にパックをひとつ放り込んで、いそいそと映画などに再出発していっ たのでした。(あとで尋ねて知りました)
こうして、17回忌のころに迎えた大寒は過ぎていきます。
17回忌の晩(18日)のこと。
お酒を少し多めに飲んだので、体調を崩しそうになったのですが、調子そのものは崩さなかったのですが、腰痛が現れまして。原因はどこか別のところにあったのかもしれませんものの、すぐに胃腸が愚図るのは昔にはなかったことです。
こんなことでも、おとうのことを思い出しています。おとうは、腰の調子が悪ければ仕事にならなかったのですが、割と腰痛で家で臥していたのを思い出します。身体が丈夫でなかったという話になると決まって、母は「おとやんはカラダがひとよりもずっと弱かったなあ、それで、あれこれと工夫をして、身の回りのことを楽にしようと考えて、道具を上手に使うたりしてやったんやろうなあ」と話し始める。
寒さが沁みてくる季節になると、おとうの背中を思い出す日が多くなります。
14日火曜日の朝にJRの切符自動販売機で思わぬトラブルに遭う。回数券を買ったあとお釣りの札が詰まった為に機械から回収するのに時間がかかるというのである。そう小窓から駅員が済まなそうに言ったあと、しばらく待たせて出てきて、詰まってしまった機械を開けてお金を出すためには金額の確認が必要であり、責任者が不在なために即座に釣り銭を機械から取り出せないと繰り返し説明し、お釣りをすぐには渡せないので帰りにもう一度駅に寄ってもらえないかと言う。
職員は私物のお金を持てないという理由からだろうか。先ほど詰まった金額を私に渡し事態を解決するような手段が取れないのだろう。さらに、責任者がいない、確認手続きに時間を要するなどの事情や規則を何度も同じように説明をする。
言っていることは大いに理解できるのだが、今すぐには出てこない分の金額を渡すことはできない、帰りに寄って欲しい、ということで、JR側からの都合で対処を考えて繰り返すだけである。私の都合は聞こうともしない。
これでは、駅員があまりにもお粗末すぎる。呆れて物が言えない。
◎
必要な金額を持ち券売機で切符を買うために寄ったにも関わらず、私はその半分だけしか用を実現できないままの状態で立ち往生である。「名前と連絡先を書いてひとまず帰ってくれ、夕方寄って欲しい」の一点張りだ。
夕方にこの駅を訪ねる予定はなくもないが、変更になる可能性もある。確約はできないし未定なことである。事態が変わって出かけるとか予定時刻を変更したり、(先週に家族に2度も襲いかかったように)体調不良で予定行動を取れない場合もある。夕方の約束をしたために拘束をされるのは困る。何よりも、その釣り銭で私の次の用事を済ませる予定であるのに、その私の段取りを踏み躙るようなご都合を押し付けてくる言動にとても困惑してしまった。
◎
幸い40分ほど早めにこの駅(職場最寄り駅)にきていたこともあり、待つのですぐに処理をして欲しい、とお願いしたら20分余で確認ができるという。そこですぐに機械を開けて処理をしてもらうことになったのだが、寒い駅の窓口の前で詰まっていたお金を受け取るまでの30分もの時間を無駄し、職場の就業開始にあわやということになったのだから、私の方としても次々に思うことも湧いてくる。
◎
私が辛い目にあった些細な出来事で、私が許せば済むことかもしれない。しかし、人々を安全で正確に運ぼうとする列車運行管理組織の1部署での出来事であると思うと、券売機のトラブルという日常に些細で、珍しくもない故障で、朝の混雑の駅業務に支障が出てくるのも困るからとでも言いたいのだろうか。同じようなことが再発しても、また同じようにトラブルに遭遇した人を困らせてお終いなのだろうか。
もしも私が人命に関わるような急用でここに来て、この故障に巻き込まれていたら、駅員は知らぬふりで同じことを言うのだろうか。もしもそうだったら私は怒るというだけでは済まされないだろうか。しかし、私は弱者である。泣き寝入りであろう。
同じようなトラブルで困らされた人はいないのだろうか。社会的に重要な人物がトラブルに巻き込まれたらどうするのか。要人だったらどうするのか。手に負えない厄介な人物であったらどうするのか。そのようなことを想定してこんな事態に備えてはいないのか。今回のトラブルで何か改善の必要性を感じたのだろうか。
親しい人に私は弱者で災難だった……と話をしたら、「JRだからな」と言われてオシマイだった。
そういえばこれまでにも何度も非情な対応に泣いているのだった。
乗る以上は覚悟をして乗れということだろう。たとえそれが地震であろうと津波であろうと。
きょうは成人の日です。
左にあるサイト内検索窓に「成人」と入れればこの「遺言」のブログを輪切りにできる。
昔のほうが─というより、満たされていないときであるとか目標をもってそこに居るときのほうが、物事をしっかりと見ている傾向がある。それのことは知っているのだが、節目ごとに反省をすると再認識をする。
◎
【- Walk Don't Run -】 遺す言葉を増殖(追記)して時間がすぎる。
どんどんと落ちぶれてゆく日記である。
書きかけが放置したままメモの中に残っている。
纏まることなく消えてゆくこともあれば、下らないままで載せることもある。
自分がどんどん詰まらなくなっている。
◎
1月10日、谷川浩司九段、A級陥落。連続在籍32期。日本将棋連盟会長で十七世名人の資格を持つ谷川浩司九段(51)のB級1組への陥落が決まった。
そんな新聞記事を見て、無敵の谷川浩司にもこういう時期が来るのだが、これからが人生の勝負なのだな、と思う。
◎
今週末に17回忌をすると連絡が来る。
▼予想通り十七回忌で寒波くる
検索結果(10件ヒット)
■■
■□ 父の伝記はないのだ。
様々なことを思い浮かべたりどこぞで話をしてきたりして、それを書き留めながら、父の伝記を書きたい考えるようになった。しかし、伝記などというものは、たとえ大物になったとしてもそう簡単に残せるものでもない。死ぬまでに最低1作品は残せても、父はその自伝を書き留めなかった。さらに、先にも書いたように日記は何らかの理由で焼却されてしまっており、掘り起こすことは不可能だった。
■■
■□ したがって、
残された作品を分析するか、人の言い伝えを纏めることくらいしか出来ない。当の本人は自分の人生を記録に遺すことの価値やその必要性をさほど意識していた様子もなく、彫刻や絵画などにおける作品も、死んだらどのように処分して欲しいというようなことを伝言したわけでもなかった。出来上がった作品は、勢いとか愛想とか出任せであっても欲しいと言ってくれた人があればあげてしまっている。残された者としては、それはそれでひとつの宿命であったと諦めねばならないのだろう。お前のおやっさんの絵がうちにあるよ、という人に出会ったことがあるが、そういう人を訪ねて回収するのも躊躇っている。
■■
■□ だから、父の自伝は、纏まらないまま
というのが運命のようだ。自伝(伝記)を残さない運命は、父のすべての作品によって自らを語られるのかもしれない。彫刻や絵画だけではなく、庭に植えた木の一本一本であるとか、小屋の中に作った道具整理用の棚であるとか、居間の柱に打ち付けた何かを掛けるための釘であるとか、もしかしたら、田んぼの土の肥え具合いも何かを彼のことを語ろうとしているのかもしれない。
◎◎
私は去年の暮にここまで書いて、手がかりになりそうな言葉を探し始めて、また、ペンを置いたままにしてしまった。
きょう、この本を読み終わるときも、この本の最後の部分で勝呂が首を吊って自殺をするために医院を出て新宿の街をゆくときも、冷たい雨が地面を濡らしている。雨は悲しい物語に降るならば冷たいイメージとなってゆく。祭の囃子が聞こえるときにキミちゃんの父さんをあの世に送るのだから季節は冬ではないのだけれど、季節感のない新宿という大都会の中で大勢の人々が蠢く。人は、皆、弱くて情けなく、あるいは優しい人々が孤独に動いている。
遠藤周作は知っている。共に悩み考え疑問を投げかけ、捉まえることのできない答えを求めている。
遠藤さんといえば、TVで売れっ子で司会をしている今のタレントのような語り口で、真面目な話をするときでも、さっぱりとした口調であった。もちろんその口調に嫌味なものは一切なかったので、おそらく誰からも嫌われることはなかった。
もしも、あの時代にTVに登壇していた遠藤さんを知っている読者ならば、この作品の遠藤さんを想像するのは難しいかもしれない。まさか、遠藤周作という人がこんなふうに、1人ぽっちで神と向い合い苦悩しながらも助けてやることすらできぬ罪深い弱者たちを、淡々と書き綴る優しい人であるとは想像できなかっただろう。小説家とは正体不明だ。
しかし、こういう作品を書いている遠藤がホンモノであった。そうあのころには何度も考えて、遠藤のいう神について、人生について考えた。
遠藤周作さんは大正12年生まれで、平成26年まで生きていれば91歳になるのあるが、惜しいことに70歳を過ぎたばかりで逝ってしまった。今ならばめちゃめちゃ若いところだろうが、当時はしかたがないと悔やむだけだった。闘病生活があったわけでもなかったので、元気な姿でふくよかな顔でいつもテレビに出ていた。その印象で止まったままである。私の父より9歳ほど歳上で、2年早く逝ってしまった。
晩年のころには、深い河という作品も残し、新人のころの硬さと美しさをも蘇らせ、成人期の柔軟さも加えた作品にまとめる術を見せてくれた。そういう遠藤になりつつある過程で、苦悶している遠藤さんが書き上げたのがこの作品だろう。
海と毒薬のようなリアルなタッチや凄みから離れて、いかにも遠藤周作らしい真面目なユーモアをふんだんに取り入れ、照れ隠しにニタニタと微笑むような作者の顔を想像させながら物語は真剣に展開する。遠藤さんは、メタファーというか、一種の比喩的な表現をとても好んで使うのだが、それが読み手の心を悲しみへと引きずり落としてゆく。「青い小さな葡萄」や「白い人・黄色い人」を書いていたときのペンと何ら変わりなく、真剣に悲しみと立ち向かいながら書いている遠藤周作に会える作品だ。
彼は私たち読者を強引に連れ落とそうとしているのではない。人がひとつの壁にあたったとき、または淵に立たされたときに、周囲がどのような気持ちでいるのかということを知り尽くしていて、その淵にいる人に対して真理はどうあるべきかということを常に悩み続けているからこそ、捨てられた子犬のようにというような比喩的な言葉が出てくるのだろう。ガストンの登場も比喩ではないもののある意味では真理の化身のようなものであるといえる。それを手品のように使って一緒になって悔しさを共有させてゆく。
強い人物がいて弱い者がいる。悪者がいて善人がいる。偶然のもつれの中で、悲しみが増殖して、みんなが行きつくべきところに向かって歩き出す。シアワセという言葉は不要なのだ。
先日から、「死の棘」(島尾敏雄)と並行に読んでいた「悲しみの歌」を読了しました。
昭和52年10月に「海と毒薬」を買って、その直後に「死の棘」を買って、遠藤と島尾に夢中になっていた学生時代がある。
「悲しみの歌」は、昭和56年8月に買っています。文庫本の初版が6月で、文庫化されて大急ぎで買ったのかもしれない。もちろん初版。
今では「海と毒薬」の続編のように言われるものの、世に出るまでに時間を要したらしい。
そのころの遠藤周作といえば、大人気作家で、長者番付は常連でしたし、新聞雑誌でも引っ張りだこでした。昭和50年ころから60年ころの間に読み尽くしました。感想をそのとき毎に書き残さなかったのは残念なことです。
文庫本は、察しの通り真っ茶色です。電車のなかで広げてもいかにも古めかしい本を読んでいるとわかります。ページはところどころ便箋のように剥がれそうになってきますので、丁寧に扱う必要があります。誰にもあげらませんお宝です。
さて、感想は今から書きます。
(しばらくこのままで放置)→続く
海と毒薬の感想は、写真をクリックしても書き写していますし読書系 遠藤周作セレクションの中に書いてます。
ここでは省略。
◎ とんがって生きて丸餅焼いている(長谷川博)
ねんてんさんが紹介してくれる句は、もしかしたら、天声人語よりも刺激的かもしれない。そんなことをいつも感じながら、素直になったり捻くれてみたりして毎日を暮らしている。
今年は、お正月休みを最も長く取得できる周期で曜日が巡ってきたので、どちら様もゆっくりとお過ごしに成っていることと思います。その分、ブタになってしまっている方も多かろうと想像します。
おせちは大晦日に大方を食べ尽くしてしまうので、お正月が明けるころにはうどんであるとかお好み焼きであるとかを食べて、出っ張ったおなかをさすっている。
寒波襲来とニュースが伝えるけど、朝起きてもそれほど寒くもなく、昼間は明るくて暖かい日差しが部屋に差し込むので気持ち良い。パソコンの前に腰掛けて、ぐうたらな時間を過ごしている。
こんなときには、満足のいく作品など期待できない。もっと追い込まれているとか、不平があるとか、夢が叶わないとか、切ないとか、そういう出口に向かって一途に必死な状況のときに名作品が生まれてくる。
去年に続き今年も八朔は豊作で、軽トラの荷台に積み込めば溢れるほど成っているので、家に帰ったときに五六個持ち帰ってきた。
ミカンを食べ始めるとかっぱえびせんのように止まらなくなって何個も食べてしまうのだが、八朔は1個食べれば割と満足してしまう。食べるのに手間と時間がかかることもあるのだろうか。
年末年始最後の日のお昼には、お餅を焼いて力うどんにして食べた。同期会のビンゴで最後の最後まで当たらなかった。どうしてこんなに隙を突いた番号ばかりが開くのだろうかと嘆く私に隣席の子が「そこまで行ったら相当運がええ」と言ってくれた。
力うどんにすこし願いを賭けてみるか。当たらないものと当たるものを上手に選り分けて進みたい。
▼寒気団命日近しと告げに来る
そんな句をつぶやいたら、3年前の冬が蘇った。
18日十七回忌をするという。ときのたつのははやい。
平成二十六年元旦。
五十七回目の正月を迎えています。
いつの頃からこのめでたい時期を意識し始めて、いつの頃からどうでもいいと思い始めたのか。一晩だけで大晦日から正月になり新年を祝うという変化をつまらないと思ってみたり、そのような人の作ったものへの反発を持ってみたり、何もすることもないので無意味な時間だとバカバカしさを露わにしてみたりしてきたこともある。
正月だといって慶んで騒ぎ立てていた時期よりも、無機質感を感じてたときのほうが長かったかもしれない。たかが三百六十五日のほんの一瞬だと思って、よそから持ってきてセッティングされたような押し付けと考えていたのかもしれない。それが非常に子ども染みた反抗のこともあれば、大人の理屈のこともあったわけである。
このような感情を誰もが経験をしたかどうかも不明のままであるが、実に社会はそういうお正月を一般化してゆく傾向が一部の潮流の中にある。当然、正反対に捉えている人も紛れもなく存在し、活用して仕事をする人や稼ぎを狙う人たちもいる。社会とはそういうもので、文化とはそういう流れなのだと思う、一方で、お互いの勝手な生活スタイルが全く無関心に、個人主義という言葉が都合のいいように利用された如く融合して、休暇を送りながら祭りを愉しむひとときがあり、これが年末年始であるという感じで進行する。
馬鹿じゃないの?!などと思いながら、1400万人もの人が訪れた伊勢神宮にアホらしい視線を投げかける人がいると同時に、今年こそはきちんとお参りにいって、心身ともに清らかであろうと祈願し意思を固める人がいる。
ここにいる日本の神様には教義があるのだろうか、いや、教義などなく、実はお守りをほぐして開ければわかるようには真っ白ではないのだろうか。つまり、そこには経典の文言が書かれているわけでもなく、まして「真実一路」などと書かれているわけでもない。神様の教えの哲学は、己が心に恥じざれば心がそれぞ真なりけり、というようなものなのだろうと思う。
私たちの暮らしの中には様々な神様がいる。それらと密接につながっているのが暦で、暦は一定の周期をもって人の心に意識を蘇らせる。一年を二十四期に分ける二十四節気、十二の干支でなりたつ十二支、そして五つ神様、木の神、火の神、土の神、金の神、水の神に、兄・弟をもうけて十干とした周期がある。この他に月の(汐の)満ち欠け、四つの季節が織りなすひとつの時間を三百六十五日とし、さらにこれに四年に一度の閏がある。
様々な神様にも守られて、あるときは見張られて生きているという意識が近代社会の発展と並行して希薄になる。社会の発展は人々の豊かさの象徴であり、幸せの充実であった。しかしながら、歪が起こり始めたのもこの充実感がピークに達するころのことだ。
神様を(ある意味では鬼を)心の奥に置き忘れた人が増えている。心に神を持つ人と持たぬ人が、神域へと押し寄せる。さぞや神様もお困りかと察します。
◎
新年を迎えてまた1つ歳をとったというようなことを言ったら、あるところから反発を食らいました。誕生日で歳をとるのだから、新年に年齢を重ねるのは理に合わないと言うのです。まったく、その通りですので、何も申し上げませんでした。
私は節目をなくしてはならないと考えます。年齢は、医学生理学的なものであると捉えて、全くその通りですが、先に書きましたように、ヒトは数々の神様に守られてこの地上に生き永らえてきたわけで、五穀豊穣に感謝し、健康に感謝して、それをそれらの神様とともに祝いあうことが必然であり、その時期が、月が最も高度をあげて天から地上を照らす今の時期なのではないかと思うのです。
だから、私は正月でひとつ齢をとります。
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