十月尽
wahaku
【号外】
先日お知らせしまいたように、携帯電話(iPhone)が床に屈んだときに胸のポケットからポタリと床に落ちましてコロコロと跳ねたあとスイッチに反応しなくなりましてん。 そろそろ、携帯をやめようかな〜と思って、12月11日から1ヶ月間のうちに解約しようとほぼ決めていただけに、世の中、こんなもんやなと思った次第です。(……と、ここまではあっちのブログに書きました。)
さて続きを書きます。
ずっと写真を載せることに抵抗をしていた時期がある。ブログが映像に引きつられて、本文が疎かになると考えたからだった。それでも、載せていた一時期があったが、iPhone(ケータイ)をやめる事になって、再び昔に戻ろうとしている。
世の中の主流がラジオではなくテレビに移行し、ニュースや娯楽さえも、新聞や雑誌から奪って行ってしまう。すっからかんという訳ではないが、活字だけで人々の心に物を届けようとするメディアやツールは、一種の時代遅れとまで(間違って)思われてきた。
電源を入れればすぐ届いてきて、わからないことがあれば瞬時に調べ上げるネットワークに乗った情報も大切であるが、わたしたちの感覚であるとか、人間の生物たる受容能力に対して、技術が時間を縮めることは出来ない。もうこのへんで馬鹿げたお遊びはやめにして、損得ではないモノへと視点を移してもいいのではないか。
そう言い続けながら、iPhoneを4年間使用した。電話は掛けなかったので、5700円×48ヶ月=11万5200円を投じて少し遊ばせてもらったが、あと1ヶ月と12日を残して落下破損となったため、このまま終わらせることにした。
破損の報告は最近連絡を交わした二三人だけにした。あいつ、メールを出しても返事をよこさないなあ、電源が入っていませんのメッセージが続いたな、と気付いてくれる人もあるだろう。なかには、もしかして逝ってしまったか……と思ってくれる人もあるかもしれない。そう思われたら嬉しい。わたしもそこそこの人物だったといえよう。
連絡を交わした人たちとは電話番号(家電)ではなく、住所を新しく伝え合った。手紙を書いて連絡をし合いましょうという暗黙が了解された。どうしても必要な人は職場に連絡をくれればよいし、さらに急用なれば家族のケータイを鳴らしてくれれば事が済む。それ以外のところにわたしが居たとしてもそれは電話に出られない場所が多い。
そう思って見直すと、生活行動パターンを何色かで色分けできてしまい、些かそんな人生を寂しいと思い、しかしながら、さて、わたしはその中の何色であとの人生を生きようか、と考えてみることもできた。
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十月はわたしの誕生月であることもあって、この季節はわたしの大好きな季節です。短い秋を、その短さ故に寂しがる人があるももの、めぐる季節は三角関数のようなものだから、また、新しい物語を伴って巡ってくるだろうと楽しみにしてみたり、枯れゆく落ち葉を美しいエンディングと考えてみたり、いや、あるいは新しい物語の始まりと見てみたりしております。
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向田邦子を読んでいます。飛び切り古いものを買ってきました。飛行機事故で亡くなられたのが1981年8月22日ですので、その2年余りあとに文庫化された「夜中の薔薇」という作品です。
向田さんは昭和4年生れでわたしの父や母と2歳違いです。それだけに、記述の内容の隅々までが、父や母の、特に母の呟きやボヤキ、ため息と共振していて、わたしに迫るものがあります。
エッセイは、20歳代から50歳に至るまであらゆる日常のことに触れていて、30年前にわたしを育ててくれた父母や身近な人たちに時代を飛び越して会いに行っている感覚をもらえます。
自分ではだんごっ鼻で可愛くなかったと繰り返し書いているのですが、70年代に彼女の作品に直面していたわたしは、向田さんの写真を見てお気に入りだったし、エッセイを今読んでも、その意地の強さや頑固さやお茶目さがなかなか素敵で、ヒトの味わいのようなものを愉しませてもらっています。(感想は後日、いつものところで)
ケータイを置いて読書の十月尽
わはくま (@wahaku)
October 31, 2013wahaku
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