こぼれ話 3 稲庭うどん ー 花も嵐もⅡ その62
■ 稲庭うどん
旅を始めたころは、稲庭までうどんを食べに行くような計画はそれほど考えたこともなく、信州あたりで蕎麦を食べて愉しんでいました。
東北には私の思いがこもっていましたので、しっとりと少しずつ道草をしながら北上をしてゆきます。夏の東北を愉しんで走っていました。
だいたい、私のツーリングは、峠越え。そして、秘湯を訪ねるのがテーマでした。ですが、何を思いついたか、1998年の8月10日に稲庭を訪ねています。この年の私が、旅の途中で少し趣をチェンジして一路稲庭に向かった理由は、もう忘れてもいいのかもしれない。
◎
何がそうさせたのか。
あの年は、父を冬に亡くしまして、糸の切れた凧のようなものだった。愚かな回想も幾つか浮びます。
40歳を超えて厄年を迎え、仕事のストレスもあったのでしょうか。今であれば精神科にお世話になって病気の端くれと診断されているしれませんが、持ち前の明るさでそれほど深刻に見えないようでしたので医者には行かず、体調(不良)も出なかった。自分も上手に力の配分をしていたのでしょう。
俯瞰的にあの時期の仕事の内容や組織の体制を振り返ってみると、いつ爆発しても変でもなかったのですけど。諦めが早い性格が異変を生まないのかもしれません。私だから大丈夫だったわけで、ダメに成ってしまえる人が幸せなのか不幸せなのかはなんとも判断し難い。
そもそも、そういう社会が悪でありそういう組織が罪悪や泥沼の状態を生み出していたと私は考えつつ、ある意味で冷静であり、大きな意味で諦め放っていたのでした。
あのような国内最大の家電メーカ組織の中に技術者として放り込まれて、ヒトはどんどんと個人の特色性(個性)を失い(というか出せないまま持ち続けて)いましたので、それを見ているのも嫌であったし、自分がそれにまみれるのも嫌でしたから、数年後にチャンスを狙って抜け出したわけです。
「パーな」会社は、個を紡ぐのが下手な組織で構成されていたので、21世紀になって急激に崩壊の道を歩んでゆきます。宿命であったのでしょう。
◎
という訳で、考えてみれば、ニンゲンとして一番究極の圧迫に追いやられている時期でして、それがこの1998年とか1999年であったわけでした。
1998年、私は稲庭うどんを食べるために、あの広い東北を北上し(佐藤養助商店定休日とかち合って)、再び1999年に稲庭にやっていきます。そしてまた定休日でしたが、それから再訪はしていません。
今度行くならツマと行きたい。
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