よもやま話 (おぼえがき)
食卓のある部屋には私の横に腰掛けているツマと私の母がいて、黄金色に広がる麦畑を窓から眺めている。
梅雨になったのに一向に雨が降らない話をしている。そして、雨が降ってばかりでも困るという話になる。
麦の生産地としてこの辺りは優れていて良質の麦がたくさん収穫できるところだという。
しかも、その時代は養蚕も盛んに行われていたので、蚕さんの桑を摘んでやったり、麦刈りをしたり、刈ったらすぐに田植えが始まりと、6月は忙しい時期だった。
梅雨の季節は農業を生業とする人々が、1年で1番辛い季節だったのかもしれない、と思うと心も痛む。
梅雨の頃だからジメジメしているのだが、田んぼが待っているので早めに麦を刈り取り、庭に筵を広げて干したものだという。
だから、雨が続くと干す場所がなくなる。
家の中には、八畳が四間続くようなところがあっても、蚕さんが占めている。
麦を干す部屋などなかった。
そこで、雨が続いてしまうと湿った麦は腐り始めるのだ。
その昔に、2度ほど腐れせてしまった年があったそうだ。
作物が取れないということは生きてゆく手がかりを半ば失うことになる。
さぞや苦しい暮らしだったのだろう。
(わたしが)赤ん坊の頃の話を母がする。
つまり母が嫁に来て数年以内の頃の話を回想している。
こうして窓から麦を眺めていると綺麗だが、刈り取りのときは、はしかい。
はしかいとは、麦のようなチクチクするものが背中などに入り込んだ時の痒さをいう。
はしかい、に代わる言葉はない。
(母に)はしかい思い出が満ちてくる。
子ども(わたし)にお乳をあげねばならないのだが、汗をかいてその上に麦のイガイガをかぶっているから、首から胸にかけてなどとても痒かったという。
風呂に入りたくて仕方がなかった。
自分のためにも子どものためにも。
だが、Mっちゃん、Tちゃん(わたしの叔父)が2人もまだ同居している時代だった。
昭和33年とか34年の頃だ。
嫁に来た自分が先に入ることなどは絶対にない話であった。
Mっちゃん(上の叔父)は高校生で夜遅くまで勉強をしていたので、夜も更けて11時ころにならねば風呂に入らない日が多かったという。
作物が獲れない季節が続けば食うものにも事を欠くこともあって、学校に持っていくお弁当のおかずに困ったことがあったという。
そんなとき、お昼の弁当のおかずが気に入らなかったといって風呂の湯を抜いてしまうという意地悪を2度ほど受けたという。
そんな話をしているときに、その母の回想を聞きながら、ツマはそっと涙を拭いていた。
10人ほどが暮らしてる大家族で、子どもにお乳をやって、風呂に入って、嫁としての勤めを果たしてきた。
母は、そういう時代だったのだから、仕方がなかったのだとつぶやく。
もはやあの時代を許すとか許さないとかいう問題ではないほどまでに過去になってしまった。
仕方がなかったという理由で済まさざるをえないということが、歴史的な事実ではあるものの、よその家より不幸であったことは間違いない。
どこかに記録しておいても罰(ばち)が当たるわけでもなかろう。
そう思いながら私も話を記憶に留めてゆく。
数年経って後に(わたしの父の)2人の弟は進学や就職で家を出てゆく。
同時に姑、大姑が亡くなり、義妹が嫁いでゆく。
私には5つ上に姉があったが、1年足らずで亡くなった。
そして下に1人子どもがあったが生まれる前に亡くしたという。
さらに5歳離れた弟が生まれたころにお爺さん(わたしの祖父)も亡くなった。
2年ほどして東京オリンピックが開催される。(昭和39年)
お爺さん(わたしの祖父)は時代の先を読める人だったとは母はいう。
ある種の尊敬の念がこもっているような気がする。
生前に、これからはテレビの時代やと言って、貧しいながらも田舎には非常に珍しいテレビというものを買っていた。
私はオリンピックをテレビで見たらしい。
(都会ではそのテレビがカラーになってくる時代を迎えていた)
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