柱時計 ー 時間というもの
部屋の大きな時計が1時間遅れている。
まるで誰かが悪戯をしたようにきっちり1時間遅れて素知らぬふりをして動いている。
そこで、時間とは一体なんだろうと考えることになる。
私が子どものころは、今でいう居間にあたる部屋の柱にはいつも振り子が揺れている大きな時計があった。
その時計はネジ巻き式の時計で、父が毎日夕飯を食べ終わったころか朝ごはんを食べ終わったころにネジを巻いていた。
おそらく1日1回程度、ネジを巻いたのだろうと思う。踏み台にのぼって巻くので、子どもの私には手の届かないものだった。
そう。あのころには、手の届かないものがたくさんあって、子どもはそれをいつか大人になったら…と思い見つめていたのだ。時計もそのひとつだったのだろう。
時計は、小学生のころに乾電池式になった。けれども、時計には振り子があった。
そういえば、母は腕時計というものをしないので、オモテの庭や畑に出かけていったときでも、正確な時刻を知りながら仕事をしているわけではないのだということを、時間というもの考えたときにふと気付いた。
時刻を知るということは、一体どこまで必要なことなのだろうか。
人間は、太陽が昇って明るくなったら動き出し、暗くなったら家のなかに戻ってくる。電気がなければ、ささやかな蝋燭などの明かりで必要なことをこなし、あとは眠る。
技術の進化でというか、文明の進化で暮らしが便利になるのは良いことであるものの、そのシーズにより時計のネジを電池に変化させていったわけだが、ネジはいつまでも巻き続けていたほうが人類のためになったのではないか、と思うことがある。
今はほとんどすべてのものが時計の刻む時間の上で動いている。
そのおかげでテレビが録画できる。やがて、遠方から電話をかけてビデオに喋りかけてやれば、ビデオ機器がその言葉を理解して自動で録画をする時代が来るのだろう。
昔、学生時代に思い描いた人工知能というものは、イメージ通りではないものの、今の世の中に広がりつつある。
だが、そういうものに支配されるのがどうしても嫌で、人間が考えだしたマネー社会が好きになれず、海へ山へと移動する人が少なからずいることに、安心感を持つ一方で、そういう人たちにとっては生き抜きにくい社会なのだとも思う。
普段からテレビは見いないし、ひと月の半分は時間などどうでもいい暮らしをしているので、私も母のように時計は持ち歩いていないし、部屋の時計が1時間狂っていても困ることはない。
狂った時刻の時計は、誰も直そうとせず動き続けている。
それでいいのだ。
バカボンのパパもそう言ってくれるような気がする。
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