花の雨お百度石をよごしけり 飴山實
花の雨お百度石をよごしけり 飴山實
井伏鱒二が「サヨナラだけの人生」を花にたむけて詠んだ句も春を味わうにふさわしい句であるが、飴山實のこの句も真似のできない視線があります。
お百度を踏むというときというのは、どんな問題にせよ、様々な対策が講じられ細かいところまで考えに考えつくされた後に、頼るところはここしかないという気持ちで決心するものではなかろうか、と推察すると、そのお百度石に花びらが舞い落ちることも、さらに非情の雨が降り注ぐことも、何とも言い難く辛いものであったことだろうと思う。
しかし、十七音でさらりと切り捨ててしまった句をよく読むと、こちらの気持ちはもしかして考え過ぎの域にあって、花が散ってもはや新しいステップを踏み出している姿を描かねばならなかったのだろうか、とも思えてくる。
はてさて、もう少し考えてみることにする。
(書き掛け)
« 待ち遠しいものいくつもありまして 雨水篇 | トップページ | 手がかり - 死んでゆく覚悟 »
「【随想帖 一、】」カテゴリの記事
- おかえり(2013.06.02)
- 本気でもないのに ー 恋(2013.06.02)
- 柱時計 ー 時間というもの(2013.04.07)
- いさぎよく(2013.03.31)
- 官女ひとり帰らぬままに雛しまふ 砂女(2013.03.18)
コメント