似るということ
親子は、何処まで似るものだろうか。
私が自分の生きて来た証や考えや後悔をこうして書こうと思った発端は、そこにメディアがあり自由に書けたことの他に、涌き上がってくる思いをどこかにぶつけたくてもぶつけるだけのパワーが私になかったこと、チャンスがなかったこと、そういう立場もなく、利用するものもなかったこと、そして私にそれなりの才能や資質がなく、私が目指したものを満足するには私自身が無力であったことが大きな要因であった。
この遺す言葉を書きながらも、これ自体の所在が誰にも伝わらなければすべてが無力で無駄なのだが、しかしながら、それならばそれでよかろうとも考えている。整理することと拾いだすことに意味があって、自分自身を見つめ続ける日が過ぎている。
かつて、私は何かに縋った。それは電子のメデイアのツールやネットであり、自分の足跡を勝手に残せるのだからそれはとても有効に思えた。(実際には儚いものでもあるのだが)
では、非常に良く似た性格を持っていた父は、このような心境に陥ったときにどのように考えたのだろうと想像してしまう。最初に書いたように、私たちは同じ考え、思考回路、性格を持っていた。だから、今、私が考えたことと同じことを父も60歳を迎えるころに必ず考えたに違いない。その推測は絶対に間違いではない。
では、あの人は何をどういう形で実現することで、ひとつの夢の形を遺そうとしたのだろうか。
そのことについて少し考えてみたい。
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