父の帽子のこと、母のこと
父の若きころを思い出そうとすれば帽子を被っていた姿が印象的である。家族で外出をしたときに鳥打帽を被って私を抱き上げている写真が残っていた。うしろに大きな鳥居が写っていたので参宮にでも出かけたときのものだろう。
鳥打ち帽などという呼び名を今では使わなくなったな、と懐かしく思う。その帽子を被ったまま私を肩車してくれている。そうだ、あのころの子どもは、誰でもがお父さんに肩車をしてもらったものだ。肩の上はとても高くて見晴らしが良かったなあ、と今になって思う。
そういう写真の記録を、私はあまり大切にしなかったことをとても反省している。今さらジタバタと探しても仕方のないことだが、写真は当然のことながら白黒で、昭和三十年代始まりのころの人々の姿や装いも記録されたわけで、とても貴重だったのに粗末にしてしまった。
厚くて重そうな外套ふうの上着を父は纏い、母は和装で、着物に何かを羽織っていた。鳥居の近くで人の行き来の様子が写っていたので、正月だったに違いない。今であれば東京に出掛けて行くくらいの感覚なのだろうか。
そういう意味で、伊勢は遠かったのではないだろうか。子どもの頃、伊勢でなくとも、もう少し近くの街に家族で汽車に乗って出かけた記憶がある。蒸気機関車はわりと遅くまで走っていて、大人になるまでにも何度か行った伊勢市の駅などで見かけた。伊勢市駅には大きな機関区があって、遠くまで走ってゆく長い長い客車を引いた2連の蒸気が濛々と煙を吐いていたのも覚えている。我が家の裏の線路を走る蒸気よりもっと勇壮だった。
そうそう、蒸気機関車といえば、トンネルに入ると必ず煙に巻かれて、煤が眼に入ったものだった。痛がる私の目玉を母は、いつも、ペロリと舌で舐めて取ってくれたことを思い出す。
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