拝むということ
人が拝むというおこないをするとき、そこには祈りがあるのだろう。しかし、それだけではなく、父は反省をするという意味合いのことをときどき話した。
地球という環境の中の大自然にポタリと落とされたニンゲンという生き物が、苦難を乗り越えて生き抜くためには、神や仏を拝むという信仰が必要だった。これは、動物にはないことだろうが、決して高等な知能を持った動物だけに与えられた能力でもなさそうだ。
父がいう反省とは、世話になった人や物に対する感謝や身の回りで私たちを一丁前にしてくれる人々への尊敬であり畏敬のことを言いたかったのだろう。
世の中は自分だけで生きているわけではなく、これからも生きてゆけるわけがない。勝手なことや我儘なことを慎み、人に嫌われることのないようにし、友だちを多く持ち、礼節をわきまえ、義理を欠くことのないような人であるべきだと・・・・口に出していったのを聞いたことはなかったが、言いたかったのではなかろうか。
一方で母は、子どものころから子どもたちに口やかましく叱ったり注意をした。その折にあれこれいけないこと口酸っぱく話したし、友だちがたくさんいることは大事だ、義理を果たして礼節のしっかりした人でなくてはならない……というようなことをよく言った。
あれは父の代わりに自然に小言となって出たものであったのだろうか。父は黙って神仏に手を合わせているその後ろ姿だけを私たちに見せ続けただけだった。
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