忘れがたき小さき人風花に消ゆ 8月下旬篇
子どものころ夏はひまわりと決まっていた。
そんな夏が終わってゆくのか。
8月も下旬に差し掛かった。
8月16日(木)
▼忘れがたき小さき人風花に消ゆ
そんなメモがカバンから出てきた。
静かな朝の通勤列車のひととき。
8月17日(金)
砂女さんとこの猫が逝った。ブログを読んで悲しくなる。
ご主人に先立たれて4度目の夏を迎えているという日記を読んだ後だったこともあるだろうか。
内田百閒が「ノラ」を呼び続けたときのように悲しさが伝わる。
ちょうど、井上靖の「孔子」を手にして(読んで)いた朝だった。
子在川上曰
逝者如斯夫
不舎晝夜
偶然、座右の孔子を読むときにこの言葉に出会う。
弟子の顔回の死を目の当たりにしたころのことだ。
歳月人を待つことも無く、哀れも容赦も無く、ゆく。
▼汗拭いて涙も拭いて別れゆく
砂女さんにコメントを書きたくても、なかなか纏まらずに書けない。
--
逝っちゃった後のブログを読んで、
誰がかわいそうとかそういうのは言うまでもなく、
何やら寂しく。
昼休みに泣けてきて、
クーラーきいているデスクで
顔中の汗をタオルで拭いて目もこする。
18日の昼休みには、こんなことを書いている。
▼腕時計机に置いたキミの背中
8月18日(土)
蒸し暑い朝が続く。
朝の5時ころでも部屋の温度が30℃を切らない・・・・
今朝は薄曇りで明けの明星は見えない。
いつの間にかセミも鳴かないなあ。
8月19日(日)
▼なすび食う親の小言が蘇る
▼ほとばしる貴方の汗を指でふく
▼大潮を拝んでみても夏はゆく
8月21日(火)
お臍の下10センチのところを軽く押さえると痛い。
8月22日(水)
石の影ナシ 単なる腸炎のようなもの。
下痢にならないのは珍しいらしい。
8月23日(木)
この日から25日まで、夏の終わりの旅に出る。
薬のおかげで、元通りの様態へ。
あとがき
思っていたことのほんの一握りし書けないし残せない。
人が、あるいは猫が逝った後の思いは、
何が悲しいかって、
あらゆるものすべたがやがて忘れ去られていってしまうことなのだ。
そして人は生きている間、ずっとその悔しさとともに生きてゆく。
このかたの日々の姿に
ひそやかに、
この年齢になって生きてゆく手ほどきのようなものを感じている。
心に住まわせる鬼を失い、辛くで小言をいう師匠もいなくなってしまったら
いよいよ、ヒトは厚かましくなってくる。
優しい鬼がいいな、と思う。
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