「怒らない」 「泣かない」 「笑わない」
人は暮らしに慣れてくるとそのままの状態で居続けたいと思う。幸せであればそれを崩したくないし、豊かであればそれを失いたくない。どん底の暮らしに落ち着いてから這い上がろうとしないのは私の持って生まれた性分なのであろうか。
もともと欲の深くない人間だったのだろうか。まさかそんなことはあるまい、と自答しながらも、自問は続けない。
父は多くを語らない人であったが、何も考えていないというわけではなかった。人生哲学のようなものは持っていてときどきそのことを話すことはあった。しかし、酒を飲んだりテレビを見たりしているときには、人間味の出ることとは無縁だった。
「怒らない」「泣かない」「笑わない」というような人だった。
子どもにもきつくは叱ったことがなく、大きな声も出さなかった。他人の不正な行為にも腹を立てて怒りを発散させることもなく、静かに非難するくらいだった。テレビを見ても、というか滅多にテレビを見ることなどなく、その姿など記憶にないのだが、オモシロ番組を見ても軽くにこっと笑うだけで、知らない間に席を立っていなくなっていた。
引き出しの中には手紙が入っていることは知っていたのだが、今更何を読むものでもなくと思い開けることもなく入れたままになっていた。それこそ何の理由もなく手紙が読みたくなって引き出しを開けてみた。三十四、五年前のものだ。
もっとたくさん入っていると思っていたのだが、束のほとんどが母と弟からのものだった。5歳年下の弟は私が大学生になったときは高校生で、兄にたくさん仕送りをしていることを理由に進学は断念させられ就職するということになるのだが、そのころに私に宛てて書いた手紙が多かった。
三人ともこれといって変わったことを書いているわけではなく、日記のようなものかもしれないが、いつも必ず、健康に気をつけしっかり勉強するようにと書きしたためている。学費を送ったとか、柿がとれたので送るというようなものもあった。
父の手紙は多くはなく、その一通をたまたま取って読んでみると「学費を振り込んだので、しっかり勉強しなさい」と書いてある。
いつも、必ず鉛筆書きで、旧仮名づかいである。
「しょっちゅう手紙を書くと勉強の気が散るので手紙はあまり書かないことにする。健康に気をつけて」と書いて終わっているものがあり、それが最後の手紙だったのかもしれない。
あのころは、街角で電話を掛ける用ができても電話がなければ、通りがかりの店などに飛び込み電話を借りて10円を置いてくるということも多く、公衆電話のような気が利いたものがあるなら、店先に赤電話があっただけの時代だ。
私に手紙を書いてくれた父は、笑いもせず怒りもせず、泣きもせずに日々を送り、手紙を書く夜は、さぞや長かったのではなかろうか。
逝ってからひと昔以上が過ぎて、細かいところでは似ていないように見えるものの、実は非常にそっくりなところが多かったことに気づいている。
「泣かない」という人柄であるが、泣き虫を自称している私である。父も本当は泣き虫であったに違いないという推測を立てている。結婚したころから毎日丁寧に寝床で書いてきた日記は、たぶん母の手によってある時期に灰となって処分されたのだろうが、あの日記には私に手紙を書いた晩のことが書きとめてあって、「泣きながら」書いたのではなかろうかという光景が浮かぶのだ。
私にだけ、それがわかる。
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