ウドを食う
うど
近年、これほどまでに美味いうどを食ったことはない。
人の心が寂れてゆくほどに、美味さが増す。
(作られたモノが出回っているという嘆きもある)
これを食わねば夏は迎えられない。
子どものころに父がウドを美味そうに食べているのを見て
こんなもののどこがいったい美味いのか、と思ったのを回想している。
父は無口で、
こんな美味いものがワカランか
と言っただけだった。
今の私ならば
これは大人の味なのだ、とか
人の作り上げた豊かさの中で味を知ることをできなくなった奴らが美味いといって食っている味には虚像の自己満足が多いだろう、オマエにウドの味がわかってたまるか、
と、さらにはもっともっと長たらしく講釈を言うところだが、父は無口だった。
無口な人ではないだけに、その無口に意味があった。
父は酒を飲まない人だったので、ウドをつまみながらも、炊き立てのご飯を食べたのだろう。あの人がカラダで感じた味を、私はどこまで感じられるのだろうか。
味は千年も二千年も遥まで変わることはない。
ヒトが文化を枯れさせて滅びることの発端には、こういうものを見逃してしまうことを許す豊かさではないか。
それは幻の文明であり幻の進化だ。
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