大人になったらオヤジと飲みたい
遺す言葉-2 を書いてから6ヶ月ちかくが過ぎる。その間にも時々刻々と時間は過ぎる。
いくつものメモがあって、いくつもの没メモがある。
自問を続けながら、私が残せるものは、未来を見つめる視線ではないか、と思ってみたりしている。ヒトは必ず果てる。意思を受け継がせてこそ未来が開ける。
物質的、経済的視点での判断で今を乗り切る力こそがパワーだというような風潮が広まって、人々はいわゆる賢くなって強くなっているのだが、思想哲学のようなものが疎かだ。宗教も軽く見られがちであり、思想とは歪んだものを生む恐れがあるという錯覚めいたことを考える人もいる。現代で最も欠落しているのは、そういう間違った理屈を打破できる強い哲学がないことかもしれない。
メモに
◆大人になったらオヤジと飲みたい
と書いたことがある。私もその一人であったかもしれないが、そういう人々が多かったのではないか、という回想である。
私が高校から大学生活を過ごしたころ、その年代の子たちは割合とそういう夢を抱いていたかもしれない。昭和30年代生まれの連中で、現在は50歳から60歳くらいになっている人たちだ。
まだ、日本には貧乏が残っていたと思う。つまり、精神がまだ金持ちや安定生活層に達していない親たちが、戦後の苦しみを引きずりながらいつかは楽になりお金も物資も不自由なく使いたいと夢を見た。そしてそれを少しずつ実現する人が現われ始め、会社も急成長の兆しを見せ、農家の若者は都会にサラリーマンとして働き出て暮らし始める。
冷蔵庫やテレビが一家にそろい始め、テレビにはやがて色がつき始める。そんな中で育った子どもたちは親の背中を見て育ち、親の苦労を肌で感じながら進学の道を選択したり、人によっては事情で断念し、社会人になってゆく。おおらかで自由で少し金持ちになったようなゆとりの文化が学生たちの間にも先駆けて広がり、同時に経済は急成長の時代を迎えて、給料は5倍10倍と通貨単位が変わったかのごとく増えてゆく。
親父(オヤジ)には苦労をかけた、世話になったから、いつか一緒にゆっくりと酒でも飲みたいと思ったのはそういう背景があるのではないか。
1990年代から2000年代へと、予想外の急降下で父とはろくに話もする暇もなく、自分は子育てに追われ気がついたら50歳はとっくに終わっていた。
親父は死んでしまって、話せるところにはいなかった。
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