読書系 遠藤周作セレクション
イエスの生涯
おバカさん
さらば、夏の光よ
ピエロの歌
マリー
ユーモア小説集
わたしが・棄てた・女
遠藤周作について
何故・遠藤か
何故遠藤周作なのか
海と毒薬
海と毒薬2
楽天大将
金と銀
口笛をふく時
女の一生1部キクの場合
女の一生2部サチ子の場合
深い河
深い河2
聖書のなかの女性たち
青い小さな葡萄
灯のうるむ頃
白い人黄色い人
母なるもの
青い小さな葡萄
遠藤 周作
講談社
◇
コーヒーの宣伝に出ていたころだろうか。私が読んだ文庫は昭和54年の6月に7版として出版されたものだ。1版は昭和48年8月。
ブックカバーもあの頃(30年ほど昔)を思い出させてくれる、イカス雰囲気のものだ。
永年、私の本棚で眠っていたのを、私が再読するために引っ張り出してきた。所々に沁みができ日焼けして可哀相な姿だが、そこには遠藤周作が30歳の ままで生きていたのだ。
若い文章がとても新鮮味を出しているし、まだ、あの頃は「原民喜」や「椎名麟三」を熱く論じていた遠藤さんだっただろうからこそ、こんな作品が書け た。
読み始めると、戦前の外套のようなコートにくるまれた遠藤周作が、文学の語っているような筆致で物語が進む。
戦争が終わって10年も経たない世界の(日本の)姿など知らない人が読むのだけれど、遠藤さんの頭のなかには、戦争がもたらした深い傷と、切り口が 見えないような自分の心のなかにある傷を、どうやって文学作品として読者に投げかけるか、という大きな命題がある。それは、苦悩であり、着々と遠藤の文学 が出来上がってゆく喜びでもあっただろう。
そんなことを思いながら一文一文を追いかけてゆくと、晩年には見られないほどの素晴らしい美的な文章が埋もれていることに気付く。
宝石のような作品だ、と思う。
| 2008-03-07 17:40 | 読書系セレクション |
昨日、「白い人・黄色い人」を走り書きしてアップしたあとに自室の書棚で遠藤さんの本と私は向き合った。
白い人の文庫を取り出してみると、それはページの周辺が無残にも茶色く変色していた。裏表紙に「50」と鉛筆書きがしてある。まぎれもなく古本屋で 買った証拠だった。おそらく買った当初は変色しておらず、私の本棚で色があせてしまったのだろう。
ホームセンターで売っているスチールの5段済みの棚に、奥行き方向に3列、上に2段重ねにしている本棚。それを部屋の中に櫛型(図書館のように人の 隙間を開けて並べている様子を想像してください)に並べているので、奥の方なら日焼けしないはずなんだけどな。
予定外に、「青い小さな葡萄」が目に付いたので手に取ってみた。
作家は作品を重ねて大物になってゆくのは事実だ。司馬さんだって宮本輝さんだってそうだ。そう!村上龍もそうでね。
遠藤周作を知るためには、深い河ではなく、この時代を読まねばならない。そう確信しますね、この作品で。(はっきり言って、そんなに面白くないっ
す)
| 2005-05-25 22:26 | 読書系セレクション |
あなたの心の中にいる神に恥ずかしいと思わないならば、すなわちあなたの心がまことなのだ。自信を持って生きなさい。そう語りかけているような気がしま す。
信仰とはなんですか。
敬虔な心で善にあるいは悪に直面したときに、アナタはどんな行動をしますか。
長い年月をかけてそういうところに達してゆくわけですが、その過程には遠藤さん自身の加齢も影響してると思います。後半にユーモア小説系の作品が少なかっ
たのは、人気のせいで忙しかったこともあるものの、じっくりとこの「深い河」を導き出すための心の準備をしていたのかもしれない。
深い河。遠藤さんは、この「深い」という途轍もなく重い形容詞を、最後の物語に使ったのは、決して偶然でないのでしょう。そんな気がしますけど。ど うなんでしょうか、遠藤さん。
先にもあげた「ユーモア小説集」(1~3集)を読まずして遠藤を知ったと言うなかれ。
「わたしが・棄てた・女」の読感をいっぱしに書かずして遠藤を語るなかれ。
そう遠藤ふうの口調で言い続けている私ですが、遠藤さんは、ひとりの人間がどんな生き方をして、何を考えて、何で悩んでいるのかを上手に飾り付け て、私たちの人生に重なり合わせて、これでもかというほどの作品をぶつけてくれました。重い作品やユーモアなものを交えて。。。
すべての作品について感想を書く機会があったら書いてみたいですが、いったんはこの辺で終わって、他の人も振り返ってみようかな、と思っています。
そうそう、「棄てる」という言葉は、「紙くずを籠に棄てる」というように使うんです。「捨てる」とは違って「棄てる」と書いたその深い意味をどれだ
けの人が知ってるのでしょうか。最近のメッセージを書きながら、どうしても絞りきれないオススメ本・二冊には、「わたしが・棄てた・女」と「深い河」がい
いかな、と思い始めたのでした、私。
| 2005-06-06 20:00 | 読書系セレクション |
「深い河」を再読し始めて、何日も過ぎます。通勤の車の信号待ちや居間での短いくつろぎ(あるいはトイレだったり・・・)に少しずつ読んでます。
「わたくし・・・・必ず・・・・生まれかわるから、この世界の何処かに。探して・・・・わたくしを見つけて・・・・約束よ、約束よ」
そんな台詞を盛り込む一方で、
「人生は自分の意思ではなく、眼にはみえぬ何かの力で動かされているような気さえする」
などと書いている。
このような方法は宮本輝の小説でも盛んに見られまして、ひとつの人生哲理を代弁してもらっているような共感とその快感を私たちは味わえますね。
ここでも居ました。
・「ガストン」というドン臭い外人さん。
・要領よく生きてゆくことのできない弱い人
・知的で且つ現代的で、冷たそうな面と深い人間味を備えたスゴイ美人そうな女性(私が男だからそう思うのかな)
・哀しい眼差しの犬
そういう人たちが、いかにもありそうなドラマの中で絡み合って、私たち読者の性善説なる心を刺激しますね。
生きてるころの遠藤さんの話し振りをよく知っているだけに、台詞のひとつひとつが真顔の遠藤から発せらているように思えて(ジョークも同様です が・・・)なりません。
「テレーズ・デスケルウ」への強い思い、その後、「イエスの生涯」「海と毒薬」「沈黙」を経て、さらにユーモア小説集や中間小説で構想を磨き上げ、
遠藤さんは「深い河」へと辿り着いたのでしょう。若いころの遠藤から加齢とともに確実に成長してきたあとのひとつの提示であるような気がします。遠藤が普
段から冗談のように茶化して語っていたその本意も含めてすべてが盛り込まれているような気がします。
(まだ300ページあたりなんですけど、ね)
| 2005-07-03 12:52 | 読書系セレクション |
深い河2005年07月05日 のメモから
今、遠藤周作の深い河を読み終えたところです。9年前に読んだときとはまったく違う気持ちで読みました。私も遠藤の年齢に近づいてから読んだという ことで、感じるモノも随分と変わってきました。
終わり間際での美津子のセリフ。
「本当に馬鹿よ。あんな玉ねぎのために一生を棒にふって。あなたが玉ねぎの真似をしたからって、この憎しみとエゴイズムしかない世のなかが変わる筈 はないじゃないの。あなたはあっちこっちで追い出され、揚句の果て、首を折って、死人の担架で運ばれて。あなたは結局は無力だったじゃないの」
私はこの無力という言葉に果てしないチカラを感じるのですが。
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※深い河、で検索してもらうと関連が幾つかあります。
| 2008-05-14 17:41 | 読書系セレクション |
女の一生のレビューを書きました。
この本は先日、ドボドボと血が出ているにもかかわらず、絶対に時間を作ってでも読もうと思って病院に持ち込んだものです。
病院の食事の前後に、手を合わせてお祈りをしてしまうようになったのは、本当です。
━ ・ ━ ・ ━ ・ ━ ・ ━ ・ ━ ・ ━ ・ ━
この小説は朝日新聞に連載されていたもので、毎日切り抜きながら読んだことを強く記憶している。連載を読みながら大事なことに気づかずに読んでいた ことを、今回、25年ぶりに読み起こして知った。
女の生きかた、いやそれは遠藤周作のひとつの理念として確たる形を持っている女の人生というべきもので、同時に男の人生でもあるのだが、初読のころ の私は学生だったということもあり、今、私の人生に数々の襞ができたことも大いなる理由となり、「女の一生」という物語が私に再発見という形で投げかけた ものは大きかった。
遠藤周作は若いころから、形を変えて人生というモノについて書いている。それはありふれた題名のものであっても、中味が濃く、予想以上に深い思いや 願いが込められてきた。あるときは神聖なものとして、またあるときはユーモアを交えて、遠藤氏の分身が物語に登場する色合いが格別に面白く人気の秘密でも あるのでしょう。そんな小説に加えて、海と毒薬、イエスの生涯、母なるもの、沈黙などという作品に出会った学生時代、私は遠藤を知ったかぶりしていたのだ ろうか。
15年以上も遠藤周作から遠ざかり、その間に彼自身が亡くなってしまっている。最後の作品と言われる深い河に触れた去年、私自身は30年前へとタイ ムスリップした。そこで遠藤さんと再会し、文学者としての遠藤周作の姿を別の角度から見ることができる。何というか、奥までやっと見通せ始めたような気が したのです。
「女の一生」は、新聞小説というメディアが今以上に末層の人々の心を捉え、活字が日常に与える憩いのようなものの活発な時代の作品で、彼のファンた ちはこの作品を上位にランキングすることも多い。
ミツとキク。
彼は、女を書くと天才的な筆致を見せてくれる。それが代表的な彼の作風であり、陋劣でうだつのあがらない男、他人の悲しみをごく自然に自分の気持ち
に重ね合わせることのできる女がいる。
しかもその清らかな女に深い悲しみが襲い掛かるという展開。強い男、弱い女、そして弱い男。
こういうのをドラマチックというのだろう。
ここまで書いてはたと困ってしまう。
キクのような女は、どう表現すればいいのだろうか。
この作品を読んで、私は、私が歩んできた人生や喜怒哀楽、数々の軋轢、失意などを瞬時のうちに思い起こし、同時に私なりのキクを増殖させて「美し
く」「母なるもの」としてキクをイメージしている。
人には人の生きかたがある。捉え方は千差万別だろうけど。
またしても、湧き上がってくる疑問。
何故、遠藤周作なのか。
解決しようとしても、お茶目にジョークを飛ばしている彼の姿しか思い浮かばないから、もしかしたら、
「バカだなあ、そんなこと考えてるのがバカなんだよ、キミらは。もっと僕の小説を読みなさい」
と真顔で話す遠藤の姿は実の記憶なんだろうか。
| 2006-03-15 13:08 | 読書系セレクション |
実は、出血している箇所以外は元気なので、一生懸命読書に励んで、オイオイと泣きじゃくっていたのですが、看護師さんがカーテンをバサッと開けたときは、 恥ずかしかったなあ。
一部と二部は、続けて読みましたが、あっという間の入院生活でした。
看護師さまが天使様に見えるし…。
去年、長崎に行ったときにこの本の事をすっかり忘れていたことが、悔しいな。
長崎。行きたい。
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1部と比較すると遠藤周作自身のイメージ像に重なり合う場面や人物が多くなる。
戦中から戦後に掛けてを背景として、彼が人を描くドラマはそういう点でも生き生きしていて面白い。
すでに評されているようにように、重苦しく書く必要は何もない。純文学というものが胸を張らなくても (張っても大いに結構ですが)
遠藤氏は十分に数々の作品を通じて命題を解決しようとしてきているのだから。
あたかも自伝的小説の如く、力強くあり、また悩ましくもある作品としたことで、1部とはまったく違った色合いが出せたのではないでしょうか。そこ に、長い間、閉ざされていた遠藤作品が再着火し、そいつがペーソスが少し入り混じったものだだけに、1部と同様に目頭を拭うタオルは欠かせないものの、少 し余裕も持って読むことができる。
遠藤氏の身体のなかを脈々と流れるひとつのテーマは、数々の作品を通じて姿を変えて感動を呼ぶ。遠藤氏は決して美文を書く人ではないのに、多くの ファンが美しいと褒め称える原因は、物語が刻む心のクロックのようなものをわきまえていて、感動する瞬間を上手に載せてくるところにある。読み手を催眠術 に掛けてしまったように、うっとりとさせてしまう術があるのでしょう。
強く、かみ殺すように悔しく哀しい物語でありながら、悲壮感を照れで誤魔かしたようなところが、彼らしいと言えるし、何年にも渡って嫌味もなく人気 作家であり続け、なおかつ文学者だったひとつの理由だろうか。
戦中を背景とした作品を書かせて、これほどまでに、明るくもあり暗くもある作品を書ける人は、遠藤周作をおいて他に誰一人としていない。
(ですよね?)
| 2006-03-15 16:42 | 読書系セレクション |
結末の明確なこの人のドラマを、いったいどのように書こうというのだろう。手にしたときは、そんな疑いのような気持ちでいっぱいだった。読み終われ ないかもしれない。
遠藤さんがこの作品を雑誌に連載していたときに断片的ではあるが読んでいたこととその連載の挿絵がかすかに記憶としてあるだけで、他には、何ひとつ 映画もドラマも演劇も本も知らないままで読み始めた。
まず最初にどうしても書かねばならないことは、マリー・アントワネットという女性が、想像以上に魅力的だったことだ。というか、遠藤さんは、そうい う女として彼女を書きたかったのだろうと、切々と感じた。
史実を冷めた目で眺めては作品の良さが見えず、それではもったいない。文学として物語りを心躍らせて愉しませていただくのが一番よろしいようです。
劇的な悲哀を描くわけでもなく(いや、劇的でしょう、と反論されたらそれも否定できないけど)、淡々と死刑という歴史が残している結末へと進んでゆ
く。
(中弛みや、話の濃淡が出来るのは仕方が無いことだし、それを乗り越えて遠藤周作の媚薬のような ─ 人物ご自身からは想像も出来ないほどの ─ ロマン
チズムととろけるような気障な文章が、くすぐったいのですが、麻薬のように本を手放せなくしてくれる。)
遠藤周作は、数々の作品の中で数々の女性を書いてきました。それは大抵が弱者で、幸運という偶然で左右することの出来ない運命を背負った女性で、し かも、その人の不幸を容赦なく不幸として冷たく書き、助けようとはしなかった。
もちろん、それは助けてはいけない掟があるからだが、周作さんのペンは精一杯暖かい手を差しのべているのが、手にとるようにわかるのが伝わってきて 私の心を揺るがす。
「人間にはそれぞれの役目というのがありますね」
ポリニャック夫人は首をふった。
「その役を負わされている方が心のなかでどんなに孤独かはだれにもわからないでしょう。でも、その孤独に耐えて、その役を勤めおおせることが高貴な方の生
涯だと」(一部略) 上巻304ページ
こういう箇所などは、周作さんの頭の中からひとときたりとも離れることのなかったことなんでしょう。
ひとりの女性を、それは美人でなければ、フランス革命という時代に生まれなければ、何の変哲もないただの王妃だったかもしれないのに、こうしてひと つのロマンのあふれた物語の主人公にしてしまった遠藤さんの凄さは、彼のジョークなトークからは想像も出来ないマジメな人柄そのものであり、彼がずっと心 の中に抱き続けているひとつの疑問なわけです。
彼は、物語の中に「孤独」で「高貴」な女性、マリー・アントワネットを書きながら、彼女のことを彼が自作でこれまでに登壇させた「聖女」たちと同じ
ように思っていたのではないだろうか。
もしも遠藤さんにそう尋ねたら「そんなこと、質問することじゃないだろう」と叱られるかもしれないが。
作成日時 2007年07月07日 09:14
| 2007-07-07 21:15 | 読書系セレクション |
学生時代に医用電子工学講座というところでお世話になっていたので、動物実験が度々ありました。Kさん(M2)は人口膵臓の研究者で、糖尿病の犬を飼って 時々散歩をさせたりしていました。犬は人懐っこく、学内を何度か散歩に連れて回ると飼い主を覚えているのが分かりました。動物実験では、この糖尿病犬を 使ってインシュリン投与の制御実験をします。別のグループにいた私には、詳しいことはわかりませんでしたが、犬はその日のうちに実験の最中に死んでしまう のをいつも見て知っていました。大の字に固定され、幾本ものチューブや計測器に繋がれていた犬の姿を思い出します。そういう実験を年に何度もやりました。
私の場合は犬ですが、まあ、それでも可哀想な話なんですが、人間を実験に使う「罪悪」というものを問い、それに苛まれ続ける医学生たちの良心、倫理 観。さらにはそこに「時代」がどっぷりと重くのしかかる。
海と毒薬は、犬ではなく、人間で実験をおこなうという実話を参考にした話です。主人公の勝呂という医学生は、戦争中の米国人捕虜を使った人体実験に 参加せざるをえなくなります。戦争という時代背景が何というか、私には悔しかったなあ。
すべての人間が貧しく、必死で生きようとしている。一寸先は闇で、幸せなどまったく予期できない世の中で、自分はどうして生きながらえてゆけばいい のか。人を踏み潰して生きて行くのが正しい道か。
戦争を自分の目で見て大きくなった人々の書く文学の火を絶やしてはいけないと思いますね。遠藤さんと同年代の皆さんが次々と逝ってしまえば、それで この時代の文学は終わりで、次にやってきた新しい現代の小説が売れていればいいというものでもないでしょう。
遠藤さんの5冊を挙げれば必ず選ばれる1冊ですね。いかがですか。
| 2005-05-27 18:43 | 読書系セレクション |
今は亡くなってしまったけど、私が学生時代の遠藤さんはベストセラー作家でした。キリスト教作家として、重い文学作品を投げてくる傍ら、「ほら吹き 遠藤」としても有名で、ユーモアのある人気作家でした。
戦争を生きた作家たち。彼の友人・仲間たちがそれぞれの持ち味で戦争のなかをどのように生きてきたのかを書いています。例えば、阿川弘之さんの数々 の作品がそうです。
遠藤さんは戦争に行かなかった人ですが、戦争の真っ只中を生き抜いてきた人でした。まさに生き抜くという言葉が相応しく、神様から戴いた命を大事に しながら戦後の人々の心を潤す文学作品として数多く書いている。
小説の中では彼は言葉を使って物事の考え方などを説き伏せようとしてこない。作品のなかに、読者にゆっくりと考えさせて提起するだけです。
この物語で事件を扱って以来、多くのフィクション、ノンフィクションの作家たちが、事実を追い続けることになりました。
私たちの暮らしのありふれた一場面の、その延長上に遠藤さんの書く小説の舞台があります。
あのとき、偶然、あの曲がり角を曲がっていたら、同じ悲劇を自分も味わうことになっていたのかもしれない…というような感じで哀しみや歓びを共感させてし
まう。そういうところが遠藤さんのさり気ない凄さですかね。
時代は刻々と過ぎているのですが、この作品も学生時代に読破しておくべき1冊ですね。やはり、時代背景を十分に学んでから読み始めて欲しいです。
(…と言うことで、阿川弘之とセットで、どうぞ)
| 2006-07-15 16:00 | 読書系セレクション |
私はこのテーマをひと月余前に挙げてから、再び遠藤の作品を手にとるようになりました。そして、あるところで著作紹介として書き始めたものを、このブログ のなかの「読書系セレクション」カテゴリーに転載しています。(全部を引用するわけにはいかないのでお許しください)
没後、彼の作品から遠ざかっていましたが、逆に没後から彼を読み始めた人もあると思います。そういう様々なファンをごちゃ混ぜにできるこういうコ ミュはある意味で面白い。
さて、
遠藤は晩年、芥川賞の選考委員をしていましたが、そのあとに宮本輝が同様に選考委員になっているのは偶然でしょうかね。
二人の文体は決して似ているとは思えませんが、読み手の頭のなかに映像の動きを連想させるよりも、心の動きを想像させるような部分が多いように感じ ます。そんな側面があると思います。簡単な文章です。中学程度の国語で十分に理解できるような文章により、複雑に絡み合う心をさり気なく綴り出し、作者の 生きる哲学のようなモノを所々に散りばめてゆく。
彼ら二人はこのような書き方を何の意識もなくするのですが、それが大きな魅力です。遠藤に至っては、元気な折にTV出演も時々こなしまして、カメラ の前で話をしている雰囲気とは別人を想像させるようなタッチで小説やエッセイを書き上げてゆきました。
小説自体が、虚空を彷徨う儚いものであるなればこそ、彼らが求めている世界にはある種の強い提示が潜んでいて、それが私の読書に向けた波長に頗る同 期していることで、この波長を通して二人が似ていると感じるのではないかと私は思います。
みなさんの感想を読みながら、これが私のなかにある感想と相まって、遠藤の魅力を増殖させます。
昨日「深い河」の文庫を書棚から手元に取って来ました。激しく日焼けしてしまっています。驚くことに'96.6.23(月)と書かれていました。 ちょうど9年前の昨日です。何かのお導きかもしれませんね。
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このように書いて、私は遠藤周作の深い河を再び読み始めたのです。9年ぶりに。
★「わたくし・・・・必ず・・・・生まれかわるから、この世界の何処かに。探して・・・・わたくしを見つけて・・・・約束よ、約束よ」
しばらくは、この本に浸ろうと思います。
| 2005-06-23 09:53 | 読書系セレクション |
書き出しは・・・
>読者諸君。
>この女は嘘つき、嘘つきでないかを見極める方法を狐狸庵、教示いたそうか。
遠藤さんを取り上げてきました。しかし、書庫のすべてを挙げても面白くないので、一部を抜粋してお送りしています。あんまりしつこくやっても個人的 に遊ぶなと(既に遊んでいますが)叱られそうなので、そのうち終わりにしようと思います。
この、「ユーモア小説集」という作品は「第三」まで我が家にありますが、その後はわかりません。現在出版されているかどうかもわかりません。でも絶 対に、古本屋に行けば百円程度で買えると思います
ぜひ。
| 2005-06-02 08:53 | 読書系セレクション |
十年ほど前に青森県の三内丸山というところで縄文時代の大規模な遺跡が発見されたんです。そのときの報道記事を読んでいてグググと惹かれモノがひとつあり ました。
縄文時代の生活のなかで、生まれたばかりの子どもの埋葬の方法について記事は書いていました。
ムラが形成されているなかに、いわゆる、死んでしまった人を葬る区域がある。その、ムラの外れのいかにも墓地に相応しいところでありながら、しか し、どうしても不可思議な骨が見つかるというのです。
人々が暮らしていた家の、住居の中の壺の中に生まれて間もない、おそらく1 2歳未満の赤ん坊の骨が発見されるという。つまりそれは、子どもが何らかの事情で死んでしまっても、大人が死んでしまったのとは区別をして、子どもは自分 たちの暮らす家の中に埋葬した痕ではないか。
私は、それを読んでナルホドと思いました。
次のまとまった休みに枝葉をつけて2週間ほどの旅程で東北まで出かけました。三内丸山遺跡には3日間滞在して、その遺跡を(まだ発掘過程でしたがそ のほうが感動も大きかった)くまなく見て回りました。
人は、死んでしまうという概念を持たない世紀には、息をしなくなった自分の子どもが、もしかしたら生き返ってくると思ったんでしょう。死んでいると 誰も決めることができないのだから、赤ん坊であればいっそう、わが身のそばに置いて留めておこうとしたのでしょう。
いえいえ…
イエスキリストという人物が何をどのように話されたのかは私にはわかりませんが、イエスの生涯を読むとき、宗教とか信仰などという人の心を包み抱きかかえ
てくれるような概念が、この世紀にはどんな形で存在していたのだろうか…と思います。
人は無力に対峙し、強くもあり、弱くもある。遠藤さんは割りと早い時期に「イエスの生涯」を書いて、ずっと考え続けておられたんでしょうね。「深い
河」に至るまで数々の苦悩や喜びがあった。作品すべてが遠藤さんの実像ですな。
| 2005-05-29 20:37 | 読書系セレクション |
このタイトルを読むたびに遠藤さんがピエロに扮しておどけている姿を想像してしまう。
そういうひょうきんな面が印象に強く残る。
小説は作り話なのだから実際にそんな話などがあるわけではないのだし、大体がそんな限られた人間だけで、しかもグッドタイミングで事件が次々と起こ
るはずも無い。
冷めてみれば、所詮、遠藤さんの作り話で、読者はそれを愉しめばいいのだと言う人もある。わかっていながら遠藤さんの文庫に手を延ばす。
そういう人が多かったからでしょうか、講談社・遠藤周作文庫というのがあったのです。今は絶版かもしれません。興味のある人は古本屋でも探してみてくださ
い。
私の手元にある「ピエロの歌」には1979年(S54 年) 6月12日 火曜日と裏表紙にメモがあります。古本屋さんが値段を鉛筆書きで書いていて「2冊で300円」と書かれてます。
詳細に記憶は無いですけど、
ハイライトが80円。セブンスターが100円。銭湯が95円。確かビール大瓶も95円ほどだったように思います。
東村山市から都内の江古田に引っ越し移り住んだ下宿屋は、夕飯の賄い付きの下宿代が2万5千円。洗面所は共同で当然風呂なしの裸電球の4畳半で、カギなし
の戸板で廊下と仕切られた部屋でした。(仕送りは5万円だった。)
北側に小さな窓があり、机に座ってその窓を開けると道路を隔てた南国屋さんという食堂の2階が真正面で、そこに下宿している女性の部屋が丸見えでした。彼
女は名前も知らないけど、私のことなどは気に留めないでお気楽に下着で部屋を歩き回るし、窓には平気で下着を干すし、二十歳そこそこの学生にとっては結構
刺激が強かったけどドラマのような毎日でした。
ストーリーは申し訳ないですが全然憶えていません。
「滑稽でチョッピリ哀しい若きピエロたちの青春小説」(上)、
「思いもよらぬ都会の密室を利用した謀事が巻き起こす、若い男女のロマンに満ち満ちた恋と革命の青春小説」(下)
とブックカバーに裏に書いてある。
私も青春時代だった。
| 2005-05-26 17:19 | 読書系セレクション |
阿川弘之や島尾敏雄、石川達三には「さん」を付けないのに、遠藤周作には「さん」を付けてしまう。川端康成が、、三島由紀夫が、、と違和感は無いのに、遠 藤が書いた、、と書くのが妙な感じです、私には。
実際に元気な時代を知っていることもあろうが、作家として作品を通じて伝わる以外に、遠藤周作という人には庶民性があったということなのだろうか。 これは疑問のままです。
大好きな宮本輝さんは、やはり「宮本輝さん」というように書いていることが多いですねえ。
さて、タイトルには「白い人 黄色い人」をあげました。このスレッドを書き始めたときに決めていました。それは、遠藤さんが文学界に姿を出した初期の作品 で、遠藤さんは作家になって一番に伝えたかったことがエッセンスとして詰まっているのではないか、と思うのです。(もちろん、深い河や死海のほとりを抜き にしているわけではありません。)
芥川賞に今も昔も変化が無いとすると、「白い人」も昨今の作品と同じような評価だったのかも知れません。しかし、そこには遠藤さんの若さがあり、若 きが故に持つ悩みも書かれています。
私は学生時代にこの作品を読みました。このころ、石川達三や椎名麟三、原民喜、島尾敏雄、阿川弘之、福永武彦なども読みました。若い時期に書かれた 遠藤さんの作品を私も若いときに読んだことが、ある意味で幸運だったような気がします。
もう一度、読み返したら若返れるだろうか・・・(ギャフン)
| 2005-05-24 19:48 | 読書系セレクション |
涙を流しながら笑うというのは、このような本を読んだ後のリアクションをいう。
ガストン=ボナパルト。もう25年以上も前に読んだ本の主人公など、はっきり言って覚えていません。伊豆の踊り子だって忘れました。
でも、おバカさんの主人公は覚えているんですよね。
ユーモア小説とか中間小説というジャンルを切り開いた遠藤さんの功績は大きいし誇りですね。
純文学というジャンルで真面目に、静かに、訥々と、重く訴える。だからこそ、ユーモア小説が生きてくる。同じテーマで物語れば、読者はやられてしまうの
だ。
やっぱし、遠藤さんは照れ屋だったから、恥ずかしがり屋だったから、ユーモアでごまかしてみたり、ヘンな変装をして笑わせたりしていたんだな、と思 う。そう私が書けば、きっとウンウンと頷いている人が何人もいるはずです。確信します。
犬が出てくるんですよ。弱くて、意気地がなくて、訴えかけるように哀しみを秘めた眼差しで見つめる犬が…。
ほかの小説でも登場します。遠藤さんはこの犬で何を表現しようとしていたんでしょうね。
ねぇみなさん。お読みになったみなさん。如何に感じながら読まれましたか?
まだ読んでない? だったら、おバカさんから始めませんか。
| 2005-05-23 17:52 | 読書系セレクション |
おバカさん
角川書店(角川文庫)\530
遠藤周作でも読もうかなと娘がいう。
遠藤周作が生きていたら「でも読もうとは何だ!」と笑いながら怒って見せる顔が思い浮かぶようです。
そこで、おバカさんでも読んだらどうや、と無理やり渡しました。
貧乏な学生時代にこの本を読んで遠藤周作の世界に深く深くはいっていった。記念すべき一冊です。すかさず友人にも薦めてました。ちょうど、娘ももう すぐ三年生。30年違うのですが不朽の名作を読みなさいな。
周作さんが亡くなってから随分とたちますから、若い子はどんな人だったのか知らないのでしょうね。作品(純文学・中間小説・エッセィ)と実物は随分 かけ離れているように思われがちですからね。
しかし、こういう作品の隅々をきちんと読むと周作さんの人柄が出てきます。そのためにも必須の一冊です。
ガストンは、遠藤周作の化身でしょうか。
バカで正直で、一直線。
どん臭い。
「深い河」にも登場していたので驚きました。
というわけで、遠藤周作が好きだという人は、この一冊は欠かせないでしょう。
そういえば、悲しい瞳で見つめる犬、あいつもよく登場します。
| 2008-03-21 15:08 | 読書系セレクション |
色々と迷ったのですが、やはり、遠藤周作さんのことを振り返って、ココでみなさんに問うてみたくなったのです。
「ホラ吹き遠藤って言うんだよ、今から会いに行ってくるんだ」
そう先生が講義中に話していたのを思い出します。25年以上前の一般教養の講義だったな。
私はそれ以前から遠藤さんに出会っていたけど、学生時代にグイグイと引き込まれていったのはあの講義を聴いたからでした。慶應文学、いいねぇーって いう、そういう時代だったな。
○ みなさんの遠藤さんとの出会いは何ですか?
○ なぜ、遠藤周作なのでしょうか、どこが好きなんだろうか。
語ってくださいよ、ねえ。
| 2005-05-15 16:12 | 読書系セレクション |
自分の無力を感じるとき、どうしようもなく心が疲れて、それを何処にもぶつけてしまうことができないときってのがあります。社会や人の繋がりの中にいるこ とさえ嫌になってくるとき、一種の虚脱感が私を襲ってくる。オトナだったら酒でも飲めば解消できるでしょッ、っていう人があります。そんな生半可な程度 じゃない。とことんどん底まで沈んでしまうようなコイツに襲われたら、自分というモノがすべて消えていってしまう。
そんなときは自室に篭もることが多かったです。椅子に腰掛けて本棚を見上げる。中国古典モノ、司馬さんのような歴史モノ、本多さんのルポ、などな ど。どれもが私の踏み出す一歩にヒントを与え勇気付けてくれたものばかりです。そういう本を見上げて、何を考えていたのかねぇ…。
「わたしが・棄てた・女」は異色ですが、手に取ってパラパラとめくると、荒波の上にいた船が凪に入ったように心に静寂が蘇えってゆく。不思議な本で す。どうして惹かれていくんだろう。
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>あの日も渋谷に雨が降っていた。
それは小説のなかのひとつの情景です。
都会の雨は冷たい。
(これを読んだ時代)
履歴書に書けない時代をアチラコチラで足踏みしていた私はつまりは卒業するのが少し遅れてしまって、恋人気取りだった人は私よりもひと足先に銀座の大手商
社に入って働いてました。その子と月に何度か落ち合うために銀座をぶらついたことがあります。待ち合わせスポットの人ごみの中にいると溢れている雑踏が私
を押しつぶしてしまうかのような錯覚に陥る。自分はトコトン孤独なんだ。たった一人の人だけを頼りにソコにいる寂しさを感じながら待ち続けます。
主人公の森田ミツも孤独だった…。
私はこの本を書店(古本屋)で手にしたあと、横断歩道を渡ったりしているときも、もちろん電車の中でも読み続けたのを憶えています。
遠藤さんを読みあさるきっかけとなった作品がこの作品です。ひとりの作家に集中して全作品を読むというようなことを私は滅多にしませんでした。ですが、遠
藤周作さんという人の作品は結構片っ端から読みました。
今風にいうと「ライト」な感覚の小説です(軽小説)が、小説の軽い重いを認めても、主題はもとより作品の質にライトな感覚は何ら関係がない。立派な遠藤周
作の代表作品だと思っています。
(ジュニアで書いたこと)
本棚にはこの本が何冊もありました。
街を歩いていて本が読みたくなってどれにするか迷ったらこの本を買うからです。
主人公森田ミツを通してひとつの生き方を提起してくれます。
イエスキリストとか愛という言葉を使わずに、人の心の本質というものに迫る。
あの日、森田ミツが歩いた渋谷の坂道にも霧雨が降っていた。
霧雨に遭うと必ずといっていいほど、私はこの小説の一場面を思い出します。
遠藤さんは、すごく茶目っ気のある人で、真面目なことを真面目に話すのがとても照れくさい人だった。
そういうこともあって、少しオーバーなホラをふいて自分を誤魔化してらっしゃった人でした。友人たちに「ホラ吹き遠藤」といわれてもそれはまったく悪い意
味ではなかった。それを知りながらライトな小説を読めば、何ら「海と毒薬」の読後感と変わりがないことに気付くことでしょう。
| 2005-01-27 10:04 | 読書系セレクション |
わたしが棄てた女
誰に読んで欲しいか。若者に読んで欲しいですね。
神島に行った時に、「今の若者は果たして潮騒のような恋愛モノに感動するかどうか」という話も出ていました。
「私が棄てた女」を読んで読んで感動するヤツがいるかどうかも、推測しがたいところですが、まんざらそんなに寂れてもいないんじゃないの、ってのが私の期
待です。
古本屋で講義の帰りに----サボってではないことにしておこう----100円程度で買って、歩きながら読み、飯も喰わずに貪り読んだ一冊です。
あの日も渋谷に雨が降っていた。
そう、先日読んだ「東電OL殺人事件」も渋谷の街の裏通りだった。
わかるかなー、このやるせない感じ。
■NO[ 236 ] [ 2004-10-30 ]
私が・棄てた・女 遠藤周作
遠藤周作さんを引っぱり出しました。本棚にはこの本が何冊もありました。街を歩いていて本が読みたくなってどれにするか迷ったらこの本を買うからです。主
人公森田ミツを通してひとつの生き方を提起してくれます。イエスキリストとか愛という言葉を使わずに、人の心の本質というものに迫る。あの日、森田ミツが
歩いた渋谷の坂道にも霧雨が降っていた。霧雨に遭うと必ずといっていいほど、私はこの小説の一場面を思い出します。
| 2004-11-04 23:05 | 読書系セレクション |
約30年前の赤茶けた蔵書の発掘は続いています。
果たしてこの本も絶版になってはいまいか。
心配ですが。
青い小さな葡萄
白い人黄色い人
を貪るように読んだころ。
この本も何気なしに手にとったのでした。
あのときにはこの本の意味がそれほど分からなかった。
ちょっとした理屈でしか理解していなかったのでしょうが
彼が40歳のころにどんなことを訴えようとしていたのかが
今頃、やっと、わかるような気がするのだな。
□
遠藤周作
聖書のなかの女性たち
遠藤周作の「死海のほとり」を読みましたとか、「イエスの生涯」を、「沈黙」を、「海と毒薬」を読みましたと幾ら声高々に言っても、「青い小さな葡 萄」、「白い人黄色い人」などを知らずして遠藤を知ったことにはならない。
さらに、この「聖書のなかの女性たち」を遠藤周作がどんな気持ちで書いたのかを知らずして彼の作品の裏に隠された彼の本心を知ることはできない。
「深い河」は素晴らしい作品で彼の最高の作品ですと感想を書く人が、次々と出てくるなか、私はその方々に「それは本心ですか?」と問いたくなること がある。
それほど「深い河」は素晴らしいか。その絶対的な評価はまたの機会とするにして、相対的にあの作品をそれほどまでに高く評価できる人の心理に一歩踏 み込みたい。
遠藤氏がどんな人間で、何を考え何をバックボーンに尊大なるテーマに向かい合っていたのかを考えるときに、安易な作品評価は出来ない。
まあそんな堅苦しいことは言うなよ、と遠藤氏自身も言ってくれるかもしれないが、若いころの作品を、真剣に読んで欲しい。40歳になるまでに書かれ た作品群には彼のポリシーがみなぎっている。
しかし、初期作品がそんな重要な作品であると断言しながらも、これは、軽くてわかりやすいエッセーであったというのが、彼の隠されたユーモアなのか もしれない。
この作品はなるほど確かにエッセーであると分類されるらしいが、その数々の重い作品の最後の章に「秋の日記」というのがある。まずこれから読まれる ことをオススメしたい。
全ての遠藤作品を読む前にこれからどうぞ、と言ってもいいくらいだ。
| 2009-12-24 22:37 | 読書系セレクション |
母なるもの
新潮社
遠藤 周作
1975
200円
表紙を虫が食ってしまって、トムとジェリーに出てくるチーズの表面のように穴ぼこだらけになってしまっている。
昭和五十一年十二月十日、第三版だから(200円)、初めて読んだのもこのころだろうか。二十歳前後ということになる。
このころは、まだ、遠藤周作を読み始めて間もない。しかも、小説というモノに興味を抱き始めるのも18歳のころであったことを考えると、私にとって小説=
遠藤作品のようなものであったのかもしれない。
「母なるもの」というタイトルは、素晴らしいと思う。
これが、44歳で苦悩の中で生まれた作品で、その後、深い河に至るまでの、彼のすべての作品の中を脈々と流れ続け、彼が永遠に追い続けた自分の神にしか見
せることのない姿を、そこに映し出しているような気がする。
作品はエッセイ風に進むのだが、後々に遠藤周作の作品を読むに当たって必ず必須となることが散りばめられている。
何故、再び、30年も前に読んだ作品を今頃になって読むのか。
「母なるもの」が私をいざなったとしか言いようがない。
| 2009-02-22 14:12 | 読書系セレクション |
遠藤周作さんのファンに、そのきっかけの作品を問いかけると「女の一生」、「深い河」という答えが返ってくることが多い。
やはり、亡くなられてから年月を経てしまったこと、生前のあのひょうきんさの裏にある真面目な素顔を、実物で見て知っている人が少ないゆえに、名作 としてリストアップされる作品が同時に人気を持つのでしょう。至って当然のことなのです。
しかし、「テレーズ・デスケルウ」(遠藤周作翻訳/講談社文芸文庫)や「母なるもの」を抜きにして遠藤さんを語ることはできない。
遠藤周作を知るためには、「母なるもの」を読み、「ホラ吹き遠藤」の異名を確立させる「狐狸庵閑話」シリーズをよみ、中間小説というジャンルを切り 開いた代表作「わたしが・棄てた・女」「おバカさん」を読み、同時に「死海のほとり」や「深い河」にも手を伸ばす。
遠藤周作の世界に浸ることで人生観が変わってしまう人が絶えない理由は、彼の優しいまなざしにある。「母なるもの」に遠藤周作の原点があるともいえ
るのではないか。
| 2005-05-22 17:37 | 読書系セレクション |
「金と銀」 遠藤周作文庫 講談社 300円
手元に取り出したのは、遠藤周作文庫(講談社)であるが、どうやら絶版らしい。
遠藤周作の初期のころの作品で、中間小説というものが定着していなかったのではないだろうか。彼のユーモアもちょっとこの頃は馬鹿馬鹿しいともいえ るが、それがよかった。
この頃は、まだ文学者(評論家)としての勢いがあって、文学作家への途上でもあったのかもしれない。
作風が若々しいというか、素人みたいなところもある。
最初からオモロイのは、梅崎春生や原民喜の名前をもじった主人公が登場することや「もてさせ屋」という商売が登場する。名前をジョークにしてし まったり、このいかがわしい仕事を考え出したりするのは、このころから少しずつ楽しくやっていたのだろう。もてさせ屋はほかの小説でも使われたと思う。
ばかばかしいのだが憎めない。
40歳。昭和38年。
日本は、今の時代からは全く想像できない国だった。
街の風景も、その当時を描写していて、面白い。
狐狸庵と自称するのもこの歳から。
わたしが・棄てた・女、もこの年の作品。
しかし、普通に読んでいる人には、同時期に書かれたものとは思えません。
流れるものは同じだけれど。
|2008-08-28 18:20 | 読書系セレクション |
|2011-03-23 | 改定
一時帰省をしていた娘に、
「わたしが・棄てた・女」と「さらば、夏の光よ」
を持たせようと思ったら、
持って行かんというので、私が読みました。
遠藤周作、30年もの。拾遺選シリーズ。
映画にもなってるけど、あれはアカン。
郷ひろみと秋吉久美子。
いわゆる、アイドル映画にされてしまったんだなー。(悲)
ジェームス三木が若いときにシナリオを書いたんですが、
若いという点では、いい。
*さらば、夏の光よ (講談社文庫)
*遠藤 周作
*講談社
遠藤周作という人は、ほんとにお茶目で悪戯好きだったという。売れっ子作家でありながら人間味もあった。
それには、理由があって、彼自身が常に弱者というものを見つめていたし、弱者の立場も理解をしていた人だったからだろう。
純文学作品を幾つも書き上げしっかりとしたファンを捉え、このような中間小説で、化けたような側面も見せてくれる。
しかし、遠藤周作の全ての作品の(今風に言うと)ネタ帖を、ガラガラと広げて掻き集めて物語に仕立て上げたのがこの作品だ。
彼の日常から超マジな顔までを知っている、すべての作品を読んだ人だけが分かる快感だ。
哀しい目をした小禽や犬たち。報われず注目されないサエナイ奴ら。もてない男。
そして、通りすがりに「まるで小石を見るように」気にとめられない人たちが、それぞれの人生というひとつのレールの上で交差し、まさにドラマを成してゆく
展開。
どの小説でもそういう「弱く」て「哀しく」て「儚く」て「無力」な人々が織り成す物語に、分かっていながらも引きづり込まれてゆく。
どうしようもない哀しみと、解決のしようのない運命のようなものを引きづりながら、読者である私たちが「どん底」に突き落とされるような閉塞感に襲 われないのは、まさに遠藤周作のポリシーが燦然と美しいヒトの心をマリア様のように輝かせながら書いているからだろう。
遠藤周作が42歳。情熱を漲らせているときに書いた作品です。優しいくせにイジワルそうにふるまう彼の笑顔が蘇えるような作品ですね。
| 2008-06-27 22:03 | 読書系セレクション |
講談社文庫(絶版らしい)
歳月という言葉の意味をずっしりと重く感じる。そんな作品だ。
30余年前、正確には1976年5月3日に私はこの本を購入している。ブルーブラックの万年筆でそう記してある。その色褪せて滲んでしまった私の筆 跡がまたこの物語を読み進むにつれてずっしりと心に圧し掛かってきた。
それは私が上京した年で、東村山市の萩山病院の裏に在った寮に住み始めて1ヶ月あまりという時代だった。高校時代に短くスポーツ刈にしていた髪もま だそれほど伸びていなかったはずだ。(この年の夏に志村ケンがブレークし、東村山音頭が有名になった)
当然、私には人生について深く考えることのできるような経験もなかったし、人にも事件にも出会ったりしていない。そんな時代に、こんな作品を読んで 分かったのだろうか。そう、今更ながら大人の視点で振り返るが、18歳の若造はそれなりに感動していたらしい。
書棚の奥から出てきたこの本には買った当初のカバーなどなく、こげ茶色に変色した背中と柔らかみを失った一枚一枚のページが、30年という時間のな かでじっと誰かに掘り出されるのを待っていたのかもしれない。(ご主人の私が掘り出すか、私が死んだときに紙くず屋に放出されるときに誰かが触るくらいし か想定できなかったけど)
読み進む途中で、決して荒っぽく扱った訳でもないのに、製本の糊付けがパリッと音を立てて割れたと思ったら、2、3日のうちに真っ二つに切れてし まった。読み終わるときは無残な姿に変化してしまっていた。
ページを捲るたびにタイムマシンに乗ったように時間が巻き戻る。物語は簡単に脳裏に蘇えってきた。私の頭のなかには、かび臭い寮の部屋も蘇えってき た…。
赤鉛筆で線が引いてある。その箇所が、現在の私がまさにその一行に引いてしまうだろうという一文であることに驚く。私はこの歳になっても、いつまで も子どものままなんだろうか、と苦笑する。
遠藤周作のこのような作品は、彼の純文学と呼ばれる作品と共に、非常に重要な位置にある。一行たりとも無駄な記述がないのは、むしろ中間小説と呼ばれるコ チラの作品群だろう。
遠藤周作が51歳のときに書いたこの作品の随所には、彼が戦争中に青春時代を送りその暮らしや数々の出会いがもたらした棄て去ることのできない悲哀 が、ユーモアと苦味をブレンドして綴られている。遠藤という小説家の人間味を漂わせてくれるシーンやセリフで満ちている。
主人公の30年前の記憶と、作品が書かれた時代(1973-74年)とを折り混ぜながら物語は展開する。それは遠藤氏自身の夢の物語であり、そし て、おそらく自分のために送ったそれまでの人生への労いであり、ペーソスにのせた社会に対するささやかなる批判でもあったのだろう。
テレビに出演しては楠本健吉や北壮夫、佐藤愛子、阿川弘之たちとおバカなことをやっていた。しかし、キリスト教を主題にした純文学作家遠藤氏の本当 の心の中を探るためには、このような(絶版になったらしい)作品を読まずして始まらない。
古本屋を漁り尽くしてでも、遠藤を語ろうという人には読んでいただきたい。語れない人は研究不足だとキッパリと言えましょう。
----
32年後に再び読み返してみたことを良かったなと思います。
18歳のときに読んだ小説。
遠藤氏が51歳に書いた小説。
それを、彼が書いた年齢になって読んでみる。
この感動と、作品自体がもたらす感動とで、今、満ちています。
| 2008-06-04 11:09 | 読書系セレクション |
遠藤周作 口笛をふく時
せつない、という言葉を知らないころに、もしも、この物語を読んでいたら私はどんなふうにそれを人に伝えたのだろうか。きょうは、「口笛を吹く時」を選ん
でみました。
(遠藤周作文庫・講談社は絶版だそうですね。復刻しないかな。。。)
どの作品を取り上げても共通するモノが深い深い所を流れていることに気づきます。作家遠藤周作は、高額納税者リストのトップに毎年顔を出しながら、 嫌味な面も気取った顔も見せずに、ヒット作品を送り続けました。
ニコニコと冗談を飛ばし、
「なあ、アナタが嘘つきかどうか一発でわかるんだ、当ててやるよ。僕の質問に答えてくれよ。お風呂でオナラをしたことがあるかい?ねえ?」
などとやっていたのであるが、
(作品最後から)
美しいもの、懐かしいものはここだけではなく、日本のすべてから消えていく時代なのだ。平目も愛子もこの地上にはいない。それなのに自分だけが生き残って
いる。小津は今、愛子や平目が自分の人生にとって何であったのかが、わかったような気がする。すべてが失われた今、それが残した意味がわかったような気が
する…。
実はそのこには、遠藤さんが従来から語りかけてきた、世代の違い、人生の交錯、戦争の傷跡、弱き者、答えの無い問いかけ…、が作り上げるドラマの源 があると思う。
人は、涙を枯れさせて悲しい悲しいとただただ泣き続けてしまうことがある。
悲しいという感情や概念の原点って何だろう。「無力の悔しさ」でもあるのではないか。
所詮、小説、作り話…である。しかし、答えの無い問いかけは続くのでした。
さて、次は何を読みましょうか。
| 2005-05-29 10:53 | 読書系セレクション |
「気をつけなよ。父さん。歩きかたが下手だなあ」と龍馬が言う。
そうです。人生を歩んでゆくのが下手で、不器用な奴がいて、遠藤周作はそんなヒトに焦点をあてて書いてくれる。
30年前に(1979年6月に)御茶ノ水駅から坂道を下る道筋沿いの馴染みの古本屋で私はこの本を買った。「100円」と裏表紙にペンで記録してあ
る。
小説にも出る明治大学界隈は私にとって日常の風景であり、そこに自分を立たせて、そして、間違いなく登場人物の龍馬に自分を重ね合わせて引き込まれていっ
た。貧しく冴えない学生の私は、息子の視点でこの作品に埋没した。
今、既に父も亡くし子どもが二十歳を回ったところまで歩んできた。決してひと息ついているわけではないのだが、偶然に拾い出した書棚の遠藤作品を立て
続けに再読しながら、彼の作品群を布石として読んでいたあの頃に感謝している。
そして、今回は主人公である父親側に自分を重ね合わせている。
サクセスストーリーでもハッピーエンドでもないが、物語は至ってシンプルだ。極端な悲哀もなく、非現実的な「小説」である。
しかしながら、小説とはそうあっても一向に構わないことを実証し、一連の遠藤作品が訴えるものを、とても「クサイ」物語として読ませてくれる。クサ イがゆえにオロオロと大泣きもせず、その代わりに、何度も本を置いて空を見上げてしまうことが多かった。
赤鉛筆で直感的に下線を引いていた箇所が、今の私の気持ちと一緒だった。それは昔と何も変わっていない感覚の自分を証明しており、可笑しく嬉しい。
言うまでもなく、熟成しきれていない筆致と未完成な作風が、即ちこの時代の遠藤周作の魅力でもあり、それは詰まるところ、私が遠藤周作と30年弱の
年齢差で人生を歩み、彼の青年期からの作品に影響を受けてきていたことなんだな、とも思うわけです。
| 2008-05-03 09:32 | 読書系セレクション |
楽天大将を、30年ぶりくらいに再読しました。
レビューは、改訂すると思いますが、とりあえずアップします。
色あせてボロボロになっているのが、なんとも、卒業してからの日々を物語っているのだな。
しかし、学生のころに読んで感じたことが、蘇えってくるから不思議です。
赤鉛筆で線を引いているところがあるのですが、まさに同じところでそう感じているから。
まだの人。どうぞ。
裏切らない作品ですから。
---
楽天大将は、「おバカさん」、「わたしが・棄てた・女」と並んで遠藤周作の傑作です。
随所に、遠藤周作ならではの書き方があるし、彼が持っている小説の風景がある。口癖もあるし、ひょうきんさも出てくる。物語のなかの人々の暮らしに 彼の暮らしや日常の話す様子が重なり合う。
悲しい瞳で見つめる小鳥、寂しそうに歩く子犬、定年を間近に控えた老いぼれの刑事、惚れた女性に一途の若い記者、それらを取り巻く人々の顔ぶれ。い い人、悪い人、そこにある不条理。遠藤周作は、日常生活のなかで非日常的なストーリーを創造し、作品の中でいとも簡単に手品のように物語を作り上げていっ てしまう。
純文学作品の中でそれらは、綺麗に飾り付けされ文学色を纏って出てくるのだが、軽めの小説では熟成される前の姿で作品に登場する。
全作品を読みとおした人なら、誰もが感じていることだろうが、このあたりが遠藤周作の小気味良さでないだろうか。
作品の主題には何も隔たりは無い。彼が目指しているものが知りたければ、これらの作品を読めばいい。そういう小説であるといえる。
彼の純文学を読んで彼の本髄に迫ることは大事なことなのだが、彼は照れくささを隠しながらもマジメに考えて、ひとつの作品として楽天大将をまとめあ げた。
30年が過ぎた今の時代になっても決して陳腐化しない作品であった。
…と書きながら、東京の中を描写する部分などを読むと30年前の東京を思い浮かべています。
この作品は昭和53年9月に文庫で出版されている。私はその第1版を買っていますが、遠藤さん、この頃から遠藤的手法を尽くして「聖女」を書いてい たんですね。
もしも尋ねたら、
「志乃は聖女なんですよね」
「そんなことは聞かなくてもよろしい」
きっとそう言われるのでしょうね。
----
(第1版では400円、昭和53年9月15日)
| 2008-04-23 16:20 | 読書系セレクション |
30年前に、どっぷりと読み込んで
しばらく、のんびりと読んで、
その後、休憩していましたら
遠藤さん、逝っちゃったんですよ。
このごろになって、また読み始めてます。
色褪せて、凄いことになってるんですけど、
遠藤周作の情熱を、(これは昔以上に)感じるんです。
娘が、私より遅れること30年、文学部でね、
私の本棚をごそごそと、探ってます。
黙ってみてるのですけどね、ハラハラです。
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