信頼というもの その2
(ゴミだなと嘆きながらここに書く)
信頼というもの。
・・・・というわけの分からない私の呟きにたくさんのコメントを戴き感謝します。
答えの無い問いかけに答えるのは難しく、そこんところを上手にかわしてひと言を残してゆくというのは、人生を上手に生きることにも通じると思います。
みなさんのもうひとつの姿を見るような思いです。
さて、きのうのお話の続きを今朝から書いておりました。話は書物のことに無理やり急旋回しましす。
「それよりも一冊の本と出会って、どれだけ心を動かされるのかってことが大事なんじゃ…」
八木沢里志の「桃子さんの帰還」(森崎書店の日々に収録)のなかでこんなことを書いていて、冷めた言い方をすれば何を今更…ということになるが、そんなことは分かっていながら作者はさり気なく書いたのだろうと想像すると、改めて作品の清清しさが伝わってくる。
信頼という重々しい言葉を投げかけておきながら答えも出さずに、というか答えも出せずに放り出した私の心理までを理解してくれる人など、たぶん誰も居ないだろうが、私は「信じる」ということと「頼る」ということを、発生学的に考察したかったのだ。
どうしても二つに分けて考えねばならない。複合の言葉なのだから、ひとつずつ紐解くことにする。
信じるといことも頼るということも、どちらも親の言いつけでできるようなことではない。つまり、その人自身の心の奥底に存在する本心のような部分が無意識に決定するものだということだ。
もうひとつ、その結果が必ずしも正解であったり、報われる結果を導くというようなハッピーエンドなストーリーでもないというのも現実だ。
信じることはある意味では信仰のような側面を持ち、人を信じることは己の誠に通じるともいえる。「頼る」「頼られる」というような相対する言葉にもそれらが当てはまる。
さらに頼られることの奥深くには、その人物の(またはその出来事の)重みが生きてくる。人に重みがあれば、そこには尊敬の念が返ってくるし、行いであれば実行力とバックアップが対になって勢いを生む。
仁義礼智忠信孝梯。
これは、南総里見八犬伝で皆さんもよくご存知な語句だが、やはり人はそこに戻ってくるのだ。
どの漢字にも棄てがたいものがある。
私たちは、これまでにこの日記で書き綴ってきているのだが、「豊かさと満足度」という現代人の骨の髄まで溶かしてしまった麻薬より恐ろしいものを、もう一度見直さねばなならない。
この八つの文字の全てを、失いかけている。
(今夜も纏まることなく夜が更けるか。御免)
結局、何が言いたいのかワカラン。>自分
人の純真さが薄れてきていることを嘆いたのかもしれない。
自分のことしか考えない社会に怒りを持っているのかもしれない。
悪が悪として裁かれないことや戒められないことに怒っているのかもしれない。
世の中が、間違った方向に多数決で進んでゆくことに怒りを持っているのだろうか。
まあ、いいや。もうすぐ死ぬ時期が来るし。それが諦めの言葉なのだが。
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