鬼を棲まわせる
鬼が棲む。
人は心のどこかに鬼を棲まわせてなければならない。それは、鬼に見張られているという意味ではなく、自分が鬼を慕っているということだ。
自分が成長して、自らの努力で実力が身についてきたとしても、常に自分を振り返る時間を持ち、第三者的または大局的に自省することが必要不可欠だ。
しかしながら、やはりいわゆる天狗になってしまうことは多い。
確かに天狗になることも必要だ。自信を持つこと、そして自分を褒め称えることは非常に重要なことで、偉業を成すときに、自負が無くては突き進まない。
だからこそ、いつも心に鬼が棲んでいなければならない。鬼は何を思っているのだろう…立ち止まって考え、自らを見つめなおし、鬼を伺うのである。
私の身近な所に、ちょいとジイサンになりかけの人がいる。定年を過ぎて2,3年。社会的地位の非常に高い職だった方なのですが、今はそれなりに肩書きを貰って先生と呼ばれたりしているのです。
ところが、ジイサンに限ったことではないのだが、心に鬼が棲んでいないなあ、と感じる。あらゆる行動を見ていても老人らしい「厚かましさ」や「無神経さ」が随所に出てきている。
もう、この方々を叱る人はこの世には居ないのだなとつくづく思う。他人から指図を受けることなく、悠々自適で歩んでいる。
(怖いものなし、等という表現が相応しいか)
だが、輝かしい実績や経歴を否定しているのではない。
「人の振り見て我が振り直せ」
まさに、自分にも言い聞かせねばならない言葉なのです。
ジイサンみたいに「厚かましいなあ」と思われたくないし。
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