江古田(2)〔2004年7月初旬号〕
江古田(2)〔2004年7月初旬号〕
私がこの下宿に住みこむことになったきっかけは、文学部に進んだ島田君の紹介だった。島田君は仙台市で3年間の浪人生活を経て、4年目の浪人生活を最後と覚悟して東村山へやってきて、私と同じ寮に住むことになった。その1年間の話は長くなるのでまたの機会に譲ることにして・・・。
江古田の下宿には、島田君の仙台時代の親友であった黒金さんという、早稲田大学の商学部にかよう人がいて、島田君の紹介もあるが、私が下宿の新米として入れてもらうときには、この黒金さんの知人の紹介ならOKでしょう、ということで受け入れてもらえた。
家主さんは安藤さんといって、下宿屋の名前は「能生館」といった。おじさんが新潟の出身なんだって聞いてもその頃の私は何も考えておらず、この名前は新潟県の能生町から取ったものだと初めて気付いたのが社会人になって旅の途中に能生を通ったときだった。
安藤さんの家族は、真の親のような気持ちで面倒を見てくださっただけに、私はグウタラ下宿生だったので、おじさんやおばさんに申し訳ないかったなとしきりに反省をしたものだ。
「ねえ、お父さん、東京が焼け野原になってもこの能生館は燃えずに残ったらしいですものね。昭和3年に建ったんだからたいしたものよねぇ」と沁みじみと安藤さんのおばさんが話していたのを憶えている。おばさんは当時、40歳くらいだっただろうか。高校生の男の子と中学の女の子、そして少し歳が離れて小学生の男の子の母で、私たちの下宿人の夕飯も作ってくださる、私たちにとっても母のような人だった。
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