江古田(1) 〔2004年6月中旬号〕
江古田 〔2004年6月中旬号〕
西武池袋線の江古田駅の南口を出てすぐに線路沿いを西に歩く。しばらくすると稲荷神社に突き当たって、そこを通り抜けながら南へ直角に曲がると千川通りという大通りに出る。通り沿いには武蔵大学の塀が延びている。ここをひと区画ほどさらに西にゆくと武蔵大学の正門があって道路が北に向かって延びている、私の下宿は、駅からこのように北斗七星の形のように路地を曲がってゆくとあった。
玄関には「能生館」と書かれていて、スケールは小さいが大正時代の由緒のあるような旅館のような構えだった。どうやら昭和3年に建立されて東京の空襲でも燃えなかった幸運な建築物らしい。下宿屋のおばさんがお父さんに「空襲でも残ったんですものね」と染み染みと話をなさっていたのを耳にしたことがある。
隣に「南国屋」という飯屋があって、暖簾だけがぶら下げてある。暖簾が下駄屋ならば下駄屋らしいし旅館ならそれはそれでもっともらしく見えるという風情の飯屋だった。猫が7匹ほどいて、ばあさんが「ねこちゃーん、ご飯だよ」と夕方になると呼び寄せていたものだ。「さあおいで」と優しく誘いかけていると思えば、なつかない猫たちを「お前たち、どっかに行ってしまいなさい!」と追い払っているところも何度も見た。あの猫たち、料理されはしまいかと心配したものだ。そんなこともあって、ここのばあさんの飯はさすがに食う気になれず、よその店ばかりに行っていたが、一度は食ってみても良かったかもしれない。
南国屋さんは下宿屋も兼ねていて二階に若い女の人がひとり住んでいた。その彼女の部屋が能生館の私の部屋のまん前で、窓をあけるとお互いが部屋の中まで丸見えだった。女性は下着を干すのも平気で、まだ二十歳前の男が向かいに住んでいることを知ってか知らぬのか、あらわにカラフルな洗濯物を窓の手すりの前にいつもぶら下げてた。勉強机に向かってふと窓のほうを見ると風に下着が揺れて、その向こう、つまり部屋の中で女性の姿が動いているのが見えた。しばらくすると会釈くらいは交わすようになったような記憶もあるが、残念ながらそれ以上の知り合いになれたわけではなく、悩ましい衣類や年頃の私が最も好奇心を抱いていた女性という未知なるモノの姿ばかりが瞼に残っているだけである。
下宿屋は、早稲田の学生専用だったが、例外的に一階の玄関脇の広い部屋には武蔵野音大の岡戸さんという女性が住んでいた。毎朝8時になると「あー♪あー♪あー ♪」と発声練習をした。ピアノの練習よりも歌の練習が多かったように記憶する。聞くところでは教育課程が専攻らしい。
あのころは誰もがみんなが可愛く見えたが、女性にはまったく縁がなく、私の部屋に来るのは、もっぱら隣に並ぶ部屋に住む先輩たちだった。
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