百年後だって、人間はきっと変わらない
元旦の朝刊にある新潮社のコピーからタイトルを戴いてみた。
▼私たちは百年も生きられない。
しかし、社会は進化しながら、また、きわめて哲学的な叡智という側面では進歩と後退を繰り返し、時は刻々と過ぎる。
地球という惑星からすれば、人類など微塵のものでもなく、環境が破壊されようが星が粉々になろうが、それもひとつの宇宙の歴史に過ぎない。
私たちに、住まわせてもらっているという感謝の気持ちが無ければ、やがて私たちは宇宙に飲み込まれてしまうだけだ。
▼百年とは、不思議にも、人の生命のひとつの周期に似ているかも知れない。こういう小刻みな周期の定義において1割以下の誤差率で百年を言い当てている。次第に人の寿命は延び百年に近づく。しかし、私たちが百年を生きることはまだまだ難しい。
▼人間は変わらない。そう言ってみたい人間の強がりと、今の暮らしに満たされた人間の驕りがもたらす油断のようなものが、人間は変わらないのだと思わせる。
生態系として眺めるのではなく、ハートで動くマシンとみなしたら、これほど短時間に目まぐるしく変化してきた動物はあるまい。
▼それでも、「百年後だって、人間はきっと変わらない」と思いたい。百年後の変わっていないヒトを確認するのは、必ず新しいヒトであることを考えると、これは希望を表したメッセージでもあるといえる。
▼250万年前にアフリカ大陸で人類が誕生して以来、滅びることも無くこれほどまでに変化した動物がいたのだろうか。百年という周期と2500年という周期と、5万年という周期と、250万年という周期。無数の時間が無数のリズムを持って過ぎてゆく不思議。そこには数学的にきっと解析できる規則があるような気がするものの、そんなものは不要とも思う。
▼250万年を無限大回数だけ切り刻んでいっても、決してゼロにはならないことを考えると、目の前にどかん!と放り出された「百年」という数字が、そこはかとなく輝くように美しく見えてくる。
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▼大晦日。「おおつごもり」とも読む。
もちろん、そう呼ぶ人も多い。
「大つごもりの朝には、ぜんざいを食べたもんや」
そんな母の呟きを聞きに実家に出かけた。
▼すっかり母の腰も折れ曲がってしまっている。
さぞかし歩くのが苦しかろう。
近年は餅つきも機械でやってしまうので、人手もかからない。
ひとりで竈に火を起こし、もち米を釜に掛け、
ひとりで、餅つき機械を支度して、餅をつき、
出来上がったら、そそくさと丸めてしまって終わりとなった模様だ。
子どもや孫が手伝う間もなく餅つきは終わったという。
おそらく、後片付けも忙しそうにしたのだろう。
おせちの用意をして、小豆を茹で、掃除をして、畑に野菜を獲りに行ったのだろう。
せっかちに見えるのは、性分だから仕方あるまい。
▼私が家を訪ねたときには、
一服し終わって、居間で佇んでいた。
静かな大つごもりだ。
「長いこと忘れておったわ。大つごもりには、ぜんざいを食べるもんや。どうや、幾つ、餅、入れる?」
蕎麦を打つ父居ぬ土間や暮れる夜 ねこ
静かな静かな大晦日だった。
相変わらず、この土間は寒いなあ。
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▼私は実家に帰っても泊まらないので、この夕刻に、母はしばらくひとりで過ごし、しばらくして弟家族が来て、一緒に夜を越し、新年を迎えたのだろう。
元日の夕方に再び訪ねた。せっかちにすき焼きの鍋に肉を放り込み、灰色の雲がかかった山々を台所の窓から見ている。
もう何度も一緒に正月を迎えることは無いだろう。そんなことを想像している。
南天が揺れて凍える勝手口 ねこ
いつもどおりに、1年が始まった。
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