泣くことを忘れて夜の長さかな(竹久夢二)
中秋の名月の夜は、部屋から空を眺めていた。
定例のメルマガの巻頭から。(URL:略)
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待てど暮らせど来ぬ人を/宵待草のやるせなさ/今宵は月も出ぬさうな
竹久夢二がどんな想いでこれを綴ったのかは計り知れないのですが、
秋とはまことに不思議な季節で、人々は月を見て様々なことを想い、悩み、或いは願い続けてきたのでしょうね。
今年の中秋の名月も例外なく、この巻頭を書くためにペンを持った夜半に、あくる日の雨を予言するかのように、うすぼんやりと絹雲に覆われた姿で南の空にありました。
夏から秋へと季節が変わるのはページを1枚捲っただけのような感覚でもありますが、目に映る自然や人の装いまで秋色に変化していることに、ときどきハッと驚かされます。
2、3日前には咲いていなかった彼岸花が気がつくと満開になっていたり、夕焼けがやけに赤くて思わず写真を撮ってみたり。少しウキウキの気分になれたりします。
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こんな嘯いたことを書きながら、月を見ていた。
今の時期の月には迫ってくるものが無い。
ゆるゆるとしている蒟蒻のような奴が歩いている姿のようだ。
月は、寒さの中で凍えるように震えているのがいい。
泣いても泣いても果てることなく燃えるような情熱を持っているときが人は最も美しい。
泣くことを忘れて夜の長さかな(竹久夢二)
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あとがきから
少し前に枝廣淳子さん(環境ジャーナリスト)のブログでマイ箸のことを読みました。そこで枝廣さんは
「何年か前に家族で旅行に行ったときのことです。お家で使っているそれぞれのお箸を、袋にまとめて入れて持っていきました。帰りに、富山県の魚津駅で、朝、どうしても時間がなくて駅そばを食べたんです。袋に箸をしまって帰ろうとすると、きっと奥からみていたんじゃないかな、お店の奥からおばさんが出てきて、『よこしな』と言って箸を全員分洗ってくれました。熱湯消毒したあとの箸のぬくもりが、嬉しかったのをおぼえています。」
と書いています。
すべてのことに合理性を適用して、二者択一の篩いにかけて、アレは環境に良くないコチラは優しい、というように前進することもひとつの手段ですが、その背景には私たちが大昔から築き上げてきた生活文化への畏敬の気持ちがあってのうえでの選択かと思います。
聖徳太子が初めて使ったいう1400年もの歴史を持った箸の文化、江戸時代にお蕎麦屋さんが考え出したという割り箸文化。奈良時代に登場したという風呂敷文化。買い物に使うような籠の文化は縄文時代まで遡るかもしれませんね。
人々の心の中を深く受け継がれてきた文化を見直してゆくことで、随分と環境に対しても優しくなれそうな気がします。
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