秋深き隣は何をする人ぞ
秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉
芭蕉は元禄7年-奥の細道を旅をしたのが元禄2年で、それから5年後-の9月28日この句を詠んだと記されています。旧暦の9月は、もはや、すっかり秋が深まっている時期で、ちょうど今ごろでした。 (太陽暦で11月15日)
暮れ行く秋の静けさと寂しさを、移ろいゆく季節に感じながら、実は自らの体調に迫り来る異変にも気付いていたのでしょう。その10日余後の10月12日に突然ぽっくりと逝ってしまいます。50歳。
此道や行人なしに秋の暮 芭蕉(同年9月26日)
さて、今や「隣は何を…」ではなく、ご当地で鎮火の兆しのないおみやげ物の製造日などの不正騒ぎですが、その傍らで「もったいない」という声が上がり、情状に眼を向ける人も多かれ少なかれあるようです。
大勢を欺くという行為が如何なる理由であれ事実であるならば司法の判断を待たねばなりませんが、食べる側の人の中に「もったいない」という意識があったことに一縷の望みが残されているような気もします。
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(後半部分は、チェックが入って、以下のように改訂しました。)
さて、「秋の暮」というと「秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、…」を思い浮かべ「夕暮れ」をさすように思いますが、しかし、芭蕉のいう「秋の暮」は「夕暮れ」ではなく秋そのものが暮れてゆくという「晩秋」のことで、近づきつつある厳しい冬を思い浮かべながらの情景だったのでしょう。
メルマガを書いている今日(11月12日)は、鈴鹿山麓に寒波が押し寄せ、外に出るとぶるっとする日になっています。
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