アジサイ
雨が降り続くと、真っ白の光がノートをカラカラに乾かしてくれるようなサッパリ感が遠のいてしまう。
じめじめとするのを嫌がる人も確かにいるけれど、雨降りに窓を開けてザーザーという音を聞きながらソファーに腰掛けて本棚を眺めていると、時間は惜しみなく過ぎてゆきながらも、それは身体に心地よい快感で、ときどき本を手に取ってパラパラとめくって部分的に読んでみては元に戻し、次を取り出しては再び元に戻すという単純なことを、私は繰り返している。
ても、書棚の本たちはどことなくざわめいているような気がしてならない。梅雨とはそういう季節なのだ。
ザーザーというホワイトノイズは、数学物理的な解析をすれば、バイオリンの音が可聴帯域を超えて広がってゆくのと同じように、非常に周波数帯域の広い音なのだろう。
人の脳みそはそういう聞こえない音にも動物的に反応ができるのかどうかわからないが、極めて自然的で人の手の加わらない、なだらかで無重力に広がるような周波数曲線が、体の隅々までほぐしてくれるのではないかと思う。
つかこうへいとか井上ひさしなんて人の本が妙に新鮮で、手に取り上げたまま庭を見下ろしていると、雨足が一段と強くなってきた。
アジサイの紫色は、色彩としても、やはり不安定な色で、この不安定感が、人の脳みその中にあらかじめ仕切ったように作られた様々な色見本にも当てはまらないことで、落ち着く場所を探しながら心の中の隙間を彷徨うのかもしれない。
紫色が雨に打たれて揺れている。
たかが、雨粒なのに、揺れている。
アジサイの葉から雫が飛び散るのを、イジワルな面持ちで私はじっと見ていたのだろう。その葉蔭から青ガエルがぴょんと飛び出した。
雨降りが嫌だなどと考えるようになったのは、きっと大人になってからのことで、純粋で何の欲もない子どもの頃は、どれほど雨が降ろうと長靴を履いて傘を差し校庭から田んぼの畦道へと、そして庭から庭へと遊び回ってはしゃぎ回った。あのとき雨は嫌いだと感じたこともなく苦痛なども無かった。
大人になって大人の知恵がついて、計算が出来るようになったころから、すべてが狂い始めたんじゃないのか。
あの頃なら書けたラブレターが、今はもう、書けない。
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