水ぬるむ春分に ─ 塵埃秘帖 春分篇
▼ 耕した真っ黒の土の上にみるみるうちに粉雪が積もってゆくのを何度も見た冬だった。海抜100メートル。伊勢湾が一望できる高台の中をゆく農道の周りは緑の麦畑に変わっている。その数センチの芽がそよそよと、名残惜しく吹く北風にゆれている。自然は逞しいなと思う。ひばりが天高く鳴き、うぐいすが下手ながらさえずり始めている。
▼ ちょうど24年前の今ごろ、私は京都で働くために京都・嵯峨に住まいを決めた。あのころ、御室にあったちっぽけな本社の建物が現在は京都駅前にそびえる高層ビルに変わった。自らの名前の由来するところである御室の地を離れることに対するある種の苦悩も推察できるが、常に新しいモノを追い求めようとし、技術者を大事にする社風をも鑑みてみるなら、それは素晴らしい判断だったと思う。移転のころに、私は別の会社に籍を置いていた。
▼ その会社は大阪の門真市に本社を置いていた。京都で9年お世話になったあと、こちらで12年ほど勤めるのだが、社風は雲泥の差であったので、そのころのことは技術者として思い出したくない。世の中にはモノやコトの真髄が決して立派でなくて、人の心が腐っていて、もはや死んでいるに等しいと思わざるを得ない企業であっても、社会は「誤って」立派な会社だと判断することを知った。同時に、息をさせたままで人間を殺してしまうことが可能なのだということも知った。
▼ 一生懸命に誠意を持って世の中に尽くそうと思う人に、少しでもこのような歪んだ社会構造の事実を伝えたいと思うが、それは私のような無力の小人には不可能だ。
▼ ねぇ、先生。こんなとき、先生は私にどう進言してくださるのでしょうか。「自分で考える、それがキミの使命だよ」と仰るのでしょうか。私が京都に来るとき、先生はポンコツのアルファロメオに私たち研究生を乗せて駅まで送りながら、もうすぐ(子どもが)生まれるからこんなクッションの悪い車ではなく家ではセドリックに乗ってるんですよと仰ってられた。息子さんか娘さんかさえ知らないほどご無沙汰してますが、その子も今はきっとマスターあたりにいるのでしょうね。先生、白髪が増えましたね。
▼ 嵯峨の住まいを決めたときに私はうちのんと出会いました。嵐電の通る音が部屋にガタンゴトンと響いてくる6畳2間の部屋でした。電車の音にはすぐに慣れてしまいました。遠くの友人と電話で話すときに電車が通り、その音が相手に聞こえて「今電車が通ったね」と言われても「そうだったかな」と気がつかないほどになっていた。愛着の深い部屋でした。大文字の鳥居だけでなく東山の大の字まで見通せた。
▼ 娘を連れて嵐山へ散歩に出かけたときに、竹やぶの中で人影が動くので踏み込んでみると映画のロケをしていた。2歳ほどだった娘はときどき「キヤー」とか「ガアー」とか叫ぶのですが、スタッフの向こうから髷を結った役者さんが近づいてきて「お嬢ちゃん、ちょっとの間だけ静かにしててね」と言う。千葉真一さんだったのです。私たちの世代ではキーハンターの主役の千葉さん。娘にその話をしても通じないのは仕方がない。私たちが住んだマンションに、この4月から娘も住みます。中古の文学をしたいという。私のように古刹をたずねて嵐山を歩きまわる日も近いのだろう。
▼ この子の通う大学が五条坂を下がったあたりにあります。私がオ社に居たころに、この女子大を卒業して新採としてやってきた子がいました。「春眠暁を覚えず」、この先を思い出せず苦心していた私に「春眠不覚暁/処処聞啼鳥/夜来風雨声/花落知多少」とすらすらと暗誦してくれたのが強烈な記憶にあります。花は散るのだ。新しい芽を出すために自らを棄てるのだろうか。人間は、自然という奥深いものの、ひとかけらにも満たない小さなものだ。なのに自分が一番だという錯覚に陥っている。
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