言葉 <2003年1月上旬号>
銀マド / 言葉
▼言葉は、身の回りにあふれていて、ありふれたものだ。その数々の中からたったひとつに反応し、掘り下げて見つめてしまうことがある。我々はそんな巧みなことができる人間である。
年末のある日、職場で、対話をすることを失ってしまった悲しい人に出会った。どうにかしてやりたい気持ちと、蝕まれていてそこへは入ってはいけないという戒めに似た罪悪感とで、しばらく私は考え込んでしまった。
どうしても、対話を放棄しているその人の心の奥に私は踏み込みたかった。しかし、対話を拒む人にはその人の世界があるのかもしれない。もっと無言でいることにしようと私は思った。無言イコール対話拒否ではないはずだから。
しばらく時が過ぎた。私のようなまだまだの人間が悩むことでもなかろう、ということに気付いたときに、その命題の答えの解法は見えたような気がした。言葉の嵐は吹きすさぶ。しかし、あるときはそれは嵐ではなく、満帆へと導く順風であることもあろう。待てば海路の日和あり。
▼言葉というものは不思議な魔力を持っている。どうしようもない脱力感に襲われていたり、持って行きようのない感情の高まりを抱いたときであっても、私の心の弱っている部分にさりげなく手を差し伸ばしてくれる。
それは乾ききった身体に降り注ぐスコールよりももっともっと静かで穏やかなものだ。その言葉をひとつの依り処にして永遠の逃げ道を探す旅に私は出る。
ただし、永遠と思われた旅でも思いもよらぬことで早急に打ち切られることがある。言葉そのものの治癒力が逞しいことで私自身にエネルギーがチャージされて、ひとりで歩もうという気概が生まれてくるからだろうと思う。
▼時間という目に見えない波の上を浮遊する私は、ほんの些細な言葉に支えられて、この波に感情という新しい出会いという波を重畳させて、未来という目に見えない先を、それが真っ暗闇であろうと、そちらに足を向けるのだ。複雑化した波は無限大に広がるスペクトラムを持っている。フーリエ解析という方法によっても、無限大は机上のものであるのに、理論上果てることのないこのエネルギーに限界を与えるこの式を胸にしまい、酔うようにさまよう。あたかもそれは現実と夢の間を往来していた、私が昔に見た夢のようだ。
◆日記から
○成人式のニュースを見て
成人式の話題のニュース報道を見た。昔の塵埃秘帖にも書いているが、私に成人式の歴史はない。進級が重くのしかかった後期の試験を数日後に控えて、そんな余裕などなかった。「負ける戦」であっても臨まねばならなかった。このときの試験の結果で3月には落第が確定するのである。嵐のような日々、地獄の谷から這いずり上がろうとしていた。それが私の成人の頃の思い出である。
自分でしくじったのだから、自分で這い上がるしかなかったのだ。
○センター試験
そうそう、私の頃は1期校と2期校とに分かれていたのよ。2期校は3月末に試験があった。合格者が巷にあふれる中であの頃まで受験勉強を続けていた2期校受験生というのは相当に強い精神力である。会社に入って同期に福井大学出身の奴がいた。実際に会社に入ってからも2期校出身者は逞しかった。
彼から「逞しい」という言葉の重さを知らされた。奴は元気だろうか。
« 首輪のついた犬たち・その3 | トップページ | 痛み <2003年1月下旬号> »
「【随想帖 秘】」カテゴリの記事
- 年の瀬に考える 〔2003年12月下旬号〕(2009.03.11)
- 夜空を見上げて考える 〔2003年12月上旬号〕(2009.03.11)
- 手紙 〔2003年11月下旬号〕(2003.11.25)
- 木枯らし 〔2003年11月中旬号〕(2009.03.11)
- 会釈 〔2003年11月初旬号〕(2009.03.11)
最近のコメント