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高橋順子 夫・車谷長吉

高橋順子 夫・車谷長吉

2017年8月10日 (木)

毎日新聞2017年1月20日 東京夕刊
人生は夕方から楽しくなる
詩人・高橋順子さん

夫亡き後、感じる 言葉はいいものだ


「とにかく彼は大おしゃべり。5秒と間を置かずにしゃべるから、お客さんに帰るすきを与えないんです。でも、いろいろ教わったなあ」

 東京・千駄木の谷底から坂を上ると、日の陰る路地に行き当たる。古い二階屋の引き戸を引くと、影絵のような格子窓と柱時計。すきま風の部屋にたたずむ姿は昭和のにおいがする。

 「インタビューはずっと断ってきたんです。寂しい、悲しいと言ったってしょうがないから」。2015年5月17日早朝、69歳の夫、直木賞作家の車谷長吉(くるまたにちょうきつ)氏と散歩に出た。夫は5分後、「300円持ってないか?」と言いだし、ビールを買いがてら先にひとり戻っていった。帰宅すると、台所で倒れていた。安らかな顔で、眠っているようだった。つまみをのどに詰まらせ、すでに窒息死していた。

 「考えようによっては、あのまま生きながらえても……。死の2年ほど前、脳梗塞(こうそく)になって、あんなにおしゃべりだった人がほとんど語らなくなり、原稿も短い随筆を年に1本。出かけても『早く、早く』とイライラして、死に急いでいるようでした。彼が尊敬する作家、白洲正子さんから『書けなくなったら生きることにしがみついても仕方ないわよ』と言われていて、書きたい物は書いたからと、早く死にたがっていました」

 一つ年下の「彼」と初めて会ったのは1990年の大みそか、46歳の時だった。無名時代に絵手紙をもらっていたが、突然、電話で呼び出された。喫茶店に行くと、待っていたのは坊主頭の男だった。「呼びつけておきながら何も話さないで、じっとこっちを見ているんです。気持ち悪くなって、じわじわ椅子を後ろにずらしました。不気味ですよ。『時間がありませんので』って帰ってきました」

 その後も彼は手紙や小説の原稿を送り続けた。しかるべき出版社で発表しなさいと背中を押すうち、小説はじわじわと評価されていった。結婚したのは喫茶店の沈黙から3年後だった。

 「二人とも初婚です。私も若い頃、結婚する気はあったんですけど、ある時点からしなくてもいいやと。残り者同士、縁があったんでしょうね」

 自称「畸人(きじん)」との暮らしは大変だった。「人間関係の尻拭いで苦労させられました。私のことはもちろん、私の友達のことも悪く書くんです。ひどいあだ名をつけて。ひたすら謝って回りました。人を悪く言うのが大好きで、おしゃべりの大半は知人の悪口でした」。それがたたり小説のモデルに訴えられ、死の10年あまり前、私小説の断筆宣言をしている。「人を傷つけ申し訳ないとは思っても、実名にしなければ、人が血を流さなければ、生きた話にならないと、小説だけを考えていたんだと思います」

 理解しがたいことも多かった。「結婚当初、庭に花を植えたら、『この花はあなたがお求めになったのですか』と言うのでうなずくと、『嫌だからすぐに抜いてください』。二人で出かけ、歩き始めて5分後、『その横じまのセーター、我慢できないから、別のに着替えてきてください』と」。ついに、一日中手を洗い、床を拭き続けるようになり、困りに困り、病院に引っ張っていき、強迫神経症の治療に13年付き添った。

 「それでも楽しかったですよ。関西の言葉で『あまえた』って言うんですか。ボクちゃんって言って、甘える、子どもみたいな人。純粋で残酷で、かわいくて本当に飽きのこない人。私を甘えさせたり、守ったりはしてくれませんでしたけど」

 そんな男を亡くして1年8カ月。不思議と自分のために物を買わなくなった。詩集も出していない。もう普通の男などつまらないのでは。そう問うと「そんなことないですよ」と笑い、こう続けた。「でも万が一、再婚するとしたら、今度は面倒じゃない人がいいですね……。人生は夕方から、ですか。まだ、そんな気持ちになれなくて」

 家から外へ引っ張り出したのは、自身の詩集だった。東日本大震災の津波で多数の死者を出した故郷、飯岡町(現・千葉県旭市)で、家ごと海にさらわれた地に残る石に鎮魂の祈りが込められていると詠んだ詩集「海へ」(14年)。励まされた市民が朗読会を開き、「旭いいおか文芸賞『海へ』」の創設につながり、審査委員長に。3月発表の第1回受賞作の選定に追われている。

 「彼は『言葉は悪だ』と言いましたけど、言葉に関わるのはいいものだと改めて思いました。車谷関連しか書いてこなかったけど、これからは自分のために書ける。そんな感じがしているんです」【藤原章生】

 ■人物略歴
たかはし・じゅんこ

 1944年、千葉県生まれ。東京大文学部仏文科卒。出版社勤務を経て文筆活動。小説やエッセーも多数発表。詩集「時の雨」(96年)で読売文学賞。「海へ」(2014年)で藤村記念歴程賞、三好達治賞受賞。

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