福永武彦 ; 忘却の河

「私がこれを書くのは私がこの部屋にいるからであり、」で始まるのがこの忘却の河であった。この一風変わった書き出しを真似して、友人に手紙を書いたものだ。忘却の河を読み終わった後は妙に落ち着いた自分がそこに居た。

斎藤末弘先生が非常勤講師で母校に来てくれていたとき、一般教養・文学で福永武彦を取り上げたのが私と福永武彦との出会いだった。
先生は、きょうこれから遠藤に会いに行くですよ…講義の合間に話し、遠藤周作のことを表からウラまで語ってくれる。遠藤周作や島尾敏雄、椎名麟三などを取り上げる前に福永武彦だったのか、後だったのかはもはや私の記憶には無いが、電気通信工学科という文学に全く無縁の学科での講義でありながら、先生の話は燦然とした思い出となっている。

二十歳前の学生にこの小説の何がわかるか。まだまだ人生の苦汁の欠片も知らない、いや知ったかのように錯覚しているような若造に、この本の読了は無理だ。もしも、読みきれたとしても、一体オマエに何がわかるのか。

しかし、このときに1度は読了しておかねばならない。何故ならば、30年経って再読をしたときにこの作品の素晴らしさ出会うためには、二十歳で読みきることが必要だったのかもしれない。

私はこの作品を初めて読むときに、この次のページで投げ出そうと何度も思いながらも、とりつかれたように読み耽ったと思う。でも、再読をする今は、次のページを読めるのがいつになろうとも何も恐れることは無い。作品の一文一文をじっくりと味わって読もう、と考えながら幾日も費やして読み進んだ。

30年前に買った文庫本は、これほどまでになるものかと驚くほど茶色く日焼けしている。ページを捲ると便箋を剥ぎ取るときのようにバラバラになるところもあった。

ずっと心の中に大事に30年の間仕舞い続けていたものを1枚1枚棄てなさいと教えられているような気持ちになりながらページを捲った。

| 2007-12-02 11:55 | 読書系セレクション |