自分の無力を感じるとき、どうしようもなく心が疲れて、それを何処にもぶつけてしまうことができないときってのがあります。社会や人の繋がりの中にいることさえ嫌になってくるとき、一種の虚脱感が私を襲ってくる。オトナだったら酒でも飲めば解消できるでしょッ、っていう人があります。そんな生半可な程度じゃない。とことんどん底まで沈んでしまうようなコイツに襲われたら、自分というモノがすべて消えていってしまう。

そんなときは自室に篭もることが多かったです。椅子に腰掛けて本棚を見上げる。中国古典モノ、司馬さんのような歴史モノ、本多さんのルポ、などなど。どれもが私の踏み出す一歩にヒントを与え勇気付けてくれたものばかりです。そういう本を見上げて、何を考えていたのかねぇ…。

「わたしが・棄てた・女」は異色ですが、手に取ってパラパラとめくると、荒波の上にいた船が凪に入ったように心に静寂が蘇えってゆく。不思議な本です。どうして惹かれていくんだろう。

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>あの日も渋谷に雨が降っていた。
それは小説のなかのひとつの情景です。
都会の雨は冷たい。

(これを読んだ時代)
履歴書に書けない時代をアチラコチラで足踏みしていた私はつまりは卒業するのが少し遅れてしまって、恋人気取りだった人は私よりもひと足先に銀座の大手商社に入って働いてました。その子と月に何度か落ち合うために銀座をぶらついたことがあります。待ち合わせスポットの人ごみの中にいると溢れている雑踏が私を押しつぶしてしまうかのような錯覚に陥る。自分はトコトン孤独なんだ。たった一人の人だけを頼りにソコにいる寂しさを感じながら待ち続けます。

主人公の森田ミツも孤独だった…。

私はこの本を書店(古本屋)で手にしたあと、横断歩道を渡ったりしているときも、もちろん電車の中でも読み続けたのを憶えています。
遠藤さんを読みあさるきっかけとなった作品がこの作品です。ひとりの作家に集中して全作品を読むというようなことを私は滅多にしませんでした。ですが、遠藤周作さんという人の作品は結構片っ端から読みました。
今風にいうと「ライト」な感覚の小説です(軽小説)が、小説の軽い重いを認めても、主題はもとより作品の質にライトな感覚は何ら関係がない。立派な遠藤周作の代表作品だと思っています。

(ジュニアで書いたこと)
本棚にはこの本が何冊もありました。
街を歩いていて本が読みたくなってどれにするか迷ったらこの本を買うからです。
主人公森田ミツを通してひとつの生き方を提起してくれます。
イエスキリストとか愛という言葉を使わずに、人の心の本質というものに迫る。
あの日、森田ミツが歩いた渋谷の坂道にも霧雨が降っていた。
霧雨に遭うと必ずといっていいほど、私はこの小説の一場面を思い出します。

遠藤さんは、すごく茶目っ気のある人で、真面目なことを真面目に話すのがとても照れくさい人だった。
そういうこともあって、少しオーバーなホラをふいて自分を誤魔化してらっしゃった人でした。友人たちに「ホラ吹き遠藤」といわれてもそれはまったく悪い意味ではなかった。それを知りながらライトな小説を読めば、何ら「海と毒薬」の読後感と変わりがないことに気付くことでしょう。
| 2005-01-27 10:04 | 読書系セレクション |

◎◎

わたしが棄てた女

誰に読んで欲しいか。若者に読んで欲しいですね。

神島に行った時に、「今の若者は果たして潮騒のような恋愛モノに感動するかどうか」という話も出ていました。
「私が棄てた女」を読んで読んで感動するヤツがいるかどうかも、推測しがたいところですが、まんざらそんなに寂れてもいないんじゃないの、ってのが私の期待です。

古本屋で講義の帰りに----サボってではないことにしておこう----100円程度で買って、歩きながら読み、飯も喰わずに貪り読んだ一冊です。

あの日も渋谷に雨が降っていた。
そう、先日読んだ「東電OL殺人事件」も渋谷の街の裏通りだった。
わかるかなー、このやるせない感じ。

■NO[ 236 ] [ 2004-10-30 ]
私が・棄てた・女 遠藤周作
遠藤周作さんを引っぱり出しました。本棚にはこの本が何冊もありました。街を歩いていて本が読みたくなってどれにするか迷ったらこの本を買うからです。主 人公森田ミツを通してひとつの生き方を提起してくれます。イエスキリストとか愛という言葉を使わずに、人の心の本質というものに迫る。あの日、森田ミツが 歩いた渋谷の坂道にも霧雨が降っていた。霧雨に遭うと必ずといっていいほど、私はこの小説の一場面を思い出します。

| 2004-11-04 23:05 | 読書系セレクション |