宮本輝 錦繍

手紙形式(往復書簡)で物語は進んでゆく。その風景は、宮本輝がデビューのころに書いた大阪から段々と広がり京都の街まで移って来る。私が永年住んでいた右京区、嵯峨、嵯峨野、嵐山、太秦などが目に浮かぶ。地名こそそれほど出て来ないものの物語を読み進むにしたがってそこへと帰ってゆきたくなる。今度、実家に行ったら散策してみよう…と思いながら読んでゆく。

「前略 蔵王のダリア園からドッコ沼へ登るゴンドラリフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした」という冒頭は、数多くの読者を魅了し、当然私も例外なく惹き付けられてしまった。頭に焼き付いて暗誦できる人が、そこにもあそこにもってな具合だろう。

ああ、燃えるような恋がしたいね。そんな風に読後、呟いてしまうのだが、単に恋を綴った物語ではない。二十歳のころに読めば、二十歳の若者らしく純粋に人生を捉え、幾つかの苦難や悲哀を味わった人が四十歳を過ぎてから読めば、自分の人生を振り返りもって胸に手を当てて読めるのである。

往復書簡の形式に違和感を感じる人もあるようだが、宮本輝以前にもたくさんの人がこのような手法を使っている。読む人の心の中に、優しく届けられ、敷居も無く素直に落ち着いて読み続けることができる。
作品が短いこともあって、だから、夜が明けるまで一気に読んでしまったという人も多い。私もその1人だ。「決して平日には読まないでください」(笑)と言いながら薦めて差し上げるようにしている。

「春の夢」で哲之が「夢を見ていたときの自分と、目を醒ましたときの自分と、どこがどう違うというのだろう」と母の傍らで朦朧と考えている場面があった。宮本輝の頭脳のなかには、「泥の河」「蛍川」「道頓堀川」「幻の光」などのなかでも悉くこのテーマを物語のなかに滲ませて、その後の現在に至っても遠大なる提起として堂々と小説の骨にしている。

「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれない」
この誰にも結論付けることができず、将又、どのように解釈してもそこに正解も不正解も無いテーマ。錦繍が名作と語り継がれる大きな理由は、その哲学的な疑問を、誰にも心の片隅に持ち続けていて誰にも打ち明けたりしないような心の襞のようなものと一緒に、この短い小説の中で彼らしい波動に載せて綴ってゆくところにあろうか。

小説が放つその揺れに同期しながら引き込まれてゆく多くのファンは、最後の一節を読み終わってもその酔いから解放されること無く、ぼんやりとその本を見つめ続けるのだ。

(2005年12月31日に書いたレビューがあったのですが改訂・加筆しました。)

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この厚みの小説で
誰にも邪魔されずに
どっぷりと浸りながら 読むなら、
錦繍(宮本輝)
わたしが・棄てた・女(遠藤周作)

年末は、細雪(谷崎潤一郎)です、ってすでに書いたっけ。(老化か)
| 2008-12-21 10:10 | 読書系セレクション |