松本清張 黒い樹海

講談社文庫の表紙

2020年、東京オリンピック開催のニュースは多くの国民を釘付けにした。ちょっとそのときに(暇なので)、我が家の本棚の奥をゴソゴソとしていて、偶然に手にとった小説が昭和37年発行の松本清張「黒い樹海」だった。

昭和35年ころの東京が舞台。出てくる列車はもちろん(推測だが)蒸気機関車で、自家用車も少なく、都心から東京都の外れまでを車で移動するようすを「桑畑の中を突っ切って」などと書いている。

遠藤周作の小説を読んでいても世田谷の住宅街にはまだまだ沢山の自然に囲まれた里山があったことがわかる。武田百合子の「富士日記」にもその頃の自動車事情が伺える箇所が幾つもあったのを思い出す。武田泰淳は東京オリンピックの年に富士山麓に別荘を建て住み始めた。そのころのようすのわかる人が読むと、文学とは別に、ひと味違った面白みが楽しめる。

松本清張のこの物語は、複数の犯人候補のアリバイを崩しながら進展する。何しろ昭和35年ころの社会を舞台に、新聞社に勤務する二人の男女が犯人を探すために知恵を絞る。スタイルとしては非常に古典的な(このころは斬新だった)ものだ。

まだ一般家庭にテレビさえ普及していないころである。サスペンスではなく推理小説は市民にとって日常のオシャレで格好良かった余暇の読書ネタであったのかもしれない。戦前文学や明治文学に割って入り、後に確固たるステータスを得るこのような推理小説というものに新し過ぎて反発していた人も多かろう。

しかし、間違いなく人々は松本清張の創り出す、後に社会派推理というように呼ばれる小説に魅了されたことは間違いない。

おもしろい。 時代を超えて読んでもこれほどおもしろいものはない。

その後、テレビドラマや映画が数々の手法でこのジャンルの作品に挑む。確かに現代ではサスペンス物として冷めた見方ができるかもしれないが、作家の持ち味や苦心、意欲、知恵、工夫などがすべて盛り込まれている惹きつける力と面白みを備えた最高傑作と思う。

主人公とともに事件の真相に迫る男性新聞記者。これがまたある意味でちょっとダサくて、もしや真犯人ではなどと思った私はいかにも現代的な視点だったのかもしれない。

絶対に終章を最初に読まないでください。