井上靖 本覚坊遺文
井上靖は途轍もなくお固いイメージであるが、実はお茶目でちょっとヤンチャでもあったのだろうと、子どもの頃の自伝を読むとそう思う人も多かろう。

そして、彼はそんなカラーでありながら素晴らしい詩人であったのだ。その詩人が詩を書くことを一休みしたまま、純文学の境地を歩んで、70歳を過ぎてから(このパワーが凄いとしか言いようが無いのだが)「本覚坊遺文」を書き始め、80歳で「孔子」を発表している。

この「孔子」という作品は、座右に孔子様の像を置き、一時も孔子様から離れることなく、「師よ私はこの時何を思えばいいのでしょうか……」と繰り返し自問をするような重みを持っている。読み手は次第に居住まいを正し、静かに音読をしてしまうほどに心に染み通る落ち着いた文章で、作品は迫ってくる。詩人・井上靖の姿が瞼に浮かんだ。

この「本覚坊遺文」においても同様のことがいえよう。

井上靖は、実は70歳を過ぎて人生をしっかりと見つめて、振り返るべきところを抜かりなく振り返り、展望すべきテーマを諦めずに70歳をお迎えになり、この作品を書くことで、利休という人の持っている哲学をもう一度見なおして確証を掴もうとされたのであろうか。私は作者の研究者ではないし文学を究める者でもないので、作品とその作風が読者に与えた印象だけからそんなふうに感じたのだった。

ただ、(多くの作家が)利休を振り返ることは、伝記を綴ろうとする作者自身までもが死を見つめねばならないほどの凄みがあるのかもしれないとも感じる。利休とはそういう人物であったことが伺える。だから、そのような只ならぬものを感じながら、本覚坊の自省を伴う沈思のなかで生まれ出る利休の姿に、読者は直に触れることができる。

侘数寄の思想や茶湯の世界という全く無縁であり学んだことも触れたこともない美学に触れてゆく作品を選ぶことは、読み始める前にあっては、全くの非常識で無謀であった。しかし、利休の心のなかを流れていた熱い思いを、この作品が染み入るような井上靖の美しい言葉で私の心に届けてくれた。

人生を見通して、人間の美と美でないところを見極めることのできる年令になってから、みなさまも読まれることお薦めしたい。

「本覚坊遺文」や「孔子」は、井上靖自身のこの上ない伝言ではないでしょうか。そう感じます。