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忘れる準備 - 井上荒野著「切羽へ」

言葉になんの気取りもなく、キザなことも何ひとつ書かない、淡々とした男性的なモノを感じながら、ゆっくりペースで読み進んだ。この作品にはこういうノロさがイイな、と自分で納得させながら。

井上光晴のムスメさんだとは全然知らなかった。それよりも先に文学部出のウチのムスメが朝日のコラムエッセイを見て、この方に注目していることを教えてくれ私も荒野さんのことを知った。

作品は特別に詩的でもない。着飾ってもない。しかし、こなれた文筆力の様なモノがあって、同じ直木賞の熊谷さんなどとは正反対の滑らかさで、ちょっと魔法にかけられてゆく様な感じ。

文庫の背表紙の解説が邪魔だ。営業とか読者数字など気にして欲しくない。詰まらない読者や詰まらない数字を稼ぐことなく、決して人気者にならないで欲しい。文学ならば読み始めれば分かる。

作品は、作者の詩的風味とは全く逆に、随分と詩的でありながら古典的風味を持つ完成度を放っている。詩篇を物語にしたようにキラキラしている。

でも、チャラチャラしたものはない。どっしりと、じっくりと、さあ、というか感じ。だから、急いで読もうとしなかったのかも知れない。

恋愛小説ではない。もちろん。いろんなところに、形を変えたテイストが散りばめられている。でも、ドキュメントライターだって事件の成り行きを一部始終書けるわけないのだから、そのあたりにも美的で詩的なところがある。言葉に着飾りもない。

物語は激しくなく、面白くもなく、期待通りでもなく。でも、それが期待だったのか。でもでも、本当は、激動だった。わたしの想像が正しければだけれど。

わたしは小説家ではないのでその作法というモノはまったく想像の域を超えているが、主人公が住む島に作者を重ね合わせてしまうのは誰もが同じだろう。作者という人物を知らないし、身近に感じる手応えもないので、物語はあくまでも小説なのだと、つまり、自伝や実話ではないと、思うことにしている。

作家というのは不思議な能力を持ち、現実と創造の狭間をアレンジして立体化してしまうから、真似たくても真似ができない。だが、現実の出来事に勝るスリリングで熱情に満ちた物語はこの世に無いと思うだけに、物語の出来映えが期待以上であればあるほど、それは幻想ではなかったのだと思いたくなる。

まあ、でも、どうだっていいの。詩的を装うことなく詩的だったことが嬉しいのだ。わたしは。

忘れる準備。日常。
お互い。揺れる。空間で絡む。

わたしは、サイドノートにそう書いて残している。そう、この物語には本筋などなく、全ては思わせぶりだったのではないか。その、時空をわたしはわたしの想像で彷徨えた。

夏が過ぎ秋、冬が終わり、
ストンと消える。
照れのようなもの。

きっと作者は照れ屋なロマンチストなのかも知れない。