福永武彦 死の島 (再読前) その1

この素晴らしい作品が、絶版だなんて。
儲かるとか儲からないとかいうまえに、出版業界の使命として、国民に提供するべき作品でしょ。
死の島

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すべてがそんな状態だから、何ごとを選ぶにしても、薄っぺらな判断力しか活かせなくなってきているわけでしょ。

世の中の人たちが、正札と能書き書と、あてにならないオススメ評をたよりに、モノを選んでゆくと、きっとどこかで歯車の合わない事態がやってくる。

耐久消費財でも
イデオロギーでも
政治でも
何でもかんでも。

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読み終わるのは、随分と先になるでしょう。
<その2>は忘れたころに、あっちのブログで。
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福永武彦 死の島(上・下)  その2

その1に続いて

感想文は書きかけなので、レビューとしては、またいつかまとめますが、ひとまずメモ程度に。

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福永武彦は、1979年8月13日に亡くなっている。私はこの「死の島」の文庫(上巻360円、下巻320円)を買ったのが12月6日と裏表紙にメモ書きしいていることから、もしかしたら彼の死のニュースを聞いて頭の片隅にそのことを置きながら年末に買ったのかもしれない。煙草一箱100円の時代だから、300円は安くはなかった。

キリスト教の作家や戦後文学といわれる作家を読み漁っていた時代だった。どのような順番で福永武彦に到達したのかわからないが、忘却の河を読んで草の花を読んで、それから死の島に辿り着いたのだと思う。

このときはまだ22歳になったばかりで、学生時代の有頂天の真っ盛りであった。この後24歳まで学生時代を過ごすのだが、果たしてそんな青春の真っ盛りに、福永武彦が読者の人生を変えてしまうほどの威力をつぎ込んで書いたのかもしれないこの作品に、私はどれほど刺激を受けていったのだろうか。

文学とはまったく関連のない学部であったので、読後の感想であるとか福永武彦論を述べる必要はなく、お気楽に文学を読んでいるのだという自己満足に浸っていたのだろうか。

今となってはどのように感じながら読み進んだのかは不明であるが、彼の書く小説作法には相当に影響を受けたことは間違いなく、忘却の河の感想を書いた時点でも、もう一つの自分が居るのではないかというほどに考えさせられているのが伝わってくる。

30年以上のブランクで再び「死の島」を読む。現代の本屋にこんな本を高く積み上げても誰も買わないだろう。大きな影響を受けたともいわれる村上春樹の小説を、巧妙な魔術のようなコピーと煽りでベストセラーに持ち上げても、福永武彦はそう簡単には売れないのかもしれない。今の読書人の持ち合わせている、インスタント食品でも美味けりゃ上等だというような感覚に似た、また、美味いか不味いかわからないけどみんなが美味いといってるから、というような感覚の人たちに、福永武彦がわかってたまるか。

面白いと思えるはずがない。

絶版。

私は★を5つ付けます。
ほかの皆さんの真似をしたわけではありません。

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一部を引用します。
読書部にも書いたけど、また違った人の目にもとまるといいのになと思い、ここにも貼っておきます。

死の島。

(上・P268)
小説というものが己の内心の願望の現れであるかのように、まるで祈りのように、己はその架空の世界に、かくありたいという己の夢をありったけ託して、それによって己自身の不安からも逃れていたのだ。

(下・P124)
もしも時間というものが或る一つの点から別の点へと流れて行く流れであるとするならば、初めと終りとは必ずあるだろう。しかしわたしにとって時間というものは或る一つの平面の上を繰り返してじぐざぐに動いている線にすぎず、或いはまた限られた空間の中をぐるぐるまわっている曲線にすぎず、それらの線の動きの間には幾度も初めがあったし、終りもまた幾度もあっただろう。わたしにとって初めと終りとは結局は同じものにすぎず、わたしは螺旋を描いて同じ地点を繰返し繰返し通り過ぎ、いつでも死を通り越して歩き、二度も三度もその同じ地点を通り、そうやって往ったり来たりすることでわたしの時間を所有してきたのだ。それがわたしの時間なのだ。

(下・P441)
人は眠りから目を覚まして、どういう夢をみていたかを思い出すが、しかし思い出さない夢もたくさんあるのだ。必ずしも全部が全部思い出されるとは限らないし、思い出したつもりでも、すぐまた忘れてしまう夢もある。とすれば大事なことは、夢を見ることではなく夢を思い出すことだ。単に見られつつある夢というのは幻影にすぎない。見た夢でなければならない、ということだ。夢はそれを見つつある現在に於て、あらゆる夾雑物を含む混沌としたアマルガムだ。それは僅かばかり砂金を含んで流れて行く河の水だ。問題は川の水に手を涵していることではなく、そこから砂金を採取することなのだ。

(下・P443)
それが小説を書くという行為ではないのだろうか。小説もまた、恰も我々の見た夢の破片を我々が思い出すことによって夢が成立するように、現実のさまざまの破片を思い出すことによって成立するのだ。思い出すということの中には、無意識の記憶もあるだろう、無意識の願望も含まれるだろう、もっと暗く混沌とした暗黒の意識も含まれるだろう。思い出すということは殆ど想像するということと同じだ、しかし小説によって、己の「小説」によって、死者は再び甦り、その現在を、その日常を、刻々と生きることが出来るだろう。己の書くものは死者を探し求める行為としての文学なのだ、いなそれは死そのものを行為化することなのだ……。

| 2010-03-07 22:32 | 読書系セレクション |
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福永武彦 死の島 (その3)

その2につづき その3

さまざまな感想があるようですが、それらを読んで、文学者というのはオモシロイ人たちだな、という感想のほうが先に出てきてしまいます。いきなり失礼なことを書き出して、文学(ブンガク)のご専門の方々を不愉快にさせてしまったかもしれません。

まったくの文学は専門外で、社会人になってからも悲しきかな三角関数や代数幾何学、微分積分とか、こういう無機質なものとお付き合いをしていながら、小説とか文学作品に遊んでもらって暮らしてきました。

だから、ブンガクのみなさんが、ブンガク作品を、また熱烈な読書家の方(や可哀想に読書中毒になった方々も)、作品のことをやいやいと理屈付けておられるのを読むたびに、一般的表現で言うと「引いて」しまうわけです。

これらの遠因は、高い教養レベルを実現し多くの知的文化人を育成しようとする現代教育の賜物なのでしょうか、ブンガクとか読後感想をひとつの囲いに包んでしまって近づきがたいものにしてしまった感もあります。

もしかしたら、福永武彦が読者に投げつけたかったものは、そういう一面性をもった読者たちへ向けたものでもあったのかもしれませんが、私は言葉の遊びの感覚を少し発展して変形させくらいに捉えて、誰にも読まれないかもしれない詩集を福永武彦がひとりで長篇に編み上げ直しただけのようにも思えてきて、これは彼の自己満足の集大成なのではないか、とさえ思うのです。

しかしながら、作品としては、誰もが★五つも進呈するほどのものにふさわしく、どの数行であっても読者を魅了する。いや、私は魅了されたのではなく、一種の催眠術にかかったように取り付かれてしまうのでした。他のどんな作家にもない不思議な力で、惹かれ過ぎて疲れると池澤夏樹のカデナを読んでいたり、宮本輝をぱらぱらと見ていたりするのです。別に死の島なんて最後まで読まなくてもええわと思いながらも、何ヶ月も掛かって読み終わってしまったわけです。

良質のフルコース料理を戴いているような感動。これはこの作品を読んで共感できる人にしかわからないものでしょう。絶版になってしまっているのは、単に読者が減っているというだけのものでもないと思いますが、TVでいうなら視聴率狙いのようなばかげた作品を賛美する時代だからこそ、こういうバランスの取れた、作品をまだ知らない人にささげたい。

| 2010-03-10 10:51 | 読書系セレクション |