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【- Walk Don't Run -】

2016年1月16日 (土曜日)

センター試験 小正月篇

センター試験のニュースが流れている。
わたしのころはセンター試験などはなかった。
二期校の受験生は3月20日過ぎまで頑張り続けた。

 

思い起こせば受験時代は人生の真冬であったのかもしれないが
赤々と燃え滾っていた情熱的な時代だった。

 

 

平成28年から新しいステージ(わはく(秘)伝)に移ります

 

年のはじめに考える

変化しゆくもの 小寒篇

見てわからん者は聞いてもわからん

 

2015年11月14日 (土曜日)

手が見えて父が落葉の山歩く 飯田龍太

手が見えて父が落葉の山歩く 飯田龍太(昭和三十五年)

飯田龍太のこの句に出会ったのは最近のことでそれほど深い意味もわからず静かな落ち葉の公園の遊歩道のようなところを想像していた。

然しのちになってもう少し深い意味があるのではないかと思い立ち評論や引用などを手探りで辿ってゆくと、今度はわたしの文学の知識や資質を大きく上回るような解説が出てきて、これはこれは大変偉大な作品に出会ったのだと密かに喜んだのだった。

手が見えて父が落葉の山歩く(昭和三十五年)

[自選自解 飯田龍太句集]の解説から

<実景である。早春の午下がり、裏に散歩に出ると、渓向うの小径を、やや俯向き加減に歩く姿が見えた。この季節になると、楢はもちろん、遅い櫟の枯 葉もすっかり落ちつくして、梢にはひと葉もとめぬ。乾いた落葉がうずたかく地につもる。しかし、川音でそれを踏む足音はきこえない。明るい西日を受けた手 だけが白々と見えた。くらい竹林のなかから、しばらくその姿を眺めただけで、私は家に引き返した。この作品は『麓の人』のなかでは、比較的好感を持たれた 句であったようだ。しかし、父が、これから半歳後に再び発病し、爾来病牀のひととなったまま、ついに 回復することが出来なかったことを思うと、矢張り作の高下とは別な感慨を抱かざるを得ない。いま改めてその手が見えてくる。父は生来、手先は器用の方であった。>

昭和三十五年の秋といえば、わたしは3歳になるときのことだ。父はもちろん祖父も元気であった。
母がいる実家の押し入れには、おそらく、わたしが父に肩車をしてもらって祖父と並んでお伊勢さんの鳥居の前で撮った写真が残っているはずで、それがそのころのものだ。

伊勢まではどうやって行ったのだろうか。
写真には書き添えられてはいないが、ディーゼルカーはあったのかどうかもあやふやで、蒸気機関車が普通に長い長い客車を引いて走っていたころのことだから、汽車かもしれない。近鉄電車にも乗っただろう。

父も祖父も重苦しい外套を着てカメラに向かって最高の顔をしている。

三十歳に満たない時代は誰にでもあった。わたしは自分が子どもである写真よりも父と祖父がここにいることに大きな価値を抱いている。

祖父は二三年後に亡くなってしまう。わたしには祖父の記憶がある、と思いながらそれは遺された数少ない写真を見て作られたイメージであるような気もする。しかし、5歳ほどなら記憶があっても不思議ではなく、何となくであるが祖父の葬儀に参列しているような像も頭の片隅にある。

子どものころは事ある毎に父に肩車をしてもらったものだ。今の子どもたちがお父さんに肩車をしてもらっている光景をあまり見かけないのは何故だろう。高く突き放す感じよりも子どもを大事に抱きかかえる動作のほうが日常になったからかも知れないと推測したりしている。子どもは宝なのだがある一面で抱きかかえ過ぎていることの象徴のようにも思う。

父も祖父もいなくなりわたしが父という立場から祖父へと代わる時がもうすぐに来る。

そんなこれからのかずかずの光景のなかで、ほんの少しでよいからこの句の「手」のようにありたいものだと思う。

祇王寺にて

2015年11月 2日 (月曜日)

霜月ときいてぬるめの燗をする 

霜月というといかにも寒さがただよう。11月の初日は日曜日で、ムスメが美容室に来るというので駅まで迎えに行った。もう一回、お正月ころに切ったらそのあとは子どもが生まれてそれどころではなくなるだろう。髪を切ったり何か出来事があったりしながら季節はこつこつと過ぎてゆく。

Photo冬の寒さは嫌いではないものの、カラダの動きが鈍くなったり動き出すのが億劫になったりするので、少し自省の気持ちも出てくる。しかしながら、ぬくたい布団のなかでひとときを過ごすのも快感だ。

時間がもったいないと思ったころもある。そんな時間を過ごすならば読書をするか、何か外で行動でも起こす、日記を書こうかなどと忙しい心に責められていたあるときが懐かしい。

今は「これでいいのだ」という精神で生きている。わたしの父はまさにバカボンのパパと同じような雰囲気を持った人であったなあと、亡くなって年が過ぎるごとにますます痛切に感じる。

ぬるめの燗。

霜月という言葉をきいて「ぬる燗」の酒を思い浮かべた。日本酒を飲まないくせにこの季節のピリッとする寒さを連想させるには持って来いな言葉だ。

わたしはこれまでの人生で日本酒をほとんど好んで飲んでこなかったので「ぬるめの燗」の旨さは知らないし、今でもそのような域には到達していない。

ムスメが嫁いで居なくなってから二人でお猪口に二三杯ほどのお酒を飲むことがあるものの贔屓の酒に出逢えたわけでもない。味わいが酒それぞれに少しずつ隠れていて個性の幅が大きく、私のような者でも味わいやすい面をそれなりに愉しむ。

味は極めるほどにはわからない。それでいいと思っている。

ムスメさんの夕飯の写真がLINEで送られてきた。(おゆうはん

旦那さんはお酒を飲めない人なのだが飲み会があるとわりと楽しそうに出かけていくそうで、深夜の帰りを待ちながら、そそくさと簡単に一人ご飯をいただいたらしい。

わが家はおでんだった。

しらたきという関東風のこんにゃくみたいなのが食べたいと言って買ってきて冷蔵庫にしまってから二度おでんをしたけども二度とも入れるのを忘れてしまったらしいうちの人。

よほど馴染みがないのだと思うとますます食べたくなってくる。

2015年7月30日 (木曜日)

モナリザ

モナリザがあったのをふと思い出した。もちろん安物の壁掛け用である。

それがあった部屋は応接間という設定で拵えたのだが、農家に応接間など必要ないのでわたしの第二勉強部屋にしたような記憶がある。

18才で家を出てしまいそのあとは弟が使ったか、それとも誰も使わずに放置したか。

壊す直前には物置になってしまっていたかもしれない。

その部屋の壁に、ポツンと小さなモナリザが飾ってあった。

今思うとあれは父の嗜みの1つであったのかもしれない。

いや、父はそれほど多趣味ではなく、晩年は木を掘ったり絵を描いたりしていたので、その源流に当たる大切な嗜みであったのではないか、と考えて間違いはない。

もうひとつ思い出すことがある。

実はそのモナリザを模写したモナリザが家にあったような気がする。

なるほど、父ならやりかねないことだと今になって思う。

曖昧に記憶を呼び起こすと、その模写は似てもにつかないような下手くそなものではなかった。

決定的にニセモノだと直ぐにわかるものの、何となく優しい タッチの気品の溢れたモナリザだったような気がするのだ。

そのころの私は絵に対する関心などこれっぽっちもなく、可愛くない息子だった。

ワシの描いた絵を見てもくれない、とさぞかし父は哀しかっただろうと思う。

今ならそんな素気ないことは絶対にしないだろうに、あのころは理解をするチカラがなかった。

父は、ゆうはんを食べると一人で自分の部屋に行って絵を描いていた。

どんな気持ちで描いていたのか、考えたこともなかった。


こんな日記を書いてペンを置いてから幾日かが過ぎる。

形にならない思いが巡ってきては何処かに消えてゆく。
それは、父の本心に触れる思いのことであり、届かぬ思いに対するため息でもある。

つまりは、何も父のことを知らなまま、しかも死んでしまってからもそのことを掘り越すこともできないまま長い年月を費やしてしまったことをわたしは後悔しており、それを弁解し、懺悔しようとしている。誰かに向かって、というわけでもない。

モナリザを飾ったり父が絵を描く部屋(それはわたしの高校時代までの勉強部屋)のあった建屋を壊して処分してしまったから、あのモナリザやほかの 絵、そして父の持ち物であった彫刻道具も処分して消滅させてしまったことを後悔しているのだ。その佇まいを記録するための写真も撮っていない。

こういうことを思い出すたびに、何をうっかりしていたのだ、と自分を問いただしてみるが、壊して今は砂利を敷いて庭にしてしまって井戸だけが残っている。あの部屋で何を考えてどんな時間を送っていたのかを巻き戻すことは不可能で、もはや救いようがないのだ。

模写したモナリザに価値はなかった。しかし、わたしは父から形見として貰ったモノなど特に何もなく、たった1枚だけ、村のはずれの河原の景色を描いた絵が一枚玄関にあるだけである。

もしもモナリザがあれば、わたしの宝になるのだが、棄てたのか、母がどこかの押入れか空き部屋の隅にでも積み上げているのか。不明なままだ。

まだ書き足りないような気もして、足したいけど、ちょっと休憩とします。つづきはあとで。


モナリザ 秘伝篇

2015年3月 2日 (月曜日)

全力で生きてきたか

❏ 80年代後半の頃

▼結婚したばかりのころは無我夢中だった。誰もがそうだろうと思う。だが、よく考えると無我夢中というよりも、自分勝手なマイペースであったともふりかえれる。

▼現代の子どもはかなり完成さた形で社会に飛び出す。精神的に子どもであったり知識が欠乏していることは基本的な有り得ず、日常最低限の必要条件は揃っている。万一の事態でも誰かに助けを求める機知などもあるはずだ。学校で学ぶ知識で法律的なことや社会構造も学んでいる。骨太で独り立ちするといえよう。もちろん未熟な面もある。未熟さがあるゆえその部分に枝・葉や肉をつけていくのだし、その過程でその人の持ち味を発揮するチャンスが巡ってくるともいえる。

▼怪我もせず痛い目にも遭わずにいってほしいと願う。不運なくまっとうに生きていけば、仕事の失敗もせず、人に騙されたり陥れられたり裏切られたり、金銭的に失敗をしたり大きな損失を抱かえこんだりすることなく、社会人として生きてゆく。これは、簡単そうでありながらそうたやすいことではないかも知れない。その暮らしの中で、わずかでありながらも貯蓄をし資産を蓄え、人付き合いもこなし社会の中の1人前になってゆくのだ。

▼結婚をして子どもができるまで3年半ほどの間に、二人の新婚生活から人生設計までを考えたのかどうか、今になって回想すると怪しい面もあるものの、未来にはどうなりたいか、どんな暮らしをしたいのか、どんな仕事をしていたいかなどと、思いを巡らせていた時期がある。夢は多様化して時々刻々と揺らいでいた。その一瞬を切り取って方向付けたのが現在であるのかもしれない。だが、運命とはそんなにもケーキを切るようにさっぱりとしたものでもないかもしれない。

▼二十歳後半から三十歳ころまでは仕事でも遊びでも忙しい時期であった。感情も激しく、チームの上司ともなかなか歯車が合わずにヤケになったり、自分の無力に気付かされたり、不運を羨んでみた時期もあった。あとで考えれば歯車を合わせる手法を変えれば違った結果があったかもしれないし、思うようにいかない人生であっても考え方や視野を広げれば違った作戦も生まれたかもしれない。そう言ってはみても、所詮わたしの器には限界があったであろうし、怠け者の性格は死ぬまで治らないのだろうから、おしなべて幸運に生きてこれたというのがまっとうな反省姿勢ではなかろうか。

❏ デジャヴュ

▼書き尽くせないことは山積だ。だがそれは、誰の眼にも耳にも入ることなく、誰にも注目されることなくわたしの日記の片隅で消えてゆく。それでいいのだろうし、そんなものだ。ただはっきりと言えることは、消えてしまうような事件であっても、同じ血脈を受け継いだわたしの後世の誰かは間違いなくデジャヴュ的に同じようなことを感じたり体験したりするに違いない。時代や文化は変わっていても再現するような気がしている。

❏ 関西支部

▼30歳くらいのころだった。大学同窓会の関西支部の幹事をF君が担当していて、そのつながりがあって支部総会に出席したことがあった。それまでは大学の同窓会など興味もなく面白味も感じなかったが、このときに総会に出席して世の中の先輩に会い、社会に触れることができた。凄い人たちが先輩にいるのだと知って自分もそんなところでおちおちしてはいられないと感じたのだった。

▼TV局の部長であったり関西の総合電機メーカーの取締役などの肩書が並ぶ同窓会に、1人のヒラの私が顔を出して、それは腰が抜けるような思いだったことを覚えている。会食の席でも、見たことのないような高級料理が、私にしたら幻の料理が次々と出てくる。「キミらに金の心配をさせるようなことな何もない。腹いっぱい食って帰ってくれ。僕らはそんな心配させるような給料で仕事なんかしとらんわ」と堂々たるものだった。私も大物にならねばアカンという思いがじりじりと沸き上がってきた。

❏ 人生を見つめなおす

▼あのときに自分の考えが刺激を受けなければ京都の会社は辞めなかったかもしれないし、もっと沢山の給料をくれる会社が世の中にあることにも関心を示さなかったと思う。ツマから見れば、私は荒波の大海に漕ぎ出そうとしていたのだから、恨むのも無理は無い。⭕️か❌をいえば❌であったかもしれない。しかし、マイナスにばかり考えるのもよくないだろう。人生なんてのは結果論でしか語れないのだ。

▼いつかは大きな家を建てて暮らそう。のんびり幸せに暮らしたい。一生懸命に勉強をして賢く教養のある子に育てて社会に飛び出せる子どもになって欲しいと心の片隅で願った。ツマとは仲良く楽しく人生を送りたいと考えた。(つづく)

2015年2月 6日 (金曜日)

心に鬼を棲まわせる ─ 節分はチョコを食べて・立春篇

新・写真日記(27)

今年のバレンタイン 家族で食べるチョコ   今年のバレンタインのチョコ(家族用)


▼鬼は外 得体の知れないキミを呼ぶ

節分の夜に帰りの駅で鯛焼き(おめで鯛焼き本舗)を買って帰った。
ムスメさんはいつもと同じように残業で、二人で先にお夕飯を食べた。
豆も買ってあったのでストーブで煎って食べた。
子どものころは式台のところで真剣勝負の豆まきをしたものだ。

鬼なんてものは得体のしれないものじゃないのだ、と常々思っている。
おとやんと暮らした子どものころは、世界で一番優しかったであろう父(おとやん)のことを鬼の化身などと考えたこともなかった。

逝って、姿を消してしまってからは、「心に鬼を棲まわせる」と言葉にしてはおとやんを思い出す。

▼神様は春の支度で留守がちで

結婚式のあれやこれやで忙しい。
わたしは何もしないで晩酌をしながらメソメソするツマを慰めているだけである。

▼立春に残った豆を二人で食う

今月から二人で暮らす生活に戻る。
ただそれだけで変わりなし。
そう考えているのだが、どうなるのだろうか。

▼雪まじりの予報を聞きながら寝る

4日(立春)の夜には、雪予報のニュースがひっきりなしに流れた。
5日の朝は春間近を思わせるような雨降りで、それも午前中にあがってしまったみたいだ。
温かい寒の明けです。

▼水たまり雨空映して寒の明け
朝の快速に乗るときにこんなメモを残している。

2015年2月 1日 (日曜日)

二月初めに考える − 三十年前の私と三十年後の私

▼「三十年前の私と三十年後の私」と手帳に書いてときどきチラチラと見ては考え続けている。
▼結婚をしたてのころは自信に満ちて生きていた。しかしその実態は未熟に満ちていた。未熟であっても自信と目標が見えていればなかなか堂々と生きてゆけるものなのだ。どうやらそうらしいことを実証している。
▼目標は決して正しかったとはいえないし視点も視線も視座も褒められたものではなかったのだが、世に言う「若さ」のパワーであったのだろう。皆様のお力を最大限に借りながら生きてきた。そのときには借りていることなど微塵も知らずに身勝手な人生道を歩んできたのだから甚だ恥ずかしくて思い出すだけで赤面である。
▼パーに生きることの悪い面をパーな会社で尽く学び人間として生き抜く哲学に自信を持てるようになった。しかし、多くの未熟さを残したままで(人より何事においても数年遅れているから)新しいステージに挑むことになった失策に反省点もある。ただしそれを自らの戦略不足と認めなくてはならない。失策を否定してもいけない。一連の判断には後悔をせず、自分の脂質や器を認めることも大切だろう。

▼さて、ムスメが結婚をして出てゆくので再び二人になる。そこで、タイトルに書いたように三十年という大きな時間で人生道を考えてみたいと思った次第である。ツマはメソメソとしてばかりいるのだが、それは仕方がない。しかしながら、28年前に子どもが生まれたときにこの日が来ることを明るい夢として願ったのだし、その結末を心に決めたのであるから、筋書き通りではないのかと自問をする。母という立場であるゆえに、自問の答を掴み取ることに迷いがあるのであろうか。

▼わたしたちは三十年後を見つめなくてはならない。そう考えている。たとえ生きていられる保証がなくとも、下書きは完成させておかねばならないと思う。
▼目標に向かって物事を収束させようとするときに大切なことは幾つもある。どの要素が欠落しても制御は狂うことが多い。目標に向かう道のり、手法、戦略、戦術はもとより、過程での計画管理、進捗状況把握、軌道修正法、想定外の対処方法。それに加えて、自分の強い意志と確固たる目標ポイントの設定など、挙げればキリがない。
▼先日中学以来の友人と話をしているときに私が随分と年寄り臭くなったのではないかと指摘された。ざっぱにいえば反体制の声高らかだった若き頃と違い現状に歯向かわないような優しい考えを口にすることが多くなったらしい。決してそんなに考えが急変しないと思うものの、モノの道理をみて先読みをしてしまう傾向は増してきたかもしれない。たとえ損をしても正論を通すというような心から、出来る限り正論を通したいが正論は何故生まれたのかを考えてはどうだ、みたいな少し引いた人間になってきたのだろう。
▼三十年後に生きていたいとは思っていない。夢を描くこともない。そのころの社会が今と違って間違った方向に行ってしまっていたとしても、それは長い歴史の延長であり今の人々がコントロールして道を作るものであるから私がとやかく言うものでもない。わたしの子どもや家族が不幸せであったとしても、それは自分たちで作った社会なのだから仕方がない。
▼どうすれば社会が良くなるのかを考え、みんなの役に立つような人間になってもらうように、自分の受けた御恩は必ず社会に返すように、そういうことを伝えるだけでわたしの言いたいことは特にない。あるとすれば、わたしの足跡を(ここの筆跡を)時間があったら見て欲しいということくらいだ。(わたしが)周囲の如何なるものに刺激を受けてどのように変化してきたのか。何事においても、物事の変化を捉えることが非常に大事なのだから。
▼およそ三十年前にわたしは結婚をしてムスメができた。そのムスメがこの春に結婚をしてわたしは再び昔に戻る。ムスメは三十年後わたしと同じような子どもを持ち何かを考えるだろう。わたしにはそのことは想像できないし、ましてや口出しもできない。今のところ生きていて見届けたいというような願望もない。

2015年1月23日 (金曜日)

死に際の一週間

21日に小さなケーキを母に買っていった。誕生日だからケーキなのだが、長い人生でもお祝いにケーキを持参することなどは殆ど稀なことであった。

喜んでいたのかどうかは計り知れないものの大切に冷蔵庫に仕舞っていたのであの夜かあくる日にでも食べただろう。

22日はおとう(父)の命日で、67歳を目前にして逝って以来初めて迎えるひつじ年だ。年月は早く過ぎると言いながらも、たっぷり、じっくりと84歳まで辿り着いた。

ストーブにあたりながら死ぬ間際の話になった。

「痛い思いも辛い思いもしないでストンと死にたい」
「夜眠ったら朝には冷たく息が止まっているような安らかで突然の死がいい」

というようなことわたしが言うと母は即座にそれを否定して

「一週間くらいはしんどくても死に際らしい終わりを送りながら大勢の人に次々と別れを交わしてから死にたい」

そんなことを言うので些か驚いたのだが、年寄ると死に対する恐怖もあろうと思うものの、世話になった方々ときちんと儀式を交わしたいと考えてのことだろう。一週間くらいは生きていて、といいながら、心臓が子供の頃から弱いので心臓麻痺で死ぬと思う、とも話していた。

阪神淡路大震災、オーム真理教事件と事件や災害が起こる直前の師走に大腸のまわりを切れるだけバッサリとやってもらった大腸癌だったが、再発もなく生きてきた。「命拾い」とはあのようなときに使うのだろう。両手サイズほどの大きな肉のパックを見るたびに、あのときに切り出して医者が見せてくれた肉の塊を思い出す。

葬式は派手でなくとも立派な墓でなくともいいと言葉にしたりしながら覚悟を自分に言い聞かせているようである。まあ、墓は粗末では済まされないし済ますこともないから心配しなさんな。

せっかくここまで生きてきたのだから、まだまだ生きて欲しいし、願いを最後に叶えるならばそんな一週間を贈ってやりたいが、魔術師でもないわたしだから祈るだけである。

一方、父はこの22日に逝ったのだが、最後に言葉を交わしたのがいつであったのかとかとかその言葉がどんなものであったのかさえ全く記憶にも記録にもない。母のときはきちんとしなくてはイカンと思っている。

2015年1月14日 (水曜日)

おざなりの まえがき

まえがき

わたしが父から何も聞けないままで父を失ってしまったことと
父には隠されたわたしにない魅力があったことなどが
引き金になってこうして父のことを回想することになる。

しかしそれは叶わぬことであったため
推測ばかりの纏まりのないものとなり、
わたしの夢の実現のための語りのようなことばかりを
綴ってしまうことになっている。

わたしの子どもは
わたしにはさほど興味を抱かないだろう
と思う。

子どもというものは
親の生い立ちや学業成就の苦労などに興味を示さない。

特に、
知り合いや親友や自分の家庭を見渡すと、
子どもというのは親の学生時代のことには
あまり関心がないようだ。

田舎人間であるし、
往々にして貧しいことが多いので
興味がわかないのも理解ができる。

しかし
子どもというのは
過去をじっくりみるよりも
未来を夢見る方が幸せだから
過去など振り返らないのだ。

それでいいのだろうと思う。

20111111tokyoyusimaimg_0028

そんなことをメモに書いておいてから1ヶ月余りがすぎた。

来月初旬には結婚式を済ませて、
新しい住まい(旦那さんの部屋)へと
出て行ってしまう。

そして1ヶ月もたたないうちに
二人に異動の辞令が出る。

人生とはそうやってトントン拍子に進むのだ。
振り返る暇などない。

それでいいのだ。

2015年1月13日 (火曜日)

寝巻の紐

▼寝巻きの紐

括り付けられて、叩かれたものだった。
「もうしません」と泣いて謝ったものだ。
小学生のころは、地震や雷や火事よりもオヤジが怖いのだ。
そういう状態であることは、時代が変わっても普遍性を保ってねばなるまい。

▼体罰

体罰がすぐに話題になっていた。
ツイッターやらブログで勝手に思うところを世間の人間たちは言い放題の時代になっている。
先言ったモンが勝ちとか、声が大きい方が正しいとかいう問題では無いのだが、まあそれに近い。
子どもは叱って育てるよりも、褒めてあげたほうが良いという声が一面的に大手を振っている。
反論は萎縮しているのだろうか。
みんなが「右向いて右」で、正しい方法や答はひとつなのだろうか。
おかしいんとちゃうか。
体罰のどこが悪くてどうしたら良くなるのかはっきり言えないまま「右向け右」かよ。

▼体罰2

── もう、手に負えんようになったなあ
そんな話を父と母がしていた或る時間を思い出す。
人権問題というものがクローズアップされている。
それは正しいことで良いことだと思う。
人権を蹂躙されて世の中で蔑まされて生きてきた人たちは大いに救われている。
そのことに異論を唱えるつもりはない。
子どもというものは、一般社会人として手離れをするまでは、気持ちの上ではまだ親の身体の一部であると思う。
いわゆる目の中に入れても痛くないものなのだ。
火事場に身を投げ打って子どもを助けにゆく本能を見ても自明だ。
重篤な病や臓器の疾患の治療のために親が自分の生きた身体の一部を提供するという事実もある。
この時の子どもの身体と体罰を受けるときの子どもは同じ身体だ。
体罰を罰という暴力という色に塗り替えてしまうのが、現代社会学の人権論であろうか。
数学や物理学を学んだ人は、受験時代には1つしかない答えを求めて競い合う。
あるときにこの分野を極めると「答は幾つあっても構わない、物事は多面的に見て多次元尺度で解析してこそ真髄に迫れる」という考え方とも出会う。
人権が提起する体罰についても、同じ尺度で見たり一方的に避難するだけでは本質的な解決にはならないだろう。
体罰の哲学の誕生から考え直すことが大切ではないか。

▼自立

叱られなくなった頃がある。
自立の頃だろう。
子どもはそのとき初めて身体が親から遊離するのではないかと思う。
私の場合はお馬鹿だったので、そののちも、時の流れを堰止めることもできずに勝手気ままに生きてきた。
多くの人に世話になって、またあるときは叱られて生きてきた。
いたずらに馬齢を重ねてしまったことを悔やむ。
自立とは、形や時間が定義するものではないのだ。
私自身が誰にも恥ずかしくなくなったときに見えてくる未来のなかに答えがある。

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