【- Walk Don't Run -】

2012年4月30日 (月曜日)

ウドを食う

うど

うど

近年、これほどまでに美味いうどを食ったことはない。
人の心が寂れてゆくほどに、美味さが増す。
(作られたモノが出回っているという嘆きもある)

これを食わねば夏は迎えられない。

子どものころに父がウドを美味そうに食べているのを見て
こんなもののどこがいったい美味いのか、と思ったのを回想している。

父は無口で、
こんな美味いものがワカランか
と言っただけだった。

今の私ならば
これは大人の味なのだ、とか

人の作り上げた豊かさの中で味を知ることをできなくなった奴らが美味いといって食っている味には虚像の自己満足が多いだろう、オマエにウドの味がわかってたまるか、

と、さらにはもっともっと長たらしく講釈を言うところだが、父は無口だった。
無口な人ではないだけに、その無口に意味があった。

父は酒を飲まない人だったので、ウドをつまみながらも、炊き立てのご飯を食べたのだろう。あの人がカラダで感じた味を、私はどこまで感じられるのだろうか。

味は千年も二千年も遥まで変わることはない。

ヒトが文化を枯れさせて滅びることの発端には、こういうものを見逃してしまうことを許す豊かさではないか。
それは幻の文明であり幻の進化だ。

2012年4月22日 (日曜日)

心の写真

(4月9日のメモから)

心の写真
・・・・なんてものがあると思うか?

*

あのころは夢だけ食って生きていた。

夢は叶わないが、
少し近づくことで満たされた気持ちになれる。
いつか叶えたい。
叶うことなどないのだろうが
諦めても棄てない。
*

何者かに心を奪われてゆく瞬間。
その快感やスリルが忘れられないから
ふたたび。

いや違う。

奪われてゆく瞬間には、、
きっと何も感じていない。

死んでゆくときも同じなのだろうと思う。

曖昧なもの

アンドウのお父さんが行ってしまった知らせを聞いて
あれこれ理屈を書いたが、そんなものに意味があったのかどうか。

実に、

記憶というものはいい加減なもので、
私は、親父の死んだときのことなど、
ほとんど憶えていない。

そんなもんなのだろうか。

いや違う。

(4月8日のメモから)

2012年4月21日 (土曜日)

花筏見送る人も無言なり

4月の初旬に父を亡くし、急遽帰国したときに、帰る空港から便りをくれた友だちに出した手紙を、上手でないところは少し書き直したが、記録しておく。4月15日早朝に。


私の地方の桜は、まさに今散らんとしていて、
▼花筏見送る人も無言なり
というわけで、信州よりも一足先にソメイヨシノは葉桜になろうとしています。

オヤジさんがなくなって、そのあとにもmixiの日記を書き足していたりするようですが、人生なんてのは、そんな継ぎ接ぎだらけの驚きや喜びで出来上がっているのだと思っていた。

そんな中、今、自分の頭にあるのは、自分の番もやがて来るということで、もしかしたら、この次に葬式にかかわるのは、81歳の母親の葬式でないならば自分自身の葬式であるのかも知れないということだった。

そう、喪服なんて着られるかどうか、サイズのことなど気にしているなんて(といっても軽く触れただけなのだが)、お笑いネタみたいにも思えてくる。葬式なんてのはそんな感じでやってくるのがありがたいのだろう。

今の時代、いつでも会えるという安心感が潜在的にあるものの、 18歳で家を出てしまったこともあって、父親はそれほどいつもそばにいたわけでもなく、それは父だけでなく母もそうですが、これから死んでい行くという不安や恐怖はなくて、既に私の心の片隅に住むところを持っていた。だから、どうぞ楽に痛みもなく逝ってください、とわりと冷めて祈っていられる。日々一緒に暮らしているならばまた話は変わってくるのだろうと思う。

しかし、生きるということは、人それぞれの思いの違いが歴然として出てくるもので、私の母の場合は、もうすぐ死ぬだろうと自分で言いながらも、ものすごい負けん気で生きたがっているのがわかる。「食事に注意を払って、生活に気を使うように」と、子供らに言われても気にしないようなふりをしながらも、生きたがっているの伝わってくる。

その点、おやじは14年前に逝きましたが、いつ死んでも仕方がないほどにそれほど健康ではなかった人だったのですが「「生きられないのは悲しいなあ」といつも嘆くようにしていた。けれども諦めのようなものを持ってようにも思えるときがあった。

私はおやじ譲りで、生きることには、固執しないような面があって、いつ死んでもいいなと思っている。

人には、人を育てるという、つまり育成し次世代をよいものに改革してゆく大きな使命があって、(貴殿の場合は子供がないのでそのことには、理由もわからないし触れてきませんでしたが)、社会的に、その使命を負うことで、さらにもっと早く若き時代にその使命を意識することで一人前になる条件のひとつが揃うと思う。

夫婦になる、つまり結婚して家庭を持つという基盤のうえで社会に参加をし、その基盤の上で社会を見つめて、人間を見つめて、あらゆるものを理解しながら生きるのだ。人とはそういう社会の中で、社会に貢献して恩返しもしてゆく使命がある。

自分が楽しく。そんな傾向が現代社会に蔓延しているけど、人間なんてちっぽけなもんだから、社会を永遠に引き継いで行くような遺伝的な動物的使命を持っていることをあっさりと認めて、毎日の暮らしを見ることは大事なんだと、45歳あたりを過ぎてから切実に思う。

つまりは、詰まらない見栄や快楽や豊かさや怒りなども必要なことは認めるけど、そんなことにこだわって自分の人生の目標を狭義的に決めてきたことが社会の中での不満を生み、ばかばかしい欲に走る遠因でもあるような気がするのだ。

ボケに満ちた今の社会の奴らに対し、死と向かい合って生きろというわけでもないし、もっと世の中に尽くせというつもりもないが、じじいになってきて、そういう自分のことばっかしを見ている人を見ていて、ああ、あれは間違っていたな、と自分を諫めるわけです。

人にはさまざまな家族があって、そのお父さんがどのような影響や言葉や規範を次の世代に与え、遺していたかまでについて僕の言及するところではないのですが、おやじの遺したあらゆるものが、ゲーテの残した言葉と同じくらいに、神秘的で、詩的で、あるときは論理的に解釈することで、結構蘇って来る。

つまりは、ささやかな周期で、遠大なる使命を背負っているということなんだ、と思うわけです。

花筏を、歓喜に満ちた酒宴の後の酔いで見送る人もあろうけど、散る花を惜しんで、涙で悔やむ人もあろう。別れと出会いの季節である時にお父さんが逝かれたことは、ご本人がどんな病だったのかはわかりませんが、花の中でのご逝去として記憶に残ると思います。

僕が第15回目の三重県の俳句で
▼散る花と国の峠でわかれたり
と書いて佳作になった時の心はどこにも書かなかったし誰にも言わなかったけど……。

別れとは、そういうものであり、峠道の向こうとこっちでは新しい暮らしが待っているということです。

新しい使命を明確にして、さまざまな社会の一員として、小さな力であり大きな力になって、もうしばらく生きていきましょう。(……と、自分に言っているみたいな手紙になってしまった)

2012年1月22日 (日曜日)

きくということ。

きくということ。

風邪で床に臥している時間が長くなるにつれて、つまらないことを考えてしまうものだ。
命日を迎えた日に、父親とはどういう人物であったのかをふたたび考えていた。

静かに話す人の語りに耳を傾けるという姿や、そうさせる語りや、またそんな魅力そのものも減りつつある。TVをつけると単発的で薄っぺらい笑いが溢れている。

あるときには、ラジオから流れるアナウンサーの落ち着いた語りが届いてくる。

これらに耳を傾けながら、またアナウンサーの語りと別の時刻にTVで流れていたお笑いのタレントたちの喋りと比較して、語るということが、そしてその語りに耳を傾けるということが少なくなったなあ、とつくづく思う。

良質の語りに出会う機会は激減した。そして、語り自体ももしかしたら忘れ去られつつあるのかもしれない。

私の父は難聴だった。子どものころの不注意でこのような不幸を背負い、人生の大方を片耳で過ごした。残った聞こえるほうの耳も、年齢につれてほとんど役立たない中で生きてきた。

父は、テレビを見ないで、しばしばラジオを聴いていた。聴くということを人一倍大切にする人であったのか……と、はたと、今頃になってそう気づく。

記憶にとどめる

22日は父親の命日だ。しかし風邪で外には出ない。



記憶にとどめる。そのことを風邪で臥す寝床の中で考え続けている。
葬式を記録に残さなかったことを今更ながら悔やむ。
カメラやビデオに収めようとすることは、神妙なる式典の真っ最中に好ましくないことだという見方も多かったと思う。

しかし、その壁を乗り越えて記録に残すべきであった、と今になって思う。

まあ、仕方がないだろう。
あのときの私には冷静さがなく、直面した事態の大きさを受け止めるのが精一杯だったからだろう。

だが、冷静に捉えて記録に残すべきだった。
そう反省をする。

次は、必ず記録に残すつもりだ。

2012年1月 9日 (月曜日)

成人の日、昔を辿ることは、ヒトの宿命だ

【- Walk Don't Run -】遺す言葉

というのを加筆しながらホームページへ集めていますが、成人式のニュースをやっていたので、いろんなことを思いながら、成人式とはどうあるべきなんだろうか、などと考えていました。

ちょうど、ちょうど去年の今頃にあれこれと拾い集めた日記があったので、引っ張り出してきて少し読みました。(拾遺集として自分のために書いていますので後ろに貼りますが)

*

「成人式は必要か?」のまえに考える。

成人を祝ってもらいたがる人、さらにその喜びと決意を生かして前進しようとするような進取の気性の青年を育ててゆけるような教育と社会システムを作りあげることが大切なのではないか。

スカばかりの人間を、ニセゆとり教育や甘やかし教育で、あるいは点数至上主義と経済最優先の考えで、育ててゆけば、この国の人(ヒト)は骨抜きばかりになってしまう。社会保障も教育も暮らしをいくら一生懸命に考えても、頭の中が空っぽで哲学なき人物を大量生産して、大衆迎合的波に呑まれていってしまう社会では、今からもいっそう社会は退化してゆく。

負のスパイラルを脱するには、スカとは何なのか、を考えることから始めることが必要だ。


1年前の日記、2011年1月 9日(日) ─ 成人の日ですね 

成人式のころ      [- Walk Don't Run -]

成人式のころ  銀マドも2002年に突入です。今年もよろしく。 -*--- 成人式の話題をニュースでやってましたので、ふと思ったことを書きました。 -*--- 今年も成人式の季節がやってきた。このパティオには成人する人はいないでしょ?結婚する人はいますね。それもこれもひとつの旅立ちといえます。旅立つ時に はきちんと襟を正して心新たに一歩を踏み出すと思います。その一歩が闇の中の一歩であれ晴れ舞台の一歩であれ、心は感動に満ちていることだろうと思うので す。 ところがどうも昨今の成人さんはそうではないらしい。... [続きを読む]

言葉  [- Walk Don't Run -]銀マド / 言葉  ▼言葉は、身の回りにあふれていて、ありふれたものだ。その数々の中からたったひとつに反応し、掘り下げて見つめてしまうことがある。我々はそんな巧みな ことができる人間である。 年末のある日、職場で、対話をすることを失ってしまった悲しい人に出会った。どうにかしてやりたい気持ちと、蝕まれていてそこへは入ってはいけないという 戒めに似た罪悪感とで、しばらく私は考え込んでしまった。 どうしても、対話を放棄しているその人の心の奥に私は踏み込みたかった。しかし、対話を拒む人にはその人の世界があるのか... [続きを読む]

ジンクスが風上へ誘う沈丁花 [- Walk Don't Run -]

成人式にも出る暇もなく日夜机に向かい臨んだ試験であったが、残念ながら満足な感触は無いまま三月を迎えていたと思う。 駅までの歩き慣れた道路のどこかで、沈丁花の花がぷんといい匂いを放っているところがあった。進級発表の日に匂いを嗅ぐと期待が叶わないというジンクスが あるのだという話を聞いて、些か気に掛けていたものの、住宅街を歩いてこの花に遭遇しないで過ぎることは難しい。 当時は、今のように「留年」という言葉があったものの「落第」という呼び方もしっかりと使われていた。 正門を入り階段を駆け上がり教養棟の進級発... [続きを読む]

オヤジの背中   〔2002年6月中旬〕 [- Walk Don't Run -]

オヤジの背中  〔2002年6月中旬〕 ▼(パティオのYさんのメッセージを思い浮かべながら書いています)▼生意気にも、子育てのことでコメントを書いてしまった。ろくに子育てもしないでここ まで来た私が書いたので、まことに失礼なコメントだったかと、幾分消沈気味である。▼これからの未来がある人には、それなりの希望と情熱と信条を持って生 きて行って欲しい。子育ても然りです。それが私になかったわけではないが、ややもすると現代人には(←若者たちというとジジイみたいだしね)それが不足し ているようにも思う。▼正高さんの... [続きを読む]

夢を食べる虫 [- Walk Don't Run -]

94/01/29- 夢を食べる虫--はじめに-- 倉持さんに就職の話をし始めてみると、さまざまな連想が起こりました。それは内省的なものが多く、自分の歩んできた道を省みて一喜一憂をするものでした。 冷静にみるとかなり不平不満が多いようですので、つまりは私のような人生を歩んではいけないと云う示唆なのかなと苦笑いをしています。毎度愚痴ばかりを書 いては恥ずかしい限りなので気をつけて書いて行きたいと思います。こんな愚痴も諸先輩方の厳しい顔色を思い浮かべると尻ごみします。しかし、手厳しい意見 も聞ければ幸いです。特... [続きを読む]

2012年1月 8日 (日曜日)

いつかは飲みたいと願った

遺す言葉を続けよう。

 *

▼怨む、憎む

 そのようなことはなかったと思う。そもそもそんなことをしても勝ち目がなかったので、はなからからそんなモノに刃向かうような真似はしない。

 腹を立てたり失意に苛まれないで生きるためには、自分のやり方を思案してゆくしかなく、そこで哲学的な思考回路が育ったのだろう。たまに理屈も言ったが、表に出ていってまで強く主張することはなく、内に秘めていることが多かったかもしれない。

 片方の耳は大人になるときには聞こえなくなっていたし、もう片方の難聴は年齢ととも進行していたこともあり、さまざまなケースをあれこれと考えても、やはり自分の世界にいるのがよかったのだ。しかし、大人しく引きこもっているようなタイプでもなかった。

 宴会ではカラオケも上手かったというし、何よりもドジョウ掬いの踊りが滑稽で非常に面白かったと母が話す。感情的になったりすることはほとんど無く、穏やかで、他人にも嫌われるようなタイプではなかった。その分、お人好しで騙されることがあったかもしれない。

 とにもかくにも、機嫌の悪い姿は一度もなかったし、他人の悪口を言うこともなかった。冬の朝はどんなに寒くてもポイと布団から跳ね起きて、「辛いのはその時だけや」とあっけらかんとしていた。本当はすこぶる気合を入れていたのだろう。何事もそのような調子で明るく振舞うところが多くあった。

▼八朔が好きだった。

 昔にたびたび日記に書いたように記憶するが、今ごろ探してもそれほど簡単には見つからないものだ。

  • 初霜や八朔ひとつ供えたろ 2008.11.19
  •  総じて甘い物が好きだったが、八朔は酸っぱくても特別に好きなようだった。ミカンは食べたけれど、家族がみんなで大きな籠ごとを一晩で食べ尽くすほとにむしゃむしゃ食べていても自分は食べたいだけ食べて部屋を出て行ってしまうような人で、食べ物においては決して無茶な食べ方はせず、好きな魚があればいつもよりやや多めに食べているなと、傍で見ていて気付く程度だった。美味しいものを食べると素直に美味しい美味しいと繰り返しながら目を細めて食べていた。

    ▼痛めつけた身体のこと

     身体も大きいほうではなかったこともあり、酒を飲んでもほどほどで気持ちよく酔えたらしく、真っ赤になっていつも先に眠ってしまった。やはり、血圧が高かったのを高齢になるまで放置したことが相当に身体を痛めつけたのであろう。定年になって死ぬまでの6年間は身体の随所に在る不具合と、どうしても我慢できなくなったと言ってみんなの反対を押し切って手術に踏み切った腰の痛みとに悩まされた。生きる悔しさを感じていたかもしれない。高血圧の投薬も定年より前から欠かさなかったものの、60歳を過ぎたころにはもはや長生きの望めるような身体ではなかった。

     若いころに難聴になってしまい、身体を張って生きるしかないのだと、自分で考えたのだろう。さらに、親もがそう思い働き続けて育て、結婚後も身を粉にして働いたのが身体に祟った。仕事をコツコツとする真面目な性格と身の回りをいつも綺麗に整理整頓しておくような几帳面さがあったのに、これも50歳を過ぎたころからは自然現象として衰えてきていたように思う。子どもを育てることに追いまくられた挙句に一息ついて失速したのかもしれないが、そのような顔はまったく見せなかった。

     定年を終えて少し気楽な暮らしができるようになったと思ったところで悲しいことに高血圧による脳内出血で倒れて、何度か入退院を繰り返すうちに次は脳梗塞を発症した。高血圧症の人にとって脳梗塞は珍しくなく、大きな手足の不自由は出なかったものの、脳の一部が少し麻痺したらしい。一緒に住んでいる家族は、それほど詳しい原因や症状の特徴などを医師に尋ねなかったこともあって、離れて住んでいる私は詳細を知らないまま、現実以上に元気なのだと思い続けていた。

     今頃になって死亡診断書をじっくりとみて、初めて晩年のことを推測してみることになった。ボケて来たとか気が変になったなどと言った人もあったようだが、やはりあのときの脳は、もう壊れ始めていたのだったと今更気づく。

    ▼いつかは飲みたいと……

     私は悪い息子ったのだ思う。ろくに見舞いにも来ないで、まだそう簡単には死なないと思って甘く考えていたのだろう、身近で死んでゆく人もまだそれほどいなかったこともあって、父親という人のそのすごさに気づかないままいつでも1時間ほどで行ける場所に住み続けた。

     父親が病気で床に伏しているのをそれほどしっかりと記憶に残していない。何度も見舞っていないということかもしれない。いや、倒れたときには見舞っているが、父親のほうも弱った顔を見せなかったのかもしれない。認知症が出始めていても、このときにはその他の臓器は元気だったので顔色も激しくは悪くなかったのかもしれない。

     「卒業したら親父と飲みたい」というようなひとつの目標を、私たちの18歳のころは誰もが夢に描いていた。苦労を掛けて大学を出たらきっとふるさとに帰って身を立てるのだと強い意志を持っていた者も多かった。私はそういう一群の仲間にもなれずにいたことになる。飲んで話をしたこともあまり無かった。もちろんそれは父親の性格にも由るのだが。

    2012年1月 7日 (土曜日)

    胃潰瘍吐血により

    平成10年1月22日午前11時35分、私の父は「胃潰瘍吐血」により死亡した。

    死亡診断書

    これが死亡診断書の一部だ。

    そのとき私は仕事中で、昼すぎに電話連絡を受けたことだけを覚えている。

    いつもそばにいたわけではなかった。脳梗塞で倒れたときも、一二度入院先の病院に顔を見に行っただけで、やがてこんな形で死んでしまうことの現実的な予想はしていなかった。というか、できなかったのだろう。

    18歳で家を出て、東京で6年間、京都で9年ほど暮らしてから古里に帰ってきた。車で1時間弱で顔を見に行ける所だ。そこに住み移って7年ほど、近くにいたことになる。

    しかし、それほど古里の家には寄らなかった。弟がそばにいてくれたこともある。普通に子育てをして仕事に行くサラリーマンをしていると、1時間ほどの所に住んでいれば慌てることも無く心配ごとも無く、自分の家庭の幸せだけを拠りどころにして毎日を暮らしていた。

    ヒトは、失ってから初めてモノゴトの本質を見つめ始め、あらゆることの歴史的な生い立ちからそのときまでの時系列の凸凹を振り返るときに、逝ってしまった人間が何を最も伝えたかったのかを知り、多くの疑問が残されたことにも気づく。

    この資料から分かるように、生死をさまよった私のオヤジの最期の4日間と4時間に、果たしてどんな言葉が誰と交わされ、当人は誰かに何かを伝えようとはしなかったのかどうか、というようなことが埋もれたままなのだ。

    そこにある計り知れないほどのたくさんの不明を、さまざまな人々の語りや自分の記憶から手繰り寄せねばならないのだと、この日付から十年以上も経って思うのだから、ほとほと自分は愚かだと思う。

    2011年12月16日 (金曜日)

    「バカボンのパパ」 その2

    どこまでも「バカボンのパパ」のようだったオヤジであるが、なかなかの思慮家だったのではないか、というのが私の永遠に解決しない命題である。私が死んで命題も消える。

    「永遠なる序章」のなかで椎名麟三は「生きるということは、激情だということです」と言う。彼は「自分は、瞬間瞬間に、死を生き、無意味を生活した」とも書いている。

    オヤジが激情の中を激しく燃えるように生きていたのかどうか、今更、分かるわけもないし探れる術もない。

    多くの人の回想を寄せ集めると少しずつ見えるものがある。

    そこには、純粋に生き、嘘もなく、見栄もない。人を騙すことも欺くことも、陥れることも、謀ることもないオヤジの姿がある。

    彼は、機嫌の悪い姿を一度も見せたことがなかった。他人の悪口を言うこともなかった。
    何かを悔やんでいるような様子やそれを言葉にすることもなかった。

    不思議な人だったのかもしれないと今になって思う。

    バカボンのパパが
    「忘れようと思っても思い出せないのだ」
    というセリフを言うが、私のオヤジにも言ってほしいような気がする。

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    忘却という…

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