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【裏窓から】

2016年8月23日 (火曜日)

処暑ノート 裏窓から・処暑篇

二十四節気にあわせて
【裏窓から】シリーズをもう何年も書いてきて
これも下書き感覚で書き始めましたが

できごとの少ないころであるとか
思いの湧き上がる激しさの緩やかなころとか
感情に凸凹のない自分がいるときなどをみてきて
いかにも私は周囲の人とともに歩んでいるのだなと痛感する。

お盆が過ぎてヒグラシやミンミンゼミの声が
ひときわ遠くから届いてくるような気がするのは
セミが増えたとか風が吹いているからという理由ではなく
私が秋を待っているからなのだと思い直している。

夏バテをするわけでもなく
痩せることもなく
胃腸もしっかり暮らしておれることに感謝する。

この夏になってから二人も
癌に罹っていたので…と知らせが届いてきて
返事のしようのない無力を感じている。

母はオウム事件のころに大腸癌を切除した。
その切除片は途轍もなく大きなもので
全部の腸を切ってもこれほど大きくないのではないかというほどの塊が
褐色の血まみれでトレーの上に置いてあったのを憶えている。
6人部屋の5人が数ヶ月の間に次々と死んでしまったあのときに
母は自分が癌だとは知らずに手術を受け
あれから現在も生きながらえている。

癌は不治だという時代は過ぎたのだが
どうしても、ハイと素直に頷けない。

暑さは次第に緩やかになってくるだろう。
焦げ付いたコンクリートの蜃気楼とも
サヨウナラをしたい。

人生も第四コーナーを回ったら
粗食を続けるに限ります。

と言いながら、お酒はやめてないのよね。

機嫌が良くて気分も爽快で
酒が旨いときしか飲まない
という人生哲学で生きているのです

毎日飲める暮らしに感謝しています


写真日記から

しょうが焼きとポテトサラダ オクラと納豆

M's Zoomから(LINE)

8月22日回鍋肉

2016年2月22日 (月曜日)

餃子二つがぶりと食って雨水ぞよ

写真日記(2月下旬になります)

21日午後3時ムーミン島 鯖の味噌煮 駅伝スタート 駅伝スタート前 駅伝の朝 20160220img_2123

温そうな雨  【裏窓から・雨水篇】

2016年1月 1日 (金曜日)

一子相伝 ─ 元旦篇

ブログをだらだらと書いてきて2500篇ほども溜まってきたので整理をしたいと考え始めたのが年末のある日のことだった。

大きくて揺るぎない

でも触れたように何かを残したいとか伝えたいという気持ちが日増しに強まってくる。

一子相伝。
そう書いてみたが実体が見えてこない。

写真日記(元旦)

角煮
(ムスメの角煮)

ムスメが角煮の写真を送ってくれた。私が自己流のレシピを送り届けたのを参考にして最初から最後まで自力で初挑戦したものだ。

1回前は私が作ってタッパーに入れて家に持って行った。それをお皿に移し替えて旦那さんにはどうぞと言って飯台に並べたと思う。結構好評だったようで、また食べたいとリクエストが出たらしく、愈々チャレンジをすることになった。

料理はどうやら好きらしい。家族を褒めても笑われるが、あれこれと工夫をして探求してみようというような気概があるみたいだ。旦那さんが喜んで食べてくれるという勢いも背中を押しているのかもしれない。

祖父、父、私とそういう精神が潜在的に流れていて人それぞれに表出する形は違うものの、底流を滾々と流れるものが息づいているのを感じる一瞬だ。

文学部だったのだがちょっと理系っぽくて、三代続いた理系色が僅かに残っているみたいで、嬉しいのである。

何事においてもそういう気持ちで取り組んでくれるといいのだがと思っている。

2015年12月23日 (水曜日)

年の瀬に母を訪ねて考える ─ 冬至篇

冬至のあくる日に母を訪ねた。(23日 天皇誕生日)

ムスメもあと二ヶ月に迫ったこともあるので呼んでやり大きなおなかを母に見せながら正月のことなどあれこれと話をする。

母を訪ねれば昔の話をするのはどこのウチでも例外ではないだろう。近ごろはたとえ同じような話であったとしてもそんな話を聞かせてもらうのがわたしはとても嬉しい。

85歳になろうとするのに話す内容は正確で、細かい点まで記憶していることに驚く。年寄りとはそんなものだでは済ませることのできないレベルである。

例えば、親戚の人の逝去年表、家系図に登場する隅々の人までの名前、生い立ち、数々のエピーソード、それらの出来事に伴う年月日、付随する数字などなど。

真似をするとか、習うとか、はたまた、こうなりたくて自分も鍛えようとか、そう考えてできるものではない。脳みそと心の構造の問題だ。記憶しておくことや分類して整理をしておくことのメカニズムの凄さに感心する。

自叙自伝的な話も多くなった。歳をとることで昔には話さなかったことでも捨てるように吐き出せるんかもしれない。年齢と気持ちがもたらす堰のよなものが外れるイメージで話してしまうのだろうか。

今までは堪えていたのか、話すチャンスがなかったのか、それともわたしが(娘でなく)息子だったからか、孫がこうして大きなお腹をしているからか。理由までは訊ねたりしないけれど、話す内容はしっかりと聞いておかねばならないことの連続だ。

冬至のあくる日に尋ねたのは、正月の餅つきのことを訊いておきたかったからだ。
だが、いつものようにストーブの前で話し始めた母は、自分が赤ん坊を生む頃の話をし始めた。
わたしには弟があるが、死なかしてしまった子が三人あったのだという話である。

大きなお腹のウチのムスメが安心するようにと思ってか、おばあちゃんの経験的な昔話なのか、これから子どもを生む子を心理的に安心させるためなのか、それほど深くを考えてのことでもなく、むかしを単に回想しての話であったのか。

死なかした三人の子について、どんな気持ちで思い返したのだろう。
大きなお腹を見ていると昔の記憶が蘇ってくるのだろうか。

一人は1年半ほどしか生きられなかった長女の話であった。貧しいのと農家が忙しいことで、ろくに医者にも連れて行けず死なかしたという。
あとの二人はわたしと(5つ離れている)弟の間にできた子で、八ヶ月と七ヶ月でそれぞれ流産した。
生まれてからもピクピクと動いていたというような少し怖くて残酷なことも平気で言う。わたしにはこれまで一度も聞かしてくれなかった話であった。

弟は7月10日に生まれるのだが、生まれる間際の6月25日にもまだ田植えをしに田んぼに出ていたという話も聞いた。

今の子は大切にしてもらえて、更に医学も進化して安心して産めるから幸せである……というような単純な話では決してないのだ。

そこには60年の社会の進化と変化があり、人々のイデオロギーの遷り変りがある。暮らしのスタイルが姿を変え、身の回りにある物質が豊かになってきた。家族の体系が新しくなり、幸せ感にも大きな差異が出てきている。

母はそんなことを理屈でいう人ではないのだが、その糾える縄のように変遷する時代の襞のひとつひとつまでをしっかりと見つめ続け捉えている。そういう視線で語っていた。

話の深みを聞き逃すか、聞こうとしないか、聞いても理解できないのか、聞き取れないか。
貴重な話を生かすも殺すも、これからの人に任されている。


とうみとうみ

2015年12月 8日 (火曜日)

冬眠をする ─ 大雪篇

7日は大雪

それほど寒くないなと思っていたのだが 大声で さむ~い と叫んでいる子がいたので 一生懸命に歩いたわたしだけが寒くなかったのか

廊下からデスクに入り込むときに天井の送風口から なま温かい風が顔をさするように吹きつけた

外は冷たい風が吹いている

大雪の日 つぶやきを拾ってみる

夢のなか好きだと言って 逃げだすの
12-07 08:25

大雪や赤いセーター追いかけて
12-07 08:26

追いかけて遮断機くぐる月曜日
12-07 08:27

母は七十一年前のきょうの地震の日の思い出を話してくれたことがあります。終戦前のころの正月前で 麦踏みをしていた と言っていたかな。今度もう一回訊いてみよう
12-07 23:27


母が話してくれたむかしのことを単に物語や出来事として聞くだけではもったいないと歳を食うに従い切々と思う。平成10年に逝ってしまった父の話もわたしに話してくれたときの年齢を越えるころになって初めて心に響いて届く。

母は正月があけたら八十五歳になる。わたしはこの歳まで生きていないだろう。祖父も父も短命で六十五歳、六十六歳で逝っている。生まれながらにして内臓が丈夫ではないのだから、よく頑張ってもそのころまでか。あと、7、8年ほどの勘定になる。

冬眠なんて そんな甘っちょろいこと言っていたら時間がもったいない。

7日は月曜日で大雪。それほど寒く感じなかったのだがあくる日の8日の朝は少しピリリと寒かった。

太陽はは地平線の下にあって東の空が赤くなり始めたころに霜が降りた真っ白の田んぼの横をコツコツと歩いて駅まで出かける。いつの間にか吐息が白くなるまでに寒くなていた。

ダウンジャケットは羽織ってみたが手袋が見当たらずカバンは幼稚園掛けをして手はポケットに入れて歩いてゆく。

夜明け前 初霜ひかりごけのよう
12-08 07:02

そんなふうに書いている。本当に初霜だったのかどうかはわからない。ただ、日の出は着実に遅くなっている。

つづきはあとで

2015年11月23日 (月曜日)

最後の言葉 ─ 小雪篇

わはく(秘)伝 のブログにメモ書きを始めたら長くなってしまった。移動しながらコチラで書く

あのひとの最後の言葉


▶「ひとの最後の言葉」(大岡信 ちくま文庫)をみて、大岡信さんが亡くなられたころに買ったことを思い出し、さらに、わたしの父はなにか言葉を遺したのかを回想していた。

▶わたしは何を残せるだろうか。
残せる業績などなかったと卑下しても構わないが人として何かを感じたはずでゴミでもであろうがそれを残したい。

▶年が暮れてくると1年を振り返ることが多くなるので些細な事でも気にかかることが次々と頭のなかを掠めて通る。それが身近な人々の最後の言葉であるとか口癖であったりする。その人を偲ぶたびに切なくなり自分の覚悟ができてくるのが分かる。


▶父はなにか言葉を遺したのか
そのことが真っ先に浮かんだ。答えな曖昧なままなのだ。あのときを看取ってくれた人に尋ねたわけではない。なぜこれまで尋ねなかったのか。死んでゆくときの様子を何度も聞かせてもらってはその場所にわたしがなぜ居なかったのかを悔やんできたのに。わたしは知ろうとしなかったのだった。

ひの菜
22日 (日) おゆうはんにひの菜があったのだ(嬉)

▶ひの菜で夕飯を食べながら
今夜はわが家の母の美味しいひの菜のことを考えていた。

▶母は80歳を過ぎてから
(細かいことを気にすれば)味付けの腕も変化したてきたものの、これを衰えというよりは進化のようにわたしは思う。

▶そもそも旨味というものがヒトの身勝手な趣向で線引きされたものであり、漬物の味が変わったり、煮物の味が濃くなったり薄くなったり、寿司の甘酢の味加減に変化があったり、日によって違ったり、味ごはんの醤油や甘さ加減が昔と変わったとしても、それは母のサジではないかと思う。

▶母のたくあん漬けはわたしだけが世界で一番おいしいと思う。だから、ひの菜も母のひの菜が一番旨い。写真は地場産の店で買ったもので今年は母の漬物をまだ食べていない。

▶そんなふうなことを考えながら他愛ないおしゃべりをしておゆうはんを食べてたのだが、ちょうどそのときに日曜美術館を放送していることを新聞TV欄で知った。わたしはNHKは見ないが父がいつも見ていたのを思い出してそんな日々もあったなあと染み染み漬物でごはんを食べた。

▶父という人はテレビを自分から進んでみることは全く無かったのだが、日曜美術館はいつも見ていた。あのころのわたしはあの人の気持ちをわかろうとしなかったのだな。もう少し近づける努力はできたのかもしれないのに、なぜ、一緒に見て共感しようとしなかったのか。幸せだったというのが答えのひとつかもしれんと思っている。だからそれを知っていて父はわたしに見ろとも言わず、また、自分の絵も押し付けようともしなかった。

▶父は朝ドラも時々見てた。仕事に出かける前に家で見るか、ご飯を食べに昼休みに家に帰ってきてドラマを見てから仕事に戻っていきました。あの人が見たテレビは、おそらくその二つの番組だけだっただろうと思うと、またまた切なくなる。

▶そんなことを思い出しながら まだ、あの人のあの人らしい言葉がするりと思い出せません。

(次篇へとつづく)

2015年11月 9日 (月曜日)

冬じたく ─ 立冬篇

11月8日は立冬で暦のうえではこの日から冬となる。また寒い季節を迎える招待状が届いたようなものかもしれない。

20151108立冬

それほど冷え込んでこないのは雨が近いからだろうと天気予報を見て、前日の土曜日にお出かけをした帰りにムスメと合流しておゆうはんを食べた。

鍋が食べたいというのでお手ごろな店に4人で入ったのだが、焼肉とお鍋とがセットになったコースを注文して、みんなで汗だくになって食べた。

食事が終わって店の外に出ると、傘なしでどこまでも歩くわけにもゆかないほどの雨が降りだしていた。天気予報は夜半を回ってからといっていたのが、少し外れたようだ。

今の季節などは、天気や気流、気温の予測をすることにおいて難儀な時期ではないと思えるのだが、珍しく外してしまったには訳があったことだろう。何事も安易に見えてそこには無数の奥があるのだ。

▼ 雨静かに降り出して今年の秋と別れる

家の前まで車で送ってもらって週末・土曜の夜が更けた。

二三日前に「花鳥の夢」を最後の第九章を残すところまで読み終わっていた。感想は思いつくことをメモ書きするように書き溜めていたので、第九章を読み終えて読了とする。

山本兼一の作品は「利休にたずねよ」を読んだのみで二冊めであった。

小説として作品を見ると、文芸の域より大きく文学に傾きながら、文学に偏らずに芸術をしっかりと手のひらの上に置いて書いているのを感じる。

利休の言葉がいい。第八章最後にある。

性分でございますゆえ、お許し願いたいが、見せよう、見せよう、という気持ちの強い絵は、どうにも好みに合いませぬ。絵師がおのれの技倆を鼻にかけているようで、いかにも浅薄な絵に見えてしまいます

そして、秀吉の言葉が更に素晴らしい。(第九章P485、486)

そなた、悪相になったな

秀吉の命を受け東福寺法堂天井画を描きはじめる直前の永徳は、自分と格闘をしている。悩み苦しみ命をも削っている(…ことに気づかない)

なにごともな、すべてを一人で掴もうとすると、し損じる。わしの天下統一でも、すべての大名たちが従うわけではないぞ。従わぬ者を討伐しても、皆殺しにするわけにはいかぬ。生かして残してやらねば、連中は追い詰められて、死にもの狂いで歯向かってくるぞ

・・・

絵は、もっと楽しんでゆるやか描くがよい。長谷川の絵は、観ていて気持ちがゆるやかに楽しくなる。絵のなかに、観る者の居場所がある

山本兼一 花鳥の夢

言葉というのは、受け取る人の心の状態でいくらでも変化する。
気にもとめられないこともあれば、言った本人がまったく違ったことを考えていたりすることもある。

秀吉が狩野永徳にそのように言い放ったとき、利休はまだ秀吉から切腹を命じられていない。

秀吉からの厳しい言葉を浴びたあとにも永徳は描き続け、龍の瞳に丸い二つの目玉を入れて、鼻の線を引いたところで永徳の命は尽きる。

小説は永徳が死んでしまうのだとは明確に記述していない。まして、利休がこの半年後の春に切腹を命じられこともどこにも触れていない。

ムスメさん夫婦は私たちを家の前まで送り届けたあと、簡単な買い物をするためにスーパーに寄り深夜に家に着いたらしい。

ツマが、あの子たち買い物してから帰ったんやって、と明くる朝に話してくれた。
そうか、と返事をするときにノドが痛いことに気づいて風邪のはじまりとなった。

ぬくい夜がおわって雨の立冬の朝を迎えた。その雨も夕方には小止みになったかのように見えたが、月曜日の昼過ぎまで降り続いた。

わたしの風邪は、雨がやんでも、知らぬ顔。ノドはまだ痛いが、明日は休めない。

2015年10月31日 (土曜日)

等伯と永徳 ─ 霜降篇

10月24日が二十四節気の霜降なのにとりわけ寒くはない朝を迎えたのだが、あくる日の朝には冷たい風が吹いた。
その日(25日)は日曜日で、午前中に地区の掃除があったので団地内の街路の掃除や草取りなどをする。風が強く、道路に刈り散った草が強風で吹けてゆくほどだった。

この次の週からカッターシャツを長袖にしてジャケットを羽織って衣替えとした。
昼間でも窓を開けて風を呼びこめば半袖ではゾクッとする日がある。
ちゃんと秋になってきているのを身に沁みて感じる。

人の話では今年は秋が早いのだという。
京都の紅葉の見頃は勤労感謝の日のころだが、そのころに行けば紅葉(もみじ)は散りかけているのだろうか。

長袖に衣替えしたのはほどよいタイミングだったものの、こたつを出しても布団を被せていない。早くしないと寒くなると焦って思いながら、先延ばしにしている。

本格的な寒さがやってくれば、こたつに潜り込んでうたた寝をする。
いまはまだそんな季節ではなく、食事が終わったらそそくさと風呂に入り、布団に潜りこんで本を読んでいると、そのまま眠ってしまう。

長谷川等伯を書いた安部龍太郎の「等伯」を読み終えたあと、山本兼一が狩野永徳を書いた「花鳥の夢」を読んでいる。
トントンとは読み進まない。

2冊の本を逆順で読んだら違っていたかもしれない。

どちらが面白い本であるという話はできない。
人物においても優劣はなく、善も偽もない。

こういう本は、例えば三十歳くらいに読んだとしたらそれなりに消化ができただろう。
この年齢になって読んだら受けるものも多いが、もはや受けてもとどめることのできないものもある。

わたしの人生の見えないレールを構想するころに、数多くの人間の、その人間味に出会えていたら、わたしは違ったレールを敷いていたのだろうか。

もし、それが実現していても、正しかった言い切れるだろうか。
そんなことを考えながらゆっくりとゆっくりと二人のことを考えている。

山本兼一 花鳥の夢 安部龍太郎 等伯(下巻) 安倍龍太郎 等伯

2015年10月 8日 (木曜日)

木曽旅情庵 その2 ─ 寒露のころに考える【寒露篇】

写真日記(10月8日)

寒露
 焼き魚寒露の宵を悠々と
 10匹め寒露の宵を記念して

サンマ10匹目


木曽旅情庵ユース(YH) ─ 十月初めに考える

考えてみれば
失うことの連続であり
人生の第4コーナともなれば
新しいことなど
もうこれ以上に起こらない

旅情庵という宿へは
もう行くことはなかっただろうが
営業をやめてしまったことは
わたしの旅のひとつのカテゴリーに
ピリオドを打った

旅情庵に何度も泊まりに行き
信州の山々の雄大な風景や
目がさめるような秋の紅葉を目の当たりにし
大きく息をを吸って
元気な自分を取り戻そうとしていたのだろう

ちょうど十月の今ごろ
地図も持たずに
新品のオートバイで
乗鞍高原へと
鉄砲玉のように
走っていったのは
1982年10月の連休でことだった

三連休の一日目に仕事が入って
不平不満の気持ちで仕事に行ったときの気持ちの
記憶だけが強烈に残っているものの
あくる日に高速に飛び乗って
何も調べもせずに
ただ信州の方をめざすという
爆発心のようなものだけで
でかけたのだ

だから地図もなければ
宿の手配もしていなかった

あれから
信州の虜になり
木曽街道や中山道に夢中になり
秋の紅葉、初夏の新緑に
食べて走って湯につかって泊まって
という冒険のような旅をしてきた

旅情庵はそんな遊びのひとコマで出会った宿で
全国数々のユースを駆けまわったなかでも
飛び抜けて贔屓にする理由を
しっかりと持っていた宿だった

風呂に入れば窓から御嶽山の峰々が見えたし
窓のすぐ下には鄙びた田舎の山畑の景色があった

宿の建物は古くて
歴史を肌で感じることのできる味わい深いもので
タイムマシンに乗って
半世紀を飛んできたような安らぎの空間だった

ねこが
どっしりと
ふつうに
静かにいて

写真もスケッチも残していないので
わたしの記憶が老化とともに過去を捨て去る

それと一緒に消えていく記憶のひとつだ

それでいいのだ


木曽旅情庵 その2 ─ 寒露のころに考える

2015年9月12日 (土曜日)

秋風に吹かれて鉄棒にぶら下がる ─ 白露篇

九月になって瞬く間に秋めいたような気がする。雨が二三日続いてバスに乗った日もあったものの8日に台風18号が伊勢湾の上を通過してからというもの風がすっかり秋風になった。

白露は9月8日で台風の来る前日の事だった。毎朝に駅まで歩く間に汗をかいてしまうので困っていたが、この頃から少しマシになった。ゆっくりと休憩をしながら行けばびっしょりにならずとも済む。

休日ごとに近所を5キロあまり歩いている。コレもあれこれ夏の終わりから続いているのだが、始めたころにはTシャツから汗が滴り落ちたころもあったのだ。今は行程の後半になるころにすっぽりとシャツが汗で浸っているくらいだ。

いつまで歩けるか自信がない。しかし、健康のことを考えるとやめるのが怖くなってきた。心配が実感として湧いてくるようになると食事においても食べ過ぎに気をつけるようになる。体重計には毎日乗る。それほど変化はないが、もうひと頑張りは続くと思う。

この行程の途上に高等学校のグラウンドがある。背中を伸ばそうと思ってたまたまぶら下がってみたらめちゃめちゃ驚いたことがあった。小声でしか言えないが、懸垂ができなくなっているのだ。体重が20キロほど重くなったのが原因だろうが、100回くらいは学生時代にやっていたことを思い出すとちょっとショックです。たぶん、逆上がりもできないのかもしれない。

鉄棒は子どものころから好きだった。父が庭に作ってくれたがきっかけで大体の事はできた。わたしの数少ない得意なことだった。お陰で上半身の体格はしっかりしていて、共同浴場でレスリング部ですかなんて声を掛けられたのは懐かしい思い出だ。

そんなことを思い出すと、もう一度できるようになるために、ココに来て時々ぶら下がって、這い上がれるようになりたい。


青森産にんにく入りスパ

写真日記(平成27年版)
青森産にんにく入りスパ ─ 11日 (金)
シャケとホタテのスパに青森産のにんにくを入れてキャベツ、しめじも合わせて炒めたら、グッドになりました。キャベツとしめじは冷蔵庫の残りものでした

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Walk Don't Run

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    忘却をおそれず
    記憶を記録として
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