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【花も嵐もII】追憶篇

2013年11月 1日 (金曜日)

こぼれ話 4 雨宿り 花も嵐もⅡ その63

バイクツーリストに雨降りはつきものであるものの、やはり降られるのは嫌です。朝起きて荷造りのときに雨が降っていたりしても泣きそうになる。

今回は、朝からの雨ではなく、山中で遭遇する突然の夕立の話です。

四国の与作国道(R439)を西に向かって走っているときでした。今は与作も拡幅されたりトンネル化されていますけれども、わたしが走っていたころは、徒歩の歴史的な峠道の脇にできた荷車道程度のものです。しかし、このタイプの峠が、バイクで越えてきた経験では最も素晴らしく、いわゆる初期型の峠越え街道でした。

そんな感動的な道を越えてゆくのですが、一度、峠の途中で突然の夕立に遭遇しました。高知県のど真ん中あたりにある追手前高校吾北分校の生徒さんたちのバイク通学の列に挨拶されたことがありましたが、その付近でのことです。(吾北分校のみなさんとの出来事とどっちが先だったかは今となっては記憶が曖昧です)

夕立は突然来ました。ツーリングも年季が入ってくると、すばしこくなるのですが、のんびりのびのびと山の中を走っていたのでしょう。雨が突然来たので、道端の小さな庇がある小屋に飛び込みました。立っていても足元が少し濡れるほどの小さな屋根でした。雨も容赦もなく降りました。それだけにほんと助かりました。

この屋根の下に、わたしが飛び込んだときに間髪をいれずに飛び込んできた女性がありました。いいところに、ちょうどいい小屋があって助かったね、というような話をして小降りになるのを雨雲を見上げなから二人並んで待ちました。

どこまで行くの?と聞いたと思いますが、答えは覚えていません。どこから来たの?も聞いたけど、それも記憶に無い。旅から帰った直後はバイクの名前も記憶していただろうけど、それも忘れた。

名前や連絡先を聞いて、地図の隅っこにメモをしたりすることも頻繁にありました。このときのこの人との記録は残っていませんが、今でもふと四国の深い山の中に散らばった集落を見るとあのときの通りがかりの出来事を思い出します。

ただ、今思うに、このごろのバイクツーリストってわたしのあのときのように、気安く、そしてざっくばらんに話を始められないようで、今と昔のバイクの旅文化にも少し変化が出てきているのかなと思います。

寂しい峠を一人で越えてきた女性はまだ結婚前の若くて可愛らしい子でした。あのころは、というような話をしてはいけないのかもしれませんが、みんな純朴で、旅に、ツーリングに、清らかな心で向きあっていたと思います。今のようにファッショナブルでもなく、合理的でもなく、格好もスラっともしていない。

だから、その旅人とのわずかな出会いでさえもが、旅の強烈な思い出に残るような、そういう小さな出来事の集まりのツーリングをみんながやっていて、ときめきを胸に走っていました。

もうそんな時代は来ません。

2013年10月30日 (水曜日)

こぼれ話 3 稲庭うどん ー 花も嵐もⅡ その62

■ 稲庭うどん

旅を始めたころは、稲庭までうどんを食べに行くような計画はそれほど考えたこともなく、信州あたりで蕎麦を食べて愉しんでいました。

東北には私の思いがこもっていましたので、しっとりと少しずつ道草をしながら北上をしてゆきます。夏の東北を愉しんで走っていました。

だいたい、私のツーリングは、峠越え。そして、秘湯を訪ねるのがテーマでした。ですが、何を思いついたか、1998年の8月10日に稲庭を訪ねています。この年の私が、旅の途中で少し趣をチェンジして一路稲庭に向かった理由は、もう忘れてもいいのかもしれない。

何がそうさせたのか。

あの年は、父を冬に亡くしまして、糸の切れた凧のようなものだった。愚かな回想も幾つか浮びます。

40歳を超えて厄年を迎え、仕事のストレスもあったのでしょうか。今であれば精神科にお世話になって病気の端くれと診断されているしれませんが、持ち前の明るさでそれほど深刻に見えないようでしたので医者には行かず、体調(不良)も出なかった。自分も上手に力の配分をしていたのでしょう。

俯瞰的にあの時期の仕事の内容や組織の体制を振り返ってみると、いつ爆発しても変でもなかったのですけど。諦めが早い性格が異変を生まないのかもしれません。私だから大丈夫だったわけで、ダメに成ってしまえる人が幸せなのか不幸せなのかはなんとも判断し難い。

そもそも、そういう社会が悪でありそういう組織が罪悪や泥沼の状態を生み出していたと私は考えつつ、ある意味で冷静であり、大きな意味で諦め放っていたのでした。

あのような国内最大の家電メーカ組織の中に技術者として放り込まれて、ヒトはどんどんと個人の特色性(個性)を失い(というか出せないまま持ち続けて)いましたので、それを見ているのも嫌であったし、自分がそれにまみれるのも嫌でしたから、数年後にチャンスを狙って抜け出したわけです。

「パーな」会社は、個を紡ぐのが下手な組織で構成されていたので、21世紀になって急激に崩壊の道を歩んでゆきます。宿命であったのでしょう。

という訳で、考えてみれば、ニンゲンとして一番究極の圧迫に追いやられている時期でして、それがこの1998年とか1999年であったわけでした。

1998年、私は稲庭うどんを食べるために、あの広い東北を北上し(佐藤養助商店定休日とかち合って)、再び1999年に稲庭にやっていきます。そしてまた定休日でしたが、それから再訪はしていません。

今度行くならツマと行きたい。

2013年10月29日 (火曜日)

こぼれ話 2  さぬきうどん ー 花も嵐もⅡ その61

■ さぬきうどん

不思議なもので、うどんであるとか蕎麦というものは旅人を惹きつける。どうしてなのだろうか。

味が脳みそにストレートに響くのだろう、という気がしている。理屈もなく旨ければ身体中が悦ぶのがわかる。

うどんに出会ったのは、偶然だった。

あるとき、宿のあてもなく、飛び込みで琴平YHに泊まることした。夜も遅く、夕飯が出来る時刻ではなかったこともあり食堂を探して町の中を彷徨った。そのときに1軒のうどん屋に入ったのが始まりだった。

店は、決して綺麗でもなく新しくもなかった。ファッショナブルなグルメブックにも無縁のような店で、そこに無愛想な爺さんいた。しかし、その爺さんが出してくれたうどんが格別に旨かった。

「この蒲鉾は坊っちゃんでも出てくる八幡浜の蒲鉾だ……」
みたいなことをボソボソと言いながらカウンターの向こうで調理をする粋な爺さんで、「さぬきうどん」って何だろう、どんな味がするのだろう、と私は不安だったが、食べて見て驚いた。

この旨さはどこから来るのだろうと、メラメラともっと食べ歩いてみたいという自然の欲望が燃え始めたのです。

(しょーもないグルメブームの煽りではなく、自分のセンサーが働いたのが、この上ない誇りだと思っている)

後にも、さぬきにはうどんを食べるために、四国に何度も立ち寄ることになります。

旅のステータスとしての食の満足は、旅の満足にまでなります。

私の人生にも大きな歴史を残してゆくことになります。

何度も何度も、四国を訪ねて旅した時期は、幸せな時代でした。

2013年10月28日 (月曜日)

こぼれ話  ─ 花も嵐もII その60

富山県の平村のガソリンスタンドの子供の話は、楢峠、牛首峠 【峠越え】で最初に書いた。花も嵐の初篇の15話でも触れている。[2008年9月6日 (土)]

私にしたら(読むの人に)嫌がられても何度も書きたい話なのだ。

□・
・□ 

秋になったら燃えるような紅葉がアルプスの山々で見ることがふ出来る。それを絶対に見に行こうと強く念願していて、仕事が忙しければ忙しいほどに必死でやりくりして行った。

人生には、情熱が必要で、これがないと乗り切れないのだが、さらに美しい欲望も必要だ。そのときの自分に欠乏しているものを追い続け、是が非でも手に入れてやろうという一種のハングリー精神に似たものが欠けては念願を叶えることは出来ないし、行動力のエネルギーが生まれてこない。

ガソリンスタンドの親子の話は、中学生だった子どもさんが何年も経ってから再びツーリングで訪ねてみると、大人になっていて子どもさんの手を引いていたという長い歴史を見つめる染み染みきた感情のエピソードだ。

今もう一度行けば、その子どもさんが親になって子どもを連れているのだろう。しかし、ガソリンスタンドが次々と閉められてしまう現実もあって、確認しに行くような旅を考えるわけにもいかない。

2013年10月 2日 (水曜日)

荷物落下紛失 花も嵐もⅡ その59

東北ツーリング('96.7.25.~8.6)

のなかで触れている荷物を紛失事件が辛い思い出のひとつだ。

( 鬼無里を楽しんで、せせらぎ街道を走って帰っ来る途中に)

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[8/6-1](安雲野~平湯~高山~せせらぎ街道)

せせらぎ街道でテントと寝袋以外の一式とメモがいっぱい書き込んであった地図や少しのスケッチなどの入ったバックを落とした。気が付いて止まったら後続車が少し戻った所に落ちてたと教えてくれたので期待をして戻った。でもなかった。悔しい。二往復もして探したのに発見できず残念であるが届を出して諦めることにした。(でも後続車の人は何故に拾ってくれなかったのだろうか??) 

□・
・□

日記にはこう書いた。

あのときは寝ても覚めても悔しかった。

だって、私の後には車は走ってこなかったし、すれ違っていった車もなかった。道路脇にも荷物も落ちていなかった。

私の荷物を拾得した該当の車はあの車しかなかったはずなんだけど、知らんふりをされたことが悲しかった。

荷物には東北の思い出がいっぱい詰まっていた。汚い下着のほかに他人にしたらゴミやガラクタばかりだった筈だから、何の得にもならないものを拾ったことになる。

地図にサラサラっと書き込んだ落書きやスケッチもなくしてしまったことがとても残念だった。

(そんなことがあって、荷物の固定には気を使うようになっていく。)

荷造りや道具のこと 花も嵐もⅡ その58

旅の荷物は、あれもこれもと考えると増えてしまう。だが、オートバイでは積載に限界がある。初心者のころはタンクバック、後に収納ボックスを増やした。

地図は塩ビファスナーの付いたの収納用文房具(A4サイズ)に入れるようになり、テントやマットも後部荷台に持ち歩くようになる。

■タンクバック

昭和50年代から60年ころまでのタンクバックは、ゴムベルトをタンクに巻きつけて固定していた。それが、マグネットに変化した。

荷物収納方法はタンクバック以外にも振り分けバックやトップボックスなどが普及していく。

たくさんの荷物を安定して積みたい。脱着が簡単で、雨にも強いものを自分で工夫した。

++

■収納ボックス&荷造りベルト

東北を旅していたときにコメリという小さなホームセンターを見つけて、固定用のベルトを何気なく買って持っていたのですが、その紐が後になって塩ビの収納ボックスをKLEのキャリアに固定するのに大いに役立つことになった。

市販の立派で格好の良いTOPボックスには劣るけど、1分以内で脱着できるし、雨の日も安心。固定紐を逆にすれば肩から掛けることが出来たし、キャンプではテーブルとしても良かったし椅子でも使えた。

このボックスの上にテントと銀マットを括りつけた。銀マットは、遠くからでもハッキリ見えるので、キャンプ・ツーリストらしいグッズだと持ち歩きながら嬉しくなった。

++

銀マットもエアーマットに代わってきたしテントもコンパクトになってきました。コンロ(バーナー、ストーブ)なども火力が強いものが出まわってますし、灯りも充実しています。

ロウソクのランタンなど、今はダサくて。
でも、灯りは乏しいほうが染み染みしていいなあと思うのはわたしくらいなのかな。

2013年9月30日 (月曜日)

高速道路とビックバイクの時代 花も嵐もⅡ その57

高校1年の誕生日が過ぎてすぐに免許をとったのか、2年になってからだったかは記憶にない。しかし、駅まで単車で行かなければ通学が辛いので、それなりに急いで免許を取ったと思う。高校時代は県内を走り回っていたが、大学時代は忘れていた。

京都に就職をして車を買うより単車のほうが手頃であったので、GW明けからデルタ教習所に通い、学生時代に捨ててしまった免許を1ヶ月間ほどで取得した。

高校時代からCBが好きだったのでホンダにしようと思っていた。エンジンとサスペンションの進化に驚いた。むかし夢だったDOHCのエンジンが普通になっていた。車種は深く考えずにCBXというものにした。

このころから単車と呼ばずに少しずつバイクと呼ぶようになったのだろうか。洒落ていてちょっと好かんけど、単車と言うと通じないことがあるから困る。

(前置きが長くなるので大幅に省略しよう。)

■高速道路網

ツーリングに高速道路を使うのは特別な場合だけで、ほとんどの場合は下道を走った。今のように高速道路網はしっかりしていなかった。東名高速と名神高速。阪神高速くらいのものだった。中国道も山陽道も後で出来た。(今だに馴染みがない。)中央高速は全線開通していた。

信州に行くときに、資金がある場合に限って利用した。北陸道は富山あたりまでできているときに一度走ったが、それきり特別な理由もないのでオートバイでは利用していない。東北の高速は旅に利用できるほど充実した道路網を持っていなかった。九州は熊本あたりのコンビニで、東京からぶっ通しで走ってきたばかりだという子に出会ったことがあったので、やはり九州までの道路の骨組みは通っていたのだろう。

そんな時代の人間なので、高速道路を利用する旅は構想しなかった。旅は下道を走って道の周囲の景色が過ぎるのみて、必要に応じて休憩しながら距離を走るものだという感覚を持っていたといえる。

青森県まで二泊三日ほど掛けて走り続けたときも、高速道路を極力使わないで行った。かなり頑固に頑張っていたのだと思う。

しかし、20年ほど間に、オートバイツーリングのスタイルがそういう風潮ではなくなっていく。

■ETCの充実

バイクにもETCが付き、みんなが高速道路を活用し始める。わたしはそれに乗り遅れた。ETCに投資するほどの資金に余裕もなかったし、高速道路を走ることにまだまだ抵抗があった。(走るのが嫌いではないことはわかってもらえると思う。)

■ビックバイクの時代

バイクの排気量も大きくなってきた。スピードを出して高速を長時間走るにはこれほど楽なものはないだろう。しかし、大きなバイクで旅をすることにも旅の本質的な面で抵抗を感じていた。目的地まで行くだけなら大きいので結構だが、そこから先の旅の真髄の部分に大きばバイクは不要だった。

私自身がバイクそのものを操って走り回ることを愉しむタイプではなかったからだろう。だから、ETC利用者が有利な価格で高速道路を走るスタイルや旅先で大きなバイクが目立ち始めたときから、そのうちバイクをやめて、徒歩か自転車か列車旅のスタイルに変わっていくだろう自分を夢に描くようになった。

そんなときに、キャンプ(野外活動)ブームのようなものが起こり、便利なグッズと充実したキャンプ施設が急増し、それを紹介するバイク雑誌や地図雑誌が常識化されて、嗜好の違うバイクツーリストたちが目立ち始めた。

私の性格からして、もうそこで終わりだった。いつバイクをやめるのか。思い切れない日々が少し続いた。

2013年9月26日 (木曜日)

無謀なこと 花も嵐もⅡ その56

無謀なこと、というタイトルを書いてあの頃を回想して反省している。

生きているから反省できるのだ。ということで、思い出すことを幾つか書いてみよう。

■スピードを出してガンガン走ったこと

よくぞまあ転倒したりせずにやってこれたものだ。ツーリングには無謀な速度は絶対に禁止としなくてはならない。これは全般に渡って言えることだ。

スピード違反で検挙さたことはなかったものの、知らない町に出かけて、快適だからといって、スーパー農道をぶっ飛ばしてはいけない。

まして、有料道路や観光道路を飛ばすなど、ツーリストとして残念な行いと思う。

それほどぶっ飛ばしたわけではないけど、

■横着をしたり無理をしたこと

面倒なので停止休憩をしないで走り続けたことが何度もあった。大雨(大嵐)の夜の高速を一気に長野から家まで走って帰ってきたことがあった。帰り着きたい心や逸る気持ちはわかるが横着をして暴走をしてはいけない。

それが……(続く)

■雨の高速道路

家へと急ぐ。しかも雨降り。あーあ。宿を探すよりも一気に家まで走ってしまおう、と考えたのだ。

夜中。雨降り。高速道路。

まさに、宇宙アドベンチャー映画の戦闘機の操縦シーンのようだ。遠くに見える車のテールランプに向かって突っ込んでいくような感じで走り続ける。

■オンロードのバイクで未舗装道を走った

限度をわきまえなかったことがあった。結構病みつきになるので気をつけた方がいい。

牛首峠に迷い込んだのが初期の頃だ。利賀村にそばを食べに行って、帰り道のルートで牛首峠を越えたときだ。

線路の石ころのようなバラストのダートに迷い込んで、それが間違った道であったと気づくのは、帰ってからゆっくり地図を見た時だった。

2013年8月27日 (火曜日)

無謀 花も嵐もⅡ その55

あの年、四国を回って西に行くルートは、室戸岬経由だった。

真っ昼間のフェリーに乗ったと思うので、徳島に着いたのはお昼すぎ。最終目的地は、Mさん夫妻と待ち合わせるのは奥さんの実家のある宿毛市だった。

その日の夜は、日和佐の駅だった。

テントを持って行ったものの、ホームセンターで3000円ほどで買った安物で、設営練習もしないで行ったので日和佐駅付近の海岸のキャンプ場で設営に手間取り、最終的には挫けてキャンセルして設営料金も返金してもらって、半べそで日和佐駅の立会室でオロオロしていたのだった。

あのときは、未熟だった。旅慣れしていないとあれほどまでに先が見通せず腹も座らず不安にも襲われるものなのだ、と振り返ることができる。言ってみれば、ほろ苦い思い出になっている。

朝から西に向かって再び走った。甲浦駅で道草を食ったあとは北川村付近まで一気に行く。詰まらない道だったというのがその時の記憶で、その後、何度も四国に渡るが室戸岬経由のルートはない。

北川村では、北川村温泉というところの宿に泊まった。一軒宿風で、小ぢんまりしていました。夕刻には少し早かったのですが、温泉に入って気に入ったこともあって宿の部屋もとって、午後はゆっくりくつろいだ記憶がある。しかし、そこのおばあちゃんが大変な情報を教えてくれた。台風が来ていて明日にでも四国全域で降り出すという。バイクも慌てて宿の建物の中に仕舞ってくれる。

一気に不安爆発となってゆく。と言いながらも、暢気に考えていたところもあるのだが……。

□■
■□

明くる日、雨は高知市街を通り過ぎたころから強く降り始めた。

台風のなかを宿毛のMさんの奥さんの実家まで辿り着けたのは、あとから考えても幸運だったとしか言えない。多分、あれほど酷い嵐の中をバイクで走った愚かな人はこの世に多くはないだろう。

バイクを停止させるにもそれが出来ない状態で、気圧の低下でアイドリングが下がるのにも苦労しながら、強風のなかを宿毛市内まで走り続けた

そのころ、台風は足摺岬に上陸していた。それを見学しようと車で出掛けた今回の集合メンバーたちは強風で空中に浮いたというほどの体験をしている。

大雨や台風・強風のなかを無理して、えいやーっというような勢いで突入してはいけないし、台風情報は入念の調べて、過剰過ぎる安全策を取らねばならないという教訓であった。

2013年8月26日 (月曜日)

トラブル 花も嵐もⅡ その54

旅には綿密な計画をするものの、計算違いやうっかりした間違いも実際にはある。
トラブルや無謀な行いを回想している。
 
初めての四国に行った年、和歌山のフェリー乗り場について大変なことに気がつく。
 
免許証と財布を忘れてきたのだ。幸いに郵便局のカードだけが手元にあった。細かいことまでは思い出せないが、クレジットカード、免許証、財布とは別の入れ物に仕舞っていたのだろう。
 
ツマに電話をして郵便局の通帳にお金を振り込んでもらい、免許証は宿毛市の訪問先に送ってもらうようにした。早朝4時ころに家を出て9時前に和歌山市に着いて、9時になったらすぐに振込手続きを頼んだので、10時過ぎに入金が届く。フェリーは予定より1本遅くなりながらも四国に渡ることが出来る。
 
しかし、このときはそれだけでは済まされなかった。

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