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BOOKs【読書室】

2017年5月16日 (火曜日)

柴崎友香 春の庭

春の庭を読み終えて

読後感想は後で書くわ

シャリンバイ 柴崎友香 春の庭

写真日記(5月中旬号)BOOKsから

宮下奈都「ふたつのしるし」絲山秋子「離陸」柴崎友香「春の庭」の三冊が棚積みのなかで目立ったので、とりあえず書店員さんのセンスを信じて三冊の中から絲山秋子を選んだ。

裏切りも失望もなく読み終えたのだが、残してきた二冊に後ろ髪を引かれるようだったので、柴崎友香を買って読むことにした。

宮下さんは慌てなくてもええような気がした。

春の庭は芥川賞作品なのでちょっと期待も大きい。

読み始めた時に私の芥川賞読破履歴をきちんと調べず、とにかくワクワクで期待も大きい。

読後に調べて見たら、宮本輝の螢川と絲山秋子の沖で待つ、さらに、村上龍の限りなく透明に近いブルー程度を読んだに過ぎない。

芥川賞の読書経験はほとんどなかったことになる。

学生時代に登場した村上龍という作家のなんともシャレたタイトルの限りなく透明に近いブルーの読後印象がイコール芥川賞だったのかもしれない。

それで今回久しぶりに、最近の受賞作品を。

なるほど、これが芥川賞か。

時代の変遷で賞の色合いが変わってきたのか。

昔から一貫した方針だったのか。

なんとも言えない。

美味しいと評判のレストランを紹介されて喜んで店に行き特別料理を食べたら、近所の商店街の人気店の方が旨かった・・・みたいなかんじ。

芥川賞はしばらく無関心でいることにする。


恩田陸 の本屋大賞のこともあって
書店員さんのオススメも無視することにする。

共感できる書評をオープンにしてくれる本屋を探すのは
難しいことやなとつくづく思う。

学生時代の神田の街が懐かしい。

2017年5月 8日 (月曜日)

絲山秋子 離陸

感想 もう少し直しそうな感んじ でもそのままかも

絲山秋子 離陸

P12

そして悲しいことに、ぼくはしばしば自分に近しかったひとの面影すら忘れてしまう。

なによりも大切に思い、「好きだ」と何度も言ったひとのことでさえ、きっとどこかで元気に暮らしているんだろうという楽観のもとに忘れ去ってしまうのだ。

人間には想像力があるといっても、結局のところ思い浮かべることができるのは、現在とその僅かな周辺、森の端の川辺のようなところでしかないのではないだろうか。

P43

彼女のことを思い出すとき、人間の記憶は時系列じゃないんだな、と思う。

最初に彼女のことをどう思って、どうやってつき合い始めたかではなく、どうしても別れのところから記憶がはじまってしまう。

今でもまだ懐かしさより苦しさを感じる。

肌にくっついたガーゼが傷を破らないか気にしながらじわじわと剥がすように、言うなれば男らしさの微塵もない態度でしか自分の記憶にアプローチできないのだ。

P94

「回り道をするような相手はだめだね。上手くいくときは何も考えないでもサッサッといくんだから、そういうんがいい。最初に苦労すれば後からやっぱり苦労する。

なにも考えてなさげなひとのほうがしあわせなふうだよ。」

2017年4月16日 (日曜日)

そう言うわけで 絲山秋子「離陸」を

4月になって
一段と肩の力を抜いて
仕事に取り組んでいる

その方がいろんなことに
バランスが良いような気がする

(14日)
ムスメさん急遽旦那さんがお休みになって
造幣局の桜の通り抜けを見に出かけた写真が届く

絲山秋子 離陸 柴崎友香 春の庭 宮下奈都 ふたつのしるし 小沢信男 ぼくの東京全集

車窓から チヌ 生姜焼き お昼の弁当パック 雨が上がって筍もらいました

写真日記(4月中旬号)

造幣局の通り抜け 造幣局の通り抜け 上六でたこ焼きを

M's Zoom

2017年3月28日 (火曜日)

稀勢の里から揚げ食いつつもらい泣き

恩田陸を考え続けていて
Y先生にもメールで感想を伝えて
返事で

「蜜蜂と遠雷」、合いませんでしたか…💦 
あんなに分厚い本を読んでもらったのにねぇ

と慰めてくださったんですが
私はモヤモヤとしていて
あんな感想【BOOKs 】を書いているのです

けど

心を切り替えて
宮本輝の満月の道( 流転の海 第七部)を
鞄から取り出してふたたび続きを読み始めると

恩田陸のモダンなタッチと違う
宮本輝のしなやかさのようなものに
再会するのです

宮本輝を読んで今までには一度も思ったことはなかったのに
谷崎潤一郎をふっと思い出すような宮本輝の物語の作風であったりして

ここに戻ってきてみると

私がモヤモヤしていたのは
恩田陸のこの作品の良し悪しではなく
味わいの違いに旨味を感じられなかった
としか考えられない


恩田陸 蜂蜜と遠雷 から揚げ

写真日記(3月下旬号から)

2017年3月 6日 (月曜日)

宮下奈都 静かな雨 (読後1日が過ぎてからの感想)

  • 眠れば消えてしまう月
  • 速すぎてつかまえられない夢の場面
  • ふたりで歩いた帰りに浮かんでいた月
  • ただものじゃないこよみさん

そんなふうに走り書きを残して

これは宮下さんが夢で描いた物語の断片であって

それを丁寧に集めてきた作品なのだ

と思っていた

人のイメージをさらさらっと説明するように軽々しくは書かないで

不安と喜びとを混ぜ合わせて

不思議と不明とどうでもいいことなんかもミックスして

そこに優しさもブレンドして攪拌するようにしているみたいだ

そんなふうに言ってしまえば誰だってできるみたいに思えるのだけれども

宮下マジックのようなものがあって読者はそれに掛ってしまう

夢は不幸せあっても幸せであっても構わないし

男の子が情熱的でなくてもいいのだ

日常の詰まらないできごとをちょっとスパイシングすると感動的になってくるのだけど

そんなわかりきったことであっても

いつか覚えていたはずなのに

忘れてしまうでしょ

きっと宮下さんはそれが悔しくて

失ったり忘れたくなかったから

自分の中である日

幻のようにできあがった物語に

意地悪なスパイスも振りかけて

忘れかけていたドラマのようなドラマでない日常を

思い出して

夢の断片のように纏めたんだろうなあ

すらすらすらと書けないときもあったさ

その時間も苦悩も大きな凹みもそれ自体も姿を変えて物語にしてしまった

それが第一作だった

本当は消えていった作品が山のようにあったんだろうけど

いかにもこれですよ…みたいな第一作

宮下さんはもうこれを書いた宮下さんには戻れなくなっている

それでいいのだ

困ったことが僕に一つできたのですよ

鯛焼きを食べるときに宮下さんとこの物語のことを思い出すのです

そして恋するとか愛するとかそういうことを考えて

諦めてきた哀しい過去と叶わなかったいろいろを思い出して考えてしまう

物語には続きもなければ終わりもないのだ

おしまいのシーンって何だっただろうか

それでいいのだ

宮下奈都 静かな雨

2017年3月 5日 (日曜日)

宮下奈都 静かな雨

読後の10分後に書いたほかほか感想付き
しっかりしたのは後でじっくり書く


BOOKsから

宮下奈都 静かな雨

2017年1月29日 (日曜日)

島泰三 孫の力―誰もしたことのない観察の記録

ちょうど私にも1歳に満たない孫がいる。その孫は三日に一回ほどのペースで帰泊する。

作者はサルの研究者ということでとても面白い視線で子供を見る。そういうところは数学物理系の視点で同じものを見ている私にとってはある種の新鮮さを感じる。

しかし、書物としては面白くないと言ったら野暮ったいか。

島泰三 孫の力―誰もしたことのない観察の記録

私は現在進行形で孫を観察している。だから、私の観察ノートの方がリアルでオモシロイ。

🍀

孫のある人や身近にある人は、楽しく 読める書物になり得るかもしれない。全く孫のいない人は、サル学の本を読む感覚に似ているの、面白いこともあるかもしれないが、初めから猿の本を読めばいい。と言いながらもまずまずオモシロイ。

でも私は燃えるようには読めなかったのも事実なんやな。

🍀

学者としての業績は輝かしいものがあって、専門を学ぶ人がその専門的な書物として 読めば素晴らしいものがあるのだろう。しかし、一人の市民が読書を楽しむ書物としては大勢にオススメしてもがっかりされると思う。

新書の持ち味としての狙いは良かったのだが、孫自体に目がいっていて、他人が読んでもおもろないし退屈であるし、ひとりよがり的にも思えてくる。

分析する視点はまた違った専門家として大いに参考になるけど、取り上げているのが孫であるだけに、孫が「じいじ」と呼んでいる様子などが出てくると三流の育児日記に思えるし、私にはじいじなんて言葉は気色悪いし、どんどんとハッとしない方向に落下していく。

育児の参考書として読もうとしているわけでもないのですし。

例えば、孫の深層心理とかストレスの分析とかであったら面白くて興味も出るのかもしれない。

2016年12月28日 (水曜日)

師走の読書ノート

ゆっくりと
年末年始を
過ごそう

恩田陸 蜂蜜と遠雷
島泰三 ヒト―異端のサルの1億年
島泰三 孫の力―誰もしたことのない観察の記録
島泰三 親指はなぜ太いのか―直立二足歩行の起原に迫る

2016年11月 5日 (土曜日)

「天才」読後に考える

(読後感想)石原慎太郎 天才


(そのあとに考えたこと)

▽高度経済成長期を経て現代へとモノがない時代から充分な時代に変化してきた

▽今や、その過程での変化の様子さえも知らずに豊かで幸せな暮らしをしている人が多くなった

▽一億総中流意識という言葉で社会を例えた時代も終わった

▽さて中流ってなんだろうかと答えられる人が少なくなり、中流とはどうあるべきものかというポリシーも失せている

▽モノのない時代から満たされた時代へと変化する過程を見続けてきた人々は、怪物のように国家予算を食いつぶしている健康・医療・介護の方向を見ている

▽格差が生む歪みに気付きながらもそこまで手が回らない、意見をいう元気もない、という状態ではないか

▽そういう意識の蔓延の影響が大きいのだろう、自分自身が中流(やそれ以下)であってもそれは最早何の課題でもなく、幸せというよりもその言葉自体が安心という意味合いにカラーを変えつつあるように感じる

▽そして、上述の話をされても大きく頷くことのない何割かの人々との歴然とした壁(段差であり格差であるのだ)が年々厚くなりつつある

▽不思議なことに、そういう軋轢などという生易しいものではない大きな段差にさえも、かつての国民が持った中流意識のようなものが定着して、一向に社会を改変する動きも現れてこない

▽きっとこの不均衡はどこまでいっても修正されることはないだろうし、満足意識が不安意識に変わることもないだろう

▽経済指標が表す物質的格差に加えて心理的な段差は、さらに大きくなってゆくものの、全てを技術として捉えてしまうようになってゆく未来で、人々の心も精神、痛み、苦しみなどの定量化して分析をすることを困難とされてきたものまでもを克服したかのように、社会は人々を宥めていってしまう

▽未来には、弱者はいつまでも弱者で悲しみも怒りも持たずに社会の片隅で生き続ける世紀になってゆくのかもしれない

▽少なくとも1960年代から70年代にかけて通用してきた手段や手法は再び適用できるようにはならないし、そのころに存在したような人物が再来したとしても最早古臭いものと捉えることになろう

▽新しいものとは何か、それは誰もが予測できないものであるのだが、現代の人々が考え出す(暴走している)科学の一種になってくるのだろう


BOOKsから(「天才」読後に考える)

石原慎太郎 天才

2016年10月30日 (日曜日)

石原慎太郎 天才 (感想)

BOOKs から

石原慎太郎 天才


石原慎太郎という人は、政治姿勢や手法において、タカ派色が強いとか言われ、確かに大雑把に考えて好きにはなれないところがありますが、思想で人を嫌うよりもきちんと話を聞いて同意ができるかどうかを論じるのが本当でしょう。ただ、発言がさっぱりとしているし、歯に衣着せぬところがありますから、腹が立つ人もあれば好きだと言う人もありましょう。

しかし、今の時代は、彼でないと遂行できないことがたくさんあるし。おとぼけ国民をぐいぐいと引張っていくためには不可欠な人物でもあるわけで、世の中を改革したり新しく構築していくときには綺麗ごとだけでは済まされず、この人のように、神がかり的な技と力が必要なんだということでしょう。

だから、思想的には幾つもの反発点がありながらも、別の面で褒めてやりたいこともたくさんあって、嫌いだからと言ってぶっ殺すわけにもいかないでしょう。

小説家としては好きですし贔屓にしているし、読むしかないわけです。

田中角栄という人はまさに天才です。
これほど上手な作品タイトルをつけられる人は石原慎太郎以外にはいないでしょう。
だから、石原慎太郎も天才です。

惚れ惚れするような人物だったのでしょう。
政治家として正しかったかは賛否があろうかと思いますが、田中角栄という人がいなかったら、日本はもしかしたら滅茶苦茶だったかもしれない。

行政組織のやっている仕事を高みの見物的に眺めてみて切実に感じるのは、政治家が敏腕を振るわずそれなりに事を済ませても、役所の担当者(役人)が卒なく仕事を済ませて行けば社会は上等に循環します。(少なくとも市民は欺けます)

そういう点では、あまり目立たなず失敗もしない政治家や行政人が優秀と言えて、ほんま、切実にそういう愚かな側面が厳然と存在します。

しかし、田中角栄はそれでは済まされないのだという意思があったのです。
失敗したら、大変だから、適当な政治家で終わっておこうとは考えなかった。

あの人には希望があって、夢があったし、さらには使命を持っていたのだと思います。
人物の器とはそういうものだろうと思います。

旅をしていた頃に新潟県へと隣接県から峠を越える瞬間のあの驚きはとても忘れることなどできない。

世の中のために全力を尽くすには、自分自身の土台となるものをしっかりと掴むことが条件の1つです。これは不可欠な条件で、潜在的な力として毅然と存在していますし、その先には全ての人々を幸せにしてやることが必要だったのです。

そこに来て天性の敏腕があって先見性があって、人材を操作する術を持っていた。
金権が追求されますが、それはそれで、人間として強欲な点がそれほど前面には出て来ず、ある種の必然性のようなもので肯定している。
小説として自由さがありますから。

でも、(反発しながら)あらゆる個性を石原慎太郎は好いているのですから、アメリカに陥れられた(仕返しされたみたいなもんですが)汚職事件の被告人への道筋を、公然とハメられたから可哀想だとは書かないけど、でもやってきた政治の足跡はこの人物でしかできなかったと認めている。

石原慎太郎がどのような思想の持ち主でどんな色の政治家なのかは公然の事実で、ある意味では田中角栄よりもざっくばらんです。
小説家であり政治家であるのだからそれほどな悪人色を出すわけにもいかないけど、結構似ているところがあるのでしょう。
一方で各論的にはイデオロギーとしてもある種の対立を持っていたのかもしれませんが、この小説は政治の話がしたいのではなく、人物の話をさらりと描きたいと考えたはず。(ロッキードに関わることで結構ページを占めてましたが)

しかし、似た者同士は反発するから口では嫌いだと言いながらも心の中では違った形で尊敬をしていたのでしょう。
最初にも書いたけど、この作品のタイトルが「天才」であって、どこにも田中角栄という人の名前など出て来ないのです。

今では確かに現代社会に合うわけではなく、待ち望んでいるタイプでもないのでしょうが、読むほどに、ここに出てくる天才的な人物の人間味を切実に感じます。そんな作品でした。

もう一回、角栄さんがしゃべっているところを見たい。

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